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”食べられてしまう”ラー油への憐憫 下
この記事は、前回の記事の続きです。
ここで、食品の話しに戻りたい。「食べる食品」このように言うと、やはり当たり前に聞こえる。では、例えばこういう場合はどうだろうか「食べるサンマ」。
それでも一見当たり前に思うかもしれないが、サンマは本来食べるものだろうか。確かに私達はサンマを食べる。しかしながら、サンマは私達に食べられるために生きているわけではない。
彼らは大海原の中、子孫を残すために生きている。彼らの本来の姿とは、いうなれば、”生きるサンマ”であり、”繁殖するサンマ”なのである。決して”食べられるサンマ”ではない。彼らは、人間に食べられるかどうかを問われるよりも前に、彼ら自身としてただ”存在している”。
私達がサンマを食べ物と認識するのは、私達がサンマを食べると選択しているからである。彼らが本来食べられるべき存在だからではない。
同様に、他の「食品」についても考えてみたい。食べる豚、食べるほうれん草、食べる米...。このように頭に”食べる”をつけていくと、これらは、本来は食べられるために生きているわけではないという事実が浮き彫りにされていくように感じる。
このように、多くの「食品」と呼ばれるものは、本来は人間の食べるという行為とは関係なく生きている生命である。
「食べるラー油」という商品名が私達に突きつけうる問は、どこまでも深いものである。
今度スーパーに行った時は、そこに並んでいる「食品」の名前に頭の中で”食べる”と付け加えて欲しい。食べることが当然では無いのだ。そこにあるのは、食べ物ではなく、生命活動の結晶体なのだ。それらは、本来は違う目的を持って生きていたが、私達がそれを食べたいと思ったがために命を落としたのだ。
そのことをもう一度思い出せば、忘れかけた「いただきます。」の意味を改めて噛み締められるようになるだろう。
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