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20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第20話
我がバンドは3カ月に1度ほどのペースで定期的にクラブ・クアトロでのライブをこなしていた。
1992年の夏には川崎の「クラブ・チッタ」のステージにも上がった。
ある時のクラブ・クアトロのライブの翌日、朝起きて家の洗面所の鏡を見ると、自分の顔が「もの凄くスッキリと輝いている」ことに自分で驚いた。
やっと、やっと、「音楽の神」に祝福された気分であった。
さて、ところが好事魔多し、トランペットのホリちゃんが実家に帰ってしまうことになった。
私はホリちゃんの「ファンク精神」を心から愛していたので、いたくショックを受けた。
しかし、「ファンクは止まってはイケナイ」(ジェームス・ブラウン・談)のである。
そこで以前からよく我がバンドのスタジオやライブに遊びに来ていたZ大学出身(前述のわんわんバンド)のカンちゃんを新メンバーに迎え入れた。
カンちゃんは初登場のクアトロでのライブにピンク色のアフロのズラをして登場してパーカッションを叩き、「さすが、分かってる!」と私は大喜びした。
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同じ頃、「GO-GOの王様」チャック・ブラウンが来日をした。
我々のバンドはいち早くGO-GO(※註1)を取り入れており、先輩バンドのフライング・キッズのメンバーから「日本一のGO-GOバンド」の称号を貰っていた。
そしてこの時期は、EUやトラブル・ファンク等の若手GO-GOバンドの勢いもあり、世界的なGO-GOブームに沸いていた時期でもある。
我々バンドは、ほぼ全メンバーが集結し、一路会場であるクラブ、西麻布「イエロー」に向かった。
夜の10時を回った辺り、チャック・ブラウン&ソウル・サーチャーズのメンバーがステージに登場した。
先のニューヨーク旅行でのエピソードでも触れた通り、オリジナル・ドラマーのリッキー・ウェルマンはマイルスに引きぬかれ、この時のドラムは「ウィリアム・ジュジュ・ハウス」だった(筆者註: ジュジュ・ハウスは、同時期に「SMAP」のアルバムに参加している。この時期GO-GOがどれだけブレイクしていたか、の証である)。
さて、我々メンバーはステージ最前にかぶりつき、躍り狂うだけではなく、的確な歓声と合いの手を入れた。完全に「プロの客」である。特にギターのハラはGO-GOが大好きで、この時の来日はもちろん『JAZZ LIFE』でガッツリと記事にされた。
さらに「GO-GO大好き」な我々岩石一家のメンバーたちは、チャック・ブラウンでのライブのお約束である「Wind me up Chuck!!!」と客が合唱してリクエストして彼らの曲『Wind Me Up』が始まる、と言う流れを完璧に再現した。
もうチャック・ブラウンと彼のバンドは超大喜びである。
そして何と、ウァリアム・ジュジュ・ハウスはライブが終わるとステージ真ん前の私とメンバーたちのところに真っ先に向かってきて、握手をした。
我々を取り巻く「世界」の全てがグルーヴしていた。
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そんな1992年の盛夏、
我々バンドメンバーと、その彼女達や知り合い総勢20数名で伊豆に旅行に出かけた。
費用はもちろん「ライブのギャラ」である。
この頃の我々の毎回のギャラは10万~15万ほどあり、アンプのレンタル、機材車の駐車場代等の経費はそこから出していた。
そして、そこから上がった利益を「福利厚生」に廻したのである。
旅行当日は沼津で待ち合わせをして、私は卒業後にカメラマンをやっており、我がバンドの取り巻きだったヨシオの車に乗って、真夏の伊豆高原のワインディング・ロードをクルーズした。
天気は狂ったように晴れて空は真っ青、
伊豆の山の樹々が真夏の太陽を反射して緑の光線を放っていた。
BGMは発売されたばかりのパット・メセニーの『シークレット・ストーリー』。
ブラジリアン音楽の影響色濃いこのアルバムを爆音で流し、ヨシオの「ホンダ・シティ」は伊豆の山間を滑るように走る。
タラララ〜ラ、ティ〜ラ、ラララ〜🎵
サウダージなコーラスが伊豆の山間の緑に溶けていく。
そしてBGMはこれまた発売されたばかりのデビッド・サンボーンの『アップ・フロント』に代わる。
「世界的なファンク・ブーム」のピークで発売されたサンボーンのファンク・アルバムである。
この頃、パット・メセニーやデビッド・サンボーンの「ジャズ=フュージョン」を我々のプライベートの飲み会ではよくスピンしていた。
我々のバンドは、基本的にファンクを基本としていたが、同時に(もちろん私も含めて)ジャズ好きが多く、先に述べたようにギターのハラは『ジャズ・ライフ』の編集者であった。
加えて、私は、彼の勧めで同誌にジェームス・ブラウンのライブ映像のレヴューを買いたら好評を博し、その後数年間に渡って『ジャズ・ライフ』誌に毎月原稿を書いていた。
そのうち、ハルノが本職のカメラマンとして『ジャズ・ライフ』誌の仕事もやるようになった。
そして、岩石一家のライブ・レビューは毎回『ジャズ・ライフ』誌に掲載されていた。
「世界」は我らが手中にあった。
そんな間に車は伊豆の下田の白浜ビーチに着き、バンドメンバー、彼女たちや友人、一同みんなで海に入って大はしゃぎした。
ひとしきり騒ぎ、午後になって陽が落ちてくると、我々は再び伊豆の山間を走り、西伊豆の松崎町を経由して「石部」という小さな村落に着いた。
ここには「浩美屋」という行きつけのアットホームな民宿があり、
この日は全館貸し切りであった。
この宿は、我々の美大の軽音楽部の行きつけの宿であり、我がバンドはその伝統を引き継いでいた。
それぞれにひと風呂浴びると「食堂」に集合した。
夕食である。
20数名全員揃うや、
「すみませ~ん!ビール100本くださ~い!」
と声をかけたら、「すみません、10本づつでお願いします」と若女将に真顔で言われた。
そのまま「離れ」に移動して、下田で仕入れた日本酒を呑みながら宴会である。
恒例の「怖い話」や「フッシーの彼女がつくった松田聖子風のオリジナル曲」で盛り上がると、モロオカが「風呂行こうぜ」と提案した。
我々はそれぞれ車に乗ると、隣の「岩地」という村落の断崖絶壁の上にある「公共露天風呂」を目指した。
到着するも、もちろん照明は無く真っ暗。月の光に照らされて湯気が光っている。
こからは駿河湾が一望できた。夜の海は月の光に照らされて輝いていた。
女風呂から女性チームの声が聞こえてきた。
すると、突然オオヤマが男女の風呂を隔てる壁を登り始めた。
当然我々も後に続いた。
美術大学の女の子たちはゲラゲラ笑っていたが、そのまま「みんなで混浴」した。
翌日は海岸でバーベキューを楽しみ、昼寝をしていたハッシーにみんなでロケット花火を打ち込んだ。
絶えない笑い声が真夏の青空に溶けていった。
正に「終わらない夏」であった。
(つづく)
※註1: 「GO-GO」。アメリカのワシントンDCのローカル・ブラック・ミュージック。「ハーフタイムシャッフル」のリズムを元にラップやジャズ名曲の引用を差し込みながら何時間も止まらずに演奏するフォーマットを特徴とする。