沖縄野菜クラブ 12 三回目の狂気
地獄の芋掘りリレー三回目。(地獄の理由は前回の記事を参照されたし)
太陽は今週もまだ残暑を地面に打ち付けていた。
開始当初、畑上空を通り去った天気雨も、我々の体感温度を下げることはついに無かった。
今日は、イモを見る私の目が最初から死んでいた。
これは、野菜クラブに来るのが嫌だとか、そういうことではない。
ただ、三週連続で大量のイモを掘り出すという作業は、人間のイモに対する興味を圧倒的に削ぎ落とすものだということである。
(私淑するみうらじゅん氏の言葉に、「嫌いにさせたければ、大量に与えよ」という内容のものがあったと記憶しているが、身にしみて実感した。)
とにかく、私の目は死んでいた。
しかしながら、私の理性は生き残っていた。
それどころか、本来は目に宿っていたはずの生気が全てそこに注ぎ込まれたかのごとく、それは活き活きとしていた。
活力みなぎるこの理性は、私が置かれている状況を的確に理解し、そこに潜む不条理を、一つ、また一つと、つぎつぎに発見していった。
なぜ十月も二週目に入ったというのにこんなに暑いのだ?
なぜ今日は大きいスコップが無いのだ?
なぜこんなに運動をする日に限って私は寝不足なのだ?
私の理性はさながら、疑問を紡ぎ出す糸車のようであった。
そして、その糸車の車輪のようにぐるぐると回り続ける思考が四肢を支配していた。
体のだるさ、暑さ、喉の乾き、めんどくさいという気持ち、その他いくつもの雑念が私の体を掛けめぐった。
しかしながら、これら種々の雑念をもろともせず、私の理性は、私が今いる場所、そこに来た理由、そこでやるべきこと、を鮮明に把握していた。
すなわち、「私が今日この畑に来たのは、イモを掘るためである」という事実をこの理性はしっかりとその身にくくりつけ、それが忘却の彼方に流れ出てしまわぬようにしていたのだ。
そんな理性は今、本日の目的達成のため、私の体を起動させた。
理性はまず、私の右の腕を動かし、鋤を持ち上げたかと思うと、今度は足を押し出して、私の体をイモのツルが生い茂る畝へと導いた。
上腕二頭筋がミシミシと音を立てるやいなや、鋤が勢いよく地面に突き刺さっていく。
その衝撃で崩れた土の中で、イモの体が一瞬、紫色のシグナルを放つ。
膝を曲げ、重心を斜め前に移動させた理性は、すかさずシグナルが発信された場所の周辺を手で慎重に掘り始める。
イモ全体の半分くらいが露出したと思しきタイミングで手を止め、イモの”ゆるみ”を確かめる。この”ゆるみ”が弱ければ、もう一度掘る。そしてまた確かめる。
ゆるみが十分に増大したことを感知すると、理性は右の手をして、その五本の指を大きく開かしめ、後、イモを鷲掴みにする。
そして、イモの生えている方向性に逆らわないようにそっと抜き取る。
抜き取ったイモの表面にはドロが付着している。これは本日の天気雨のせいである。
この粘土にも似たドロの塊を払い落とすと、理性にとっての最後の仕事が待っている。
それは、私の頭蓋骨に付着している、死んだ両の目を働かせるということである。
死者に鞭を打ち、イモに穴が空いていないかを調査させるのだ。昆虫の侵入を検知させようというのだ。
あった。穴だ。
脳細胞に電流が走る。
理性はおもむろにイモを持った腕を振りかぶると、遠くの草むらに、放つ。
ただ機械的に、どこまでも冷淡に。
私は、自分が理性に操られるデクノボウであることを、弧を描き、宙を舞うイモの姿に通達される。
そして、そのイモが地面と再会する頃、理性はすでに腕を操作し、再び鍬のコントロールを獲得している。また次のイモを掘り出すために。
ああ、初めてイモを掘ったときのあの感動は、一体どこに行ってしまったのだろうか。
気がづくと、塩水が頬をつたっていた。
一瞬、涙かと思ったが、汗である。
またあのいやらしい理性が、私に汗をかかせて体を冷やそうとしているのである。
さながら車のラジエーターが冷却水を出し、熱くなったエンジンをまだまだこき使おうとしているかのように。
私の死んだこの目からは、もう、何も流れ出ることは無い...。
※上記の内容は全て、あくまでも筆者個人の心象風景であり、本来の野菜クラブの活動とは一切関係ありません。皆様、どうぞお気軽にご参加ください。
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