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ある日突然、ザ・ビートルズについて考えてみた。「ロックとリアル・ファイト」

ザ・ビートルズ。

勿論キライでは無いが、ザ・フーやローリング・ストーンズほどには私の心に響いてこない。
ノスタルジーは確かに感じるのだが、、、。

何故だろうか?

突然、考えてみた。

恐らくその理由は、
1966年を最後にライブ活動を止めたことにある、
という仮説に至った。

初期の楽曲におけるツンのめる様なガレージ・パンキッシュなドライブ感は今でも心沸き立つ。
さて、ここからもう一段鍛え上げて第二形態へと進化しようとする矢先、
彼等はライブ活動を止めた。
1966年の出来事である。

その後は、スタジオワークによるアルバムのみの活動によって彼等の存在は神秘化されて行った。
しかるに、確かにアルバムの完成度は高まった。

「スタジオ録音作品」というカテゴライズにおいて、この時期の「ロック正史」におけるビートルズの評価は大変に高い。

そのビートルズのスタジオワークの頂点の一つ『サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツクラブ』は、ブライアン・ウィルソン率いるビーチボーイズの『ペットサウンズ』からインスパイアされている。

歴史の審判を経て今改めて両者を聴き比べると、明らかな決着が付いている、もちろん『ペットサウンズ』の圧勝だ。
時間が止まった桃源郷のごとき『ペットサウンズ』の世界は、世の中が変われば変わるほど、永遠の輝きを放ち続けている。

比べて『サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツクラブ』は分が悪かった。
何しろ相手は西海岸のモノホンの基地外の引きこもりだ。
しかもビーチボーイズのメンバーには演奏させず、歴戦の殺し屋集団レッキングクルーがサウンドを固めている。
もちろんビートルズもスタジオさんを使っているが、
「アルバムという脳内世界」対決においては、
「脳内世界=脳内純度=基地外度数」による差が年を経るごとに広がっていった。

『サージェントペパーズ』というアルバムは、本物の基地外による『ペットサウンズ』を上手くパクってビートルズ風味をトッピングして「いわゆる傑作」とはなったが、アレはビートルズ本来の魅力から離れてしまうキッカケになったのではなかろうか。

その理由だが、
ビートルズは「ライブ活動引退・スタジオワーク専念」と引き換えに彼等は「実戦的(リアル・ファイト)身体」を失ったことにあると考える。

ビートルズとは元々「フィジカル」の選手だったではなかろうか。

ライブという実戦から足を洗って、
「純度100%の脳内桃源郷」ブライアン・ウィルソンの最高傑作ショックを受けて真似してみたが、
その音からはフィジカルが無くなっていた。

さらに歴史的な背景として、1960年代の半ばからロック・ミュージックが政治色を帯び、いわゆる「能天気」なビーチボーイズよりも、「意識高そう」なビートルズの『サージェント・ペッパーズ』に当時の意識高い風味の団塊ヒッピー諸君は靡いた。

これが「歴史の審判」を経て、『ペットサウンズ』の凄味の方が生き残ったのである。

さて、
そんなビートルズが実践のリングから身を引いている間、ザ・フーやストーンズはライブの場数をこなし、実戦的身体を極限まで鍛え上げ「ロック・フィジカル」を獲得していった。

その中もザ・フーは実戦最強を謳歌そしていた。
ミック・ジャガーが主宰しビートルズの面々も参加したTVショー「ロックンロール・サーカス」において、ザ・フーはその殺し屋ぶりを大発揮し、ザ・フーの演奏の余りの凄さにビビったミック・ジャガーは番組をお蔵入りにしたとされる。


だがローリング・ストーンズも負けてはいない。
ライブで鍛えこんだ「チャック・ベリーのコピーバンド」は、本家を凌駕する異様なグルーヴを手に入れた。
ストーンズのライブを体験した方ならお分かりだろうが、高校生のストーンズ・コピーバンドより下手なんじゃね?というヨレヨレの演奏に指を指して爆笑しているうちに、いつの間にかドス黒い霧が立ち込めてき始め、気がつけばヴードゥーな呪術的グルーヴに取り込まれている、というアレだ。

さて、ビートルズ解散後、メンバーたちが挙ってライブ活動を再開した事は象徴的だ。

そして「ビートルズという神秘のベール」を脱いだ彼等は、割と普通のロック・ミュージシャンだった。

ウィングスやレノンのソロは、同時期の実戦的フィジカルのピークを迎えた作品『イッツ・オンリー・ロックンロール』や『四重人格』の
「ロックの結晶の様な凄味」
には遠く及ばなかった。



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