元日の予期せぬ再会(2024→2025)|能登半島地震から1年を現地で迎えて
元日は、「令和6年能登半島地震」の発災日。
それから一年が経ったが、被災者の方々はこの日をどのように迎えただろうか。
それぞれに、思い出したいこと・思い出したくないことがあるはずで、それらの物語を一つにまとめることも、一般化することもできない。
枝葉のように分かれていく中で、どこかで重なったり、合流したりすることはあるだろうが、家族であっても全く同じ物語を歩んでいく人なんていない。
特別な想いが渦巻くこの2025年1月1日を、わたしは石川県七尾市の和倉という地域で迎えることにした。
そこでは、予期せぬ嬉しい再会があった。
ちょうど一年前。
わたしは自宅でテレビに映る能登半島を見ていた。石川県には一度も訪れたことがなかったため、知っている地名も少なく、思いを馳せる人もいなかった。遠くのどこかが被災したというぐらいの意識だったかもしれない。
それでも、東日本大震災の被災者として、再び起きてしまった震災を他人事には思えなかったし、震災伝承者・防災士として、ボランティアコーディネーターとして、何ができるのかという問いが自分に向けられているように感じていた。
立場的にも、これまでの経験的にも、今回地震被害の支援に関わることは必然だったと思う。ただ、学生ボランティアをむやみやたらに、大学の数量的なPR材料にするために被災地へ送り出すことは絶対にしない!と決めていた。これは、地震発生以降に騒がれた「ボランティア行くな論争」とは異なる。
被災地・被災者、ボランティア、そして学生たち。これらは当然、誰かの駒ではない。その一つひとつ・一人ひとりに別の何かで代替することができない、固有の物語をもっている。そして物語は、一様でない。長い時間をかけて、土地と人が複雑に絡み合い育んできた文化をも組み込んでいるかもしれない。
この物語がなにかの権力に従属させられたり、誰かに搾取されたりするとしたらどうだろう。そんな消費的な扱いの前で、大切にすべき尊厳がたちまち雪のように溶けてしまうのではないか。
目に見えないもの・見えにくいものが、早さや暴力によって損なわれることのないように、人の手触りと温もりをもって、未来に運べるようにしたい。
そんな寄り添い方を、わたしは大切にしたかった。
その信念を曲げず、丁寧に創ってきたのが、卒業生とのつながりを生かして取り組む「立教チームでつなぐ被災地支援プロジェクト(令和6年能登半島地震)」。立ち上げから、プログラムデザインまでを担ってきた。
第ゼロ弾。センター長とわたしだけで向かった石川県七尾市和倉温泉地域での現地視察では、「お互いに顔の見える、名前がわかる関係性を大事にしよう」と、話した。量ではなく温もり。人と人がつながり紡がれる物語を大事にしようと決めた。
大学やボランティア団体によっては、その都度被害が大きいとされる場所に赴き、数多くの活動をこなすところも多いように思う。災害ボランティアセンターを通した活動においても、基本的にはニーズ票に対応することになり、ボランティアが複数日活動するとして同じ活動先・場所を希望してもそれが叶うことは少ない。
地震直後の無防備な状態にある被災者にとって、自分の生活が少しでも回復すること、そこに誰かがいることは、何より生きていくために重要だ。それを素早く実現することも非常に大事なことである。
一方で、ニーズ先にあるものにも目を向けなければならない。生きていく意味とも、言い換えることができるかもしれない。
災害後のフローをフェーズ分けした時、このニーズの先にある支援活動が「復興期」、つまり、時間が立ってから・まちの被害が落ち着いてから行われるものと捉えられることがある。実際、災害ボランティアセンターを通した活動でなく、個人宅での瓦礫撤去も行わなかった今回のプロジェクトにも、そのような指摘の矢が飛んできた。その多くが冷笑的なもので、瓦礫撤去に比べて「簡単なもの」「誰でもできるもの」「わざわざやる必要のないもの」という意味を含んだ上から目線のアドバイスであった。
個人的には、この考え方が体に馴染まない。被災者が自分の住む場所を失った場合、既存のコミュニティから引き剥がされるように避難所での生活を強いられる。住処の有無に限らず、地震によって被害が生じるわけで、親密な関係性であればあるほどそれらを探り合う(意図せず知ってしまう)ことを避けるようになり、心が離れていくこともある。
それは、そこに住む理由とも、そこで生きる理由とも密接につながっており、人口流出・災害関連死・自死にも直結する。これらの支援を後回しにすることは、当然できないわけで、復興期だけではない急務の問題であることは明らかだ。
「立教チームでつなぐ被災地支援プロジェクト(令和6年能登半島地震)」では、卒業生とのつながりから、拠点を石川県七尾市和倉に定めた。そして、そこに通い続けることによって、学生ボランティアが、自分の顔と名前をもって活動できるようにコーディネーションしてきた。
当然、毎回同じメンバーで活動できるわけではない。人は入れ替わる。それでも、参加者一人ひとりがその後もずっと想い続けられるように、関わった現地の一人ひとりが学生との出会いを大切にできるように。通い続けることで、少なくとも立教チームとしての物語は続いていく。それをプロジェクト名の“つなぐ”に込めた。
