父が見せた弱さと、私たちのかけがえのない時間
父との絆、そして深まった時間
この頃、私はMさんの仕事で日本全国を飛び回る日々を送っていました。京都、福岡、大阪、北海道、鹿児島、静岡、新潟…。国内外への出張に同行するようになり、それまで静岡やその近隣、東京、大阪、そして宮古島にしか行ったことがなかった私にとって、これはとても新鮮で、自分の好奇心を満たしてくれる貴重な経験でした。
「北は北海道、南は沖縄まで、たぶん30都道府県以上行けたんじゃないかな?」と思えるほどで、自由時間こそ少なかったものの、経験としては本当にありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。好奇心旺盛な私には、この「新しい場所を訪れる」ということ自体が嬉しく、どこか自分のステータスのように感じていた部分もありました(笑)。
父の変化、そして家族の覚悟
そんな中、6月から7月頃、父の状態が急激に悪化していきました。寝たきりとなり、自分で歩くこともできなくなってしまったのです。それまでは布団で寝ていた父も、介護用ベッドを使うようになり、トイレにも行けなくなったため尿瓶やおむつに頼らざるを得ない状況に。介護申請が遅れていたこともあって、最初は普通のベッドでの対応。仕事だけでなく、父を支えて起き上がらせたり、食事を運んであげたり、いろいろなお世話をするのもすべて母親。
母は仕事の合間を縫って父を看病し、付きっきりで介護をする日々が続きました。そんな母親のことも私は心配でなりませんでした。私も出張の合間を見て実家に帰るようにしていましたが、その度に目にするのは、以前の威厳ある父の姿とはかけ離れた、どこか小さく弱々しい姿でした。それを目の当たりにするたび、父がどれだけ大きな存在だったのかを痛感し、「病と死」というものと真正面から向き合わなければならない現実が怖くて仕方がありませんでした。
それでも、私たち家族は信じ続けました。父が回復することを信じて、神様やご先祖様に何度も何度もお願いしました。
父との30年分の会話
以前の記事にも書いたように、私は父とはずっと犬猿の仲でした。お金が必要な時や、やりたいことを通したい時だけ頼り、あとは会えば喧嘩ばかり。時には父の手が上がることもありました(笑)けれど、今になって振り返ると、あんなに真剣に私を叱り、向き合ってくれたのは父だけでした。こんなにも当たり前だった父とのやり取りが、私にとってどれだけ大切だったのか、そのときになって初めて実感しました。
父の病気が発覚してから、私はまずできる限り毎日電話やLINEで連絡を取るようにしました。帰省したときには、父の体調を気遣いながら、父の気持ちや考えを一生懸命にくみ取ろうとしました。父の思い出話や過去の出来事、未来の展望をたくさん聞き、私も自分の話をたくさんしました。これまで溝を感じていた30年間を埋めるかのように、私たちは話し続けました。
このときにやっとずっと私が抱えていた「蟠り」が消えたのです。
「大好きだよ」って素直に伝えられたのは、この時期が初めてだったかもしれません。父も「優しい子だな」と何度も何度も言ってくれて…私たちは本当に心を通わせることができたと思います。言い合いも怒鳴り合いもなく、ただお互いの気持ちを伝え合い、くみ取る時間。大げさかもしれませんが、この時間がなければ、私は「今」を生きることができなかったかもしれません。
暑さと不安、そして父の初めての弱音
やっと介護申請が通ったのは7月半ばのことでした。しかし、その頃には父はさらに衰弱し、猛暑が続く中、1階で働く母がすぐに対応できない時間が増え、不安が募りました。熱中症のリスクも含め、「何かあったらどうしよう」と考えると、父を一人にしておくのが本当に怖かったのです。
私が実家に泊まる際は、父の呼び声にすぐ対応できるようにしていました。母も寝不足で疲労が蓄積し、いつ倒れてしまうかと心配になるほど。私もほぼ寝ずに父の声や様子を気にかけ、動けるようにしていました。
そんな中、父が初めて「弱音」を口にした瞬間が訪れました。あんなに強かった父の、その一言が、私の心に深く刻まれる出来事となりました。
続く…