幽冥の階段
慶応四年正月二日の宵闇が京の都を覆い尽くそうとしていた頃、一人の侍が二条城の裏手を足早に歩いておりました。
蒼介と呼ばれるその男は、つい先刻まで町奉行所の与力を務めていたのでございますが、今や薩長軍の兵士に狙われる身となっておりました。
月光に照らされた二条城の石垣が、まるで幽霊火のごとく不吉な影を落としておりました。蒼介の心中には、世の乱れへの憂いと、武士としての意地が、まるで渦巻く濁流のごとく激しくぶつかり合っておりました。
その時、城壁に映る月の光が歪み、一人の美しい女の姿が、まるで妖かしのごとく浮かび上がりました。
蒼介は思わず足を止めます。女は優雅に路地に降り立ち、蒼介に微笑みかけたのでございます。
「やれやれ、お侍様。こんな夜更けに何をしておられますのんで」
その声は、まるで遠い霧の彼方から響いてくるかのようでありました。蒼介は、目の前の女が尋常ならざる存在であることを直感いたしました。しかし、不思議なことに恐れは感じませんでした。
「拙者は渡邉蒼介と申す。この乱世にあって、己が進むべき道を見失いし身にございます」と蒼介は答えました。
「わたくしは月代。蒼介殿とやら。それはそれは物憂きこと。ならば、
あなたはんの心の奥底に眠る無限の階段を、この月代と一緒に登ってみてはいかがおす」
月代に導かれるまま、蒼介は二条城の裏手にある小さな祠へと足を踏み入れます。そこで彼が目にしたのは、現し世とは思えぬ光景でありました。
祠の中央に置かれた鏡が七色に輝き始め、やがて空間そのものが歪み、二人は「幽冥界」と呼ばれる異界へと、まるで蝶が風に乗るがごとく引き込まれていったのでございます。
幽冥界は、現し世の理を超えた、幻想的な幽世でありました。無数の浮遊する島々が血の色をした橋で繋がり、空には七色に輝く骨で作られた星々が瞬いておりました。地上には蛍火のごとき人魂が漂い、不気味な化け物どもが蠢いておりました。
月代は艶やかな声音で蒼介に告げます。
「この幽冥界は、あなたはんの腹の底を映し出した鏡のようなもの。ここに現れる全ては、あなたはんの心底に潜む真の姿なのでございますよ」
蒼介は月代に導かれるまま、幽冥界を探索し始めます。彼は自在に空を飛び、壁をすり抜け、八紘を超えて来し方や行く末を垣間見ることができたのでございます。
徳川幕府の成立から、王政復古、そして遥か先の日本の行く末まで、全てが彼の目の前に、まるで絵巻物のごとく広がりました。
「これが...日本の定めにござるか」蒼介は困惑しながら尋ねたのでございます。
月代は静かに答えます。
「運命とは、定められたものにあらず。それは千変万化の道筋。あなたはんの選択が、その流れを変えることもできるのでおます」
幽冥界での旅を重ねるうちに、蒼介は「虚無の影」と呼ばれる存在の正体を知ります。それは、人々の恐れや絶望から生まれた邪気が集まりし者であり、現し世の混乱を糧に成長していたのでございます。この影は、幕末の動乱に乗じて日本の行く末を歪めようとしておりました。
「この影と戦うのが、あなたはんの使命なのかもしれまへんな」月代は真剣な表情で言ったのでございます。
蒼介は決意を固めます。「心得まして候。されど、いかにして...」
月代は微笑み、蒼介に「無限階段」の存在を告げます。それは、幽冥界の中心にそびえ立つ、果てしなく続く階段でありました。
「この際限なき階段を登破すれば、あなたはんは虚無の影と対峙する力を手に入れられましょう。されど、その道中であなたはんの心底が曝され、己の魂胆を見極める試練となるのでございます」
蒼介は覚悟を決め、無限階段を登り始めます。階段の各段には、彼の人生の断片が、まるで浮世絵のごとく映し出されておりました。
幼少期の喜び、武士としての誇り、そして行く末への不安。それらの記憶や感情と向き合いながら、蒼介は階段を登り続けたのでございます。
時に、階段は急勾配となり、蒼介の足取りを重くいたしました。恐れや疑念が彼を襲います。
そのたびに、彼は自問自答を繰り返したのでございます。
「武士の道とは何ぞや?」「義とは何ぞや?」「この国の行く末とは?」
ついに、蒼介は無限の幻影を打ち払い、階段の頂上に到達いたします。そこには、七色に輝く巨大な玉石がありました。玉石を開けると、そこには無限に広がる天地が、まるで巨大な屏風絵のごとく広がっておりました。
「全ては“一”なのでございますよ。そして、あなたはんは幽冥界と現し世を繋ぐ架け橋となるのでおます」
月代の声は、まるで天地を包む霧のごとく、あらゆる方角から蒼介を包み込みました。
その瞬間、蒼介の心底に天地との一体感が広がり、幽冥界の不思議な力が己が身に宿るのを感じたのでございます。
目を覚ました蒼介は、二条城の裏手に立っておりました。いつの間にか、祠は消え去り、既に日が傾きかけていたのでございます。
彼は西の空を見つめます。
その時、遠くで砲声が響きました。城南宮の方角でございます。蒼介は、これから始まる新しい世の中と、自分の使命を感じ取ったのでございます。
彼の瞳には、幽冥界で見た千変万化の道筋が、まるで星空のごとく映っておりました。そして、その瞳はこの国の行く末へと向けられておりました。
「我が身を捨てて、この国を守る。それこそが武士の道にして、拙者の選びし道なり」
蒼介は覚悟を固め、動乱の渦中にある京の街へと歩を進めたのでございます。
彼の魂胆には、幽冥界での奇異なる一夜が、永劫に続く物語の序章として刻み込まれておりました。
明治の世は既に眼前に迫りおりました。そして、蒼介は自らの決断が、この国の行く末を定める一石となることを悟ったのでございましょう。