思い通りに行かなかった第1弾。わたしの力量不足で、一人ひとりの物語を紡ぐところまでは至らなかった。
学生の想い、批判的・創造的な提案に自分がボランティアコーディネーター人生で培ったものの全て賭けた第2弾。わたしにできることは引き出すこと、共にいること。そして、誰よりも味方でいることだった。
その可能性を存分に発揮した学生たちの姿は眩しく、共に歩んだ時間は今も鮮明に刻まれている。年齢なんて、立場なんて関係なく、わたしは学生たちを心から尊敬した。
そして何より、和倉の方々との出会いはかけがえのないものになった。
だからこそ、発災から一年を迎える現地の風を自分の肌で感じたかった。自分の瞳に、自分の指でシャッターを切るカメラの中に、今の景色を記録したいと想った。
年末から現地入り。これまでの活動と違い、完全にプライベートだ。お世話になった方と連絡をとりつつ、年末には今後に向けた打ち合わせを行ったが、それ以外は基本的にノープラン。生憎の雨だったが、様々な場所を訪れ、自分の目で見て確かめてきた。活動拠点とは異なる奥能登にも足を伸ばし、1年の時の流れの中で変わらないもの、変えられていないものにも触れた。そこで記録したものは、別記事にまとめるかもしれない。
迎えた元日。「和倉温泉復興祈願セレモニー」に参加することだけは決めていた。総湯に寄って汗を流した後、ふと「青林寺」に寄ってみることにした。立教チームにおける活動 第2弾の初日・2日目(実際の活動は2日目のみ)に訪れたこの場所である。地震の影響で拝観休止は続いているため、訪れるのは気が引けたが、何故かふと寄りたくなったのだった。お寺のスタッフの方に会おう、奥まで入っていこうなんて思っていなかった。少しでもその外観を拝めればと、そんな気持ちだった。
駐車場にレンタカーを停めようとしたところ、見覚えのある顔が前を横切った。活動中にお世話になった副住職や奥様たちだった。まさかの出来事に、急いで車を停めて声をかけた。
嬉しかったのは、わたしたちの顔を見て奥様が気づいてくださったこと、覚えてくださっていたこと。涙ぐまれながら話してくださる姿に、胸が熱くなった。
何より印象的だったのは、立教チームでの活動が本当に青林寺での震災前の日常の〈再開〉のきっかけになっていたことを教えてくださったことだ。
観光客にとって青林寺を訪れる醍醐味だった「リフレクション撮影」。テーブルの鏡面を生かし、中庭の彩り豊かな情景を反射させて撮影するこのアクティビティは、震災の影響で休止され、そのテーブルも仕舞われてしまっていた。
震災後に何かを再開させるということは、思いの外難しいことらしい。青林寺で言えば、御便殿が国指定登録有形文化財として登録されているため、行政の担当チームの許可なしで自由に修繕することはできない。
また、観光業が盛んな地域だからこそ、宿泊場所(旅館)や商店、飲食店などが並行して再開されることで、観光地としての盛り上がりが生まれる。だからこそ、全体的な動きを見つつ、再開時期を窺う必要もあるようだ。
しかし、わたしたちが青林寺で活動した後、立教生のためにと、そのテーブルを引っ張り出して「リフレクション撮影」を体験させてくれたのだった。撮影を楽しむ立教生の後ろでは、「もう、テーブルを出したままでいいんじゃない?」というご家族の会話が聞こえてきた。緑豊かな8月のことだった。
その日の夜のふりかえりでは、学生たちが「自分がしたこと(支援・贈与)以上に、してもらったこと(見返り)の方が大きかったのではないか」「申し訳ないと思ってしまった」など、自分たちの無力さを吐露した。
一方で、「もしあのテーブルがあのまま設置されているのであれば、自分たちの存在がこれまで日常だったものを再開させるきっかけになれたのではないか」という考えも語られていた。とはいえ、何が真実かはわからない。
目に見える成果でないものを、ボランティア自身が評価することは難しかった。
そして今回、再会した奥様からメッセージをいただいた。
その一部に書かれていたこと。
わたしたちの存在が、再開のきっかけになれていた。それは、大きな喜びだった。
目に見えるニーズに応えることだけがボランティア活動ではない。その関わりや存在によって掘り起こされるニーズもある。しかし、それらは簡単には見えないし、誰にでも応えられるものではないだろう。どれだけ良いシステムが生まれて、支援の効率が良くなっても、それらが掘り起こされるかはわからない。
それでも立教チームにしか、ここで関わった学生たちにしかできないものがあったのだ。それを通して、青林寺の方々との物語が紡がれていた。
本当に嬉しかった。
今回の再会もその物語の大事な一節として組み込まれたことは間違いない。
この物語には温もりがあり、明確な登場人物がいて、互いに関わり合う。そしてまだまだ続いていく。
短編ではなく、長編に。現地の方々や立教生と共に、一歩ずつ前へ。
わたしにとって、忘れられない元日になった。
この2025年が、和倉の方々にとって幸せな時間でありますように。