20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」 第12話
1990年がやって来た。
肌寒い三多摩地区の新春の空気の中、冬休みを終えた我々は山奥の大学キャンパスに戻った。
私とオオヤマの所属するゼミには、一学年上から留年してきた「伝説のカリスマ」ヌマサワが居た(筆者註:「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第10話を参照されたし)。
彼はそれまでゼミには全く出ていなかったが、卒業を間際に控え、顔を出すようになっていた。
教室の一角で我々がなんとなく雑談していると話は音楽談議になり、ジェームス・ブラウンの話題に移行した。
それを聞いていたヌマサワが、
「お前ら、JB好きなのか!?」
といきなり話が盛り上がった。
「今度スタジオ入ろうぜ!」とヌマサワは言った。
私はハルノとコヤマに直ぐにそれを伝えた、
「おい!さっき、ヌマサワさんとセッションする話になったぞ!」
「マジかっ!!!」と、我が大学の「伝説のカリスマ」とのセッションの機会に我々は興奮していた。
場所は吉祥寺北口のラブホ街のド真ん中にある「分家スタジオ」、
以前、ハルノとオオヤマとお遊びセッションしたこの場所を押さえた。
当日、我々は緊張しながら、ヌマサワさんを吉祥寺駅の改札までお迎えに行った。
「ヌマサワさん、今日はよろしくお願いいたします!」と深々と頭を下げた。
地下のスタジオに入り、
我々は、ジェームス・ブラウンの『アイ・フィール・グッド』、
『セックス・マシーン』、『Get Up Off That Thing』を演った。
私は「いや~お!」とJBの叫び声を真似しながら、高校生の時から近所の市民会館のリノリウム床で練習していた「JBダンス」を披露した。
ハルノはベース、コヤマはボビー・バード、オオヤマはギターである。
演奏が終わると、ヌマサワさんは、
「お前ら、すげえよ!」
と大受けしていた。
「ちょっと、次のセッション、オレの仲間を連れてくるわ!」
そして、その次のセッションに「分家スタジオ」で待っていると、
キーボードのミイケ、サックスのシマムラ等の我が美術大学の「スターたち」がスタジオに入ってきた。
私はJBに加え、歌詞カードが無いので「耳で聞き取った」P-FUNKの宗主ジョージ・クリントンのラップも披露した。
ミイケは即興でパーラメントの『P-FUNK』のフレーズをピアノで弾けば、即興でシマムラがサックスのフレーズを乗せる。
私とコヤマとハルノの異様なまでのJB&P-FUNK愛は「学内カリスマ」たちをいたく感動させ、かくして我々のファンク・セッションは定期的に行われることになった。
コーラスは我が彼女の森田公子で、我々二人は武蔵境の私のアパートから手をつなぎながら一緒に吉祥寺のスタジオに向かった。
そうしてセッションを続けているうちに、
「オマエら、今度、ウチに遊びに来いよ!」とヌマサワさんに誘われた。
当日、私とハルノとコヤマは緊張しながら西荻窪の駅を降り、
ヌマサワさんのアパートへと向かった。
「おう!入れよ!」
木造アパートの一階の扉を開けると、
「伝説のカリスマ」ヌマサワさんと「カリスマの伝説の彼女」である「ユンちゃん」さんが迎えてくれた。
そのアパートの内部空間は「カリスマ」の名に相応しいセンスに溢れ、山ほどのレコードと愛用のギターES335が壁に並んでいた。
そして何と、ミンちゃんさんの絶品の手料理とビールがふるまわれ、その間ヌマサワさんはレコードを次々とかけた。
「うわ~!やっぱパーカー、いいな~!!!」
チャーリー・パーカーのレコードをかけならがヌマサワさんは唸った。
実のところ、私はそれまでチャーリー・パーカーの良さがさっぱり分からなかったのだが、その瞬間、パーカーのサックスが心に響いた、そうはもうハッキリと、、、
こうして、プライベートの交流も始まり、
1990年の初頭、我々の「バンド」の原形となるセッションは第一歩を踏み出し始めたのである。
(つづく)