ヘタウマについてのノート
中村不折の書の魅力をなんとか言語化しようとして、ヘタウマということについて考えてみた。
「この世には名づけられていないものがたくさんある。そしてまた名づけられてはいても説明されたことのないものがたくさんある。その一つの例が、その道のひとびとの間では、、、」という書き出しで始まる、ソンタグの「≪キャンプ≫についてノート」にならって、ヘタウマについてのノートを記してみよう。「私はヘタウマに強く惹かれ、またそれに劣らぬほど、反発を感じている。だからこそ、私はそれについて語りたいと思うのであり、また語ることができるのだ。」:
こう私が書いたのは、1983年4月、隈研吾や竹山聖たちといっしょに連載していた、今はなき「SD」という建築雑誌の匿名コラムにおいてであった。「ヘタウマは〈いき〉だ」という文を、40年ぶりにほこりを払って、今風に考え直してみることにしよう。
●ヘタウマの例
・私は、つぎのようなものをヘタウマであると感じている。
・中村不折の書
・安西水丸、湯村輝彦、沢野ひとしのイラスト
・富岡鉄斎の文人画
・藤森照信の建築
・マチスの切り絵
・アンリ・ルソーらいわゆる素朴派の絵画
・岡本太郎の絵と彫刻
・光悦の茶碗
●ヘタウマの歴史
・「ヘタウマ」が登場したのは、1980年代初頭、川崎徹という人の一連のCM:「たんすにゴン」「金鳥蚊取り線香」「メンフラハップ」「サントリー生樽」などの、乾いたへたくそな表現にたいする命名であった。
・当時の「広告批評」8302において、「ヘタウマのあまりのつまらなさ、あっけにとられるようなありきたりな作りが、CMのつくりだすウソにアキアキしていた若者たちの共感を呼んだ。」のであり「完璧さを求めるあまりに袋小路に入り込んでしまったいまの表現への反動=批評」であると述べられている。
・同じころ、椎名誠や嵐山光三郎、村松友視らのエッセイにおいて、口語や乱暴な話言葉を文章に自在に入れ込んだような、いわゆる昭和軽薄体という文体が一世を風靡した。これもまた広く言えば、文章におけるヘタウマだった。
●ヘタウマの定義
・ヘタウマとはさしあたって、「技術は下手であるが、できた作品には、味があるというか品が高いという上手さをもつもの」を指すのだろう。だから当然以下の4パタンが考えられる。
➀ヘタヘタ:技術も作品も下手
②ヘタウマ:技術は下手だが、作品に味があり品が高い
③ウマヘタ:技術は上手いが、作品には味がなく品が低い
④ウマウマ:技術も上手く、作品も味があり品が高い
●ヘタウマと目利き
・できたものの味とか品は、あくまで受け手の鑑賞眼しだいであるから、ヘタウマの議論には必ず「目利き」が登場してくる。柳宗悦が発見した「民芸」は、素朴な生活用品から「美」を発見するので、ヘタウマになってくるわけだが、民芸を発見した目利きについては、以前このブログで批判的に書いておいた。(2022年5月15日「花田清輝のみもふたもない民芸批判」)
●わざとらしいヘタウマ
・一生懸命自分なりに技術を駆使してしかしその技術は一般的な評価基準では高くはないが、結果としては素晴らしいものが出来てしまうという、純粋な天然ヘタウマ・ヘタウマ素朴派に対して、わざと下手に作っておいて、それなりの味を演出するという人が必ずでてくる。目利き=批評家と画廊主と結託すればいっそう簡単に、市場を制覇できる可能性がある。ポロックやロスコなどのモダンアートにはそんな気配がある。
・建築史家だった藤森照信は、45歳で素人くさい掘っ立て小屋のような建築でデビューしたのだが、当時、多くの有名建築家たちの羨望の的となった。自分もあんな風にざっくりと建築が作りたかった、その手があったのか、というような、パラダイム転換というか、新しいジャンルの発見だった。しかし、その後の連作をみると、だんだんとわざとらしさが鼻につくようになった。ヘタウマの臭みというか。もともと彼は、建築史と建築批評の専門家だったから、建築デザインのマーケットのエアポケットをみつけることなど造作もないことだったのだろう。
・無垢なるヘタウマとあざとい偽ヘタウマを分別すること。
●眼高手低
・眼高手低とは、目の付け所や、志は高いが、テクニックがそれに及んでいないということであり、ヘタウマに近い概念だ。眼低手高よりは評価される。花田清輝は、人生と生活の描写の巧みなだけの高見順のような作家を、眼低手高のアルチザン(職人)とよんで、アーチスト(芸術家)と区別した。
・古来より中国では、芸術の鑑賞者であり、実践者でもあった、士大夫とよばれる官僚・文人であった彼らにおいては、巧みな絵よりも、志が高い拙なるものを尊ぶという気風があった。へんに絵や字がうますぎると、職人のようにこき使われる危険性があり、それを忌避した。
・鉄斎のように、東洋的文人の理想は「万巻の書を読み、万里の路を行く」であった。中国の芸術においては、教養、生き方、倫理、道徳の修養を積んだ上での人格総体からの表出による、諸芸術を統合した総合芸術としての、文があり詩があり書があり画がある、そんな境地こそが理想であった。技術に巧みだったり個々のジャンルに秀でたりするのは、どちらかというと職人としてむしろ蔑まれた。だから、志が高ければ、テクニックの巧拙はあまり問われなかったのだ。
●鑑賞者と表現者
・日本における、無垢なる職人の素朴さを尊重してそこから美を見出す民芸の鑑賞者側のエリート意識と、中国の、拙さをおそれず、こころざしと品格の高い詩文画を自ら表現するという意識とは、ずいぶん違いがあるということに、いま気づいた。自分もできれば東洋的文人のような表現者でありたいし、なぜ「目利き」を嫌うのかがわかった。
●アマチュアリズム
・技術の高い専門家のプロではなく、素人のアマチュアによる作品が、ヘタウマとなることがある。光悦は、陶工のプロなら捨ててしまうような失敗、ひび割れとか高温での釉薬の剥離をすら、風合いや味に活用して、堂々たる茶碗を残している。書においても、歴史上の偉人・英雄たちの書こそが素晴らしいことは、このブログの「書道論」でも書いたとおりだ。
●アンリ・ルソーの革命性
・ルソー自身は、しっかりとした古典主義的な描写だと信じていたが、その想像力あふれる構想と、豊かな色彩、デフォルメされた形態こそが、ピカソやアポリネールらアバンギャルドたちにまさに「発見」され、絶大な支持を受けた。ルソーの子供のような素朴な眼差しこそが、絵画革命の前触れだった。絵画のルールというか従来の鑑賞をも含めた価値基準=パラダイム自体の転換を、そんな無邪気で素朴な絵画が準備したのである。
●退行
・アンリ・ルソーのように、危機の時代において、いったんは子供に退行して、枠組み自体を無効にすることから出発しなければならないのかもしれない。ユングは30代、フロイトと絶縁し精神的な危機状況を迎えた時、夢に出てくる情景の絵や、曼荼羅の絵を集中的に描き、また石を積んで塔を建てるという、子供っぽさへの回帰・退行によって、危機を乗り越えた。
・つまり、こういう時代だからこそ、一見無邪気で素朴なヘタウマにこそ、転換の萌芽が秘められているのかもしれないのだ、というのが、このエッセイの結論だが、ほんとうはそんな大げさな話ではなく、好きな作品の理由と、なによりも自分のヘタな絵や書をなんとか擁護してみたかったということです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?