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バナナ

バナナを毎朝一本食べるようになって、もう何年経つだろうか。

初めて一人暮らしをしたときから続くこの習慣は、合理性と怠惰の間に生まれた。

値段が安く、手軽に食べることができ、健康的で、ついでにまあまあおいしいものはないか。

パンを食べる習慣がなく、朝から炊飯釜を洗う手間も省きたいという怠け者はこのようなことを無意識のうちに考えて、朝食を決める。

バナナはこれらの条件を全て満たしている上、スーパーですぐ目につく。

私にとって、特に熟慮することもなくこの果物に手を伸ばしたのは、今思えば必然だった。

それからというもの、外国も含め何度か転居した。

しかし、この習慣は途絶えなかった。

どこに行っても、バナナを売っていないスーパーマーケットは無かった。

その供給が途切れたタイミングも無かった。

「◯年ぶり」という言葉が飛び交うような異常気象や、コロナや戦争のような人間社会を混乱させる事件が幾度か地球を襲ったように思う。

そんなニュースを目の当たりにするたび、この世界の不確実性に対するなす術の無さに無力感を覚えることもしばしばだった。

しかし、バナナが最寄りのスーパーから消えるという心配をしたことは一度も無かった。

あの自動ドアを通れば、眼の前の商品棚に山と積まれたバナナがあることは、いつの間にか、絶対普遍のことのように無意識に埋め込まれていた。

しかしそれは、本来、絶対普遍などではないはずである。

日々、どんなに世界の状況が変わっても、その中で絶え間なくバナナを育て、運び、買付け、店に並べるという人間の地道な活動があってこそ、このようなことは可能なのである。

話は少しそれるが、前例主義というのは、ともすればただの思考停止状態であるかのように扱われ、批判されることも多い概念である。

変化の激しい時代にはついていけない考え方だと、目の敵にされることもある。

しかしながら、これだけ千変万化する世の中においても、前例を踏襲し続けるには、それ相応の努力が必要なはずだ。

雨が降っても槍が降ってもバナナがスーパーに並んでいるというのは、不確実性に対する前例主義の勝利と呼ぶことができるのではないだろうか。

当たり前のものが当たり前のようにそこにあり、それを意識すらできないというこの状況を作っているのは、日々眼の前にある、(そのほとんどにおいて)前例を踏襲した労働の数々である。

時代の風に翻弄されてニヒリズムに陥りそうになったときは、とりあえず前例主義に身を任せ、思考停止でも良いから手を動かしてみるのが良いのではないか。

それは、倒れることなく回り続けるジャイロスコープ(地球ゴマ)の回転軸のように、誰かの、そして自分自身の当たり前を支える礎になっているだろうから。

そんなことを考えながら、今朝もまた、バナナを食べる。

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Takumiのessay
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