003_Zero 7「When It Falls」
ただ、じっくりと口に含んだフルーツの味を確かめてみる。じんわりとした甘さが口の中に広がっていく。妻が毎朝、朝食にフルーツと一緒にいつも出してくれていたが、これまで、こんなに甘く感じたことはなかった。
味だとか、匂いだとかいうのは、その時の感情や気分によってもかなり左右されるんだろうな。生まれてこの方、こんな気分で味わったことなんてなかった。そうだ、俺は生きているんだ。生きているからこそ、これを味わえている。呼吸をして、空気を吸う。ベランダで目を擦りながら、眩しい日の光を全身に浴びてみる。こんなに清々しい気分で朝を迎えられるのは、一体いつぶりだろう。
どうやら、なんとか、命拾いしたのかな。小鳥が囀り、どこか遠くの方でも、親カラスも鳴いている。5月の初夏の朝のゆったりとした空気が、部屋全体を充たしてくれている。今日は日曜日だから、道路を行き交う人は少ない。どこにも、自分を脅かす要素などないのだ。僕はじっと手を見る。
「大丈夫?なんか、ぼーっとしているけど」パジャマ姿の妻がコーヒーを啜りながら、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「最近、ずっと夜遅かったもんね。新しい仕事やっぱり忙しいんだ。」「うん、そうだね、まだ部署が変わったばっかで、よくわからないところも多いんだ。」
妻には、やんわりとそう応じる。安心した妻の顔がある。俺は、自分で自分の言葉を聞いて確認するように、余計に穏やかな心持ちになることができた。妻からは、日常いつも小言を言われて辟易することも多いが、今はそんな瑣末なことはどうでもいい。生きてて、よかった。妻の顔を眺めながら、僕は心の底からそう感じている。
そうだ、もうこれで最後にしたい。もうこれからは、今朝のような安寧とした気持ちで夢から目覚めたいんだ。毎晩寝るたびに死ぬ思いをするなんて、もう金輪際まっぴらだ。昨日、さすがに「奴」もあれで始末がついただろう。自分も全力を尽くした。苦しい戦いだったが、ついに打ち勝つことができた。今は戦場から家族の元に帰ってきた帰還兵の気分だ。絶対に生きて帰ってくる、それだけが自分の貫くべき意思としてあり、それをやり遂げることができた。
妻の言う通り、俺は4月に部署が変わったばかりで、ここ1ヶ月、慣れない仕事で自分はまさに悪戦苦闘していた。周囲から自分への期待も大きかったからこそ、それに応えようと心底必死で、正直、どこかしら行き詰まっていたのではないかと思う。朝目覚めるたび、今日も仕事かと思うと、不意に死にたいと思うような時があり