損したくない感情の起源を探る ~②自己催眠療法の準備~
異常なほど、損をしたくありません。
あらゆる思考において損を回避することばかり考えていることが、自分の色んな問題に繋がっている気がしていました。
例えば自分のハマっているポイ活は"オトクさ"より"損したくなさ"が原動力だと感じるときがありますし、ガソリンは1円でも安いところを探し、運転では極力ブレーキを踏まない超低燃費運転を心掛けています。
それから、人と関わる"労力"を惜しむ回避性愛着障害(ここ1,2年で劇的に良くなってきていますが)。
無駄な仕事が多いことでストレス過多になり、今こうして休職していること(日本社会全般において無駄な仕事が多いのはまた別の問題)。
一方で世の中には、芸術など、生命活動に必須ではない(=無駄な)ものにも価値があることは頭では理解しているつもりです。
理解はしている、でもやっぱり無駄はイヤ(特に仕事)という"葛藤"こそがストレスなんだと自己分析しています。
なぜこういう思考になったのか、自分の問題の根底理解のため、向き合ってみようと思いました。
あらゆる思考の根幹をなすほどの強烈な体験というのは、およそ幼少期に作られた場合がほとんどです。
そこで、自分の幼少期に、無駄で嫌だったエピソードを思いつく限りあれこれ思い起こします。
数々思い起こした結果、僕にとって究極に無駄で嫌だったエピソードは、幼稚園年中さんの頃から通っていた公文式でした。
公文式は、とにかく反復練習に重点を置いた教育方針です(特に算数・数学)。
あえて自分で言うと、僕は幼稚園年中時点で誰に教わるでもなく敬語やローマ字を使いこなすほどの天才児でした。
計算の仕組みなんてのは、1回やれば分かるのです。
しかし、公文式は「もう分かったってば!」とノイローゼになるぐらい反復させるのです。
いくら頑張っても無駄だなーという"学習性無気力"の醸造が目的だったと言っても過言ではないと、今振り返れば思います。
一般人に必要な量の反復練習を天才に対しても等しくやらせるという教育方針は、何も公文式だけの批判では全くなく、日本中の学校教育における重大な課題です。
日本中で"能力を考慮しない平均化"を全力で目指しているわけですが、例えば"小2は小2で習う漢字だけしか使ってはいけない"とかいう謎ルールによって、自分の苗字を気色悪い漢字かな交じり(しま田、いの上、の田、の口)で書かせたり、より根本的には自主学習の意欲を強烈に削いでいます。
別に公文式に通っていなくても、現代は塾行かせるのが当たり前で学校教育はお遊び(=無駄)なんてのはよくある話です。
同じようなストレスを抱えている子供は多いはずです。
構造的な問題は一旦置いとくとして、押さえ込んでいた当時の自分の叫びを、自己催眠で掘り起こしていくことにします。
単に、無駄で嫌だったという"冷静な思考"ではなく、"魂の叫び"にこそキーワードがあるのです。
自己催眠のゴールは、涙を流すこと。
涙には、体内の悪い物質を洗い流して、ストレスを緩和する働きがあるのです。
キーワードに辿り着けば、自然と大粒の涙を流すことができます。
次回は、具体的な自己催眠の実践例を紹介します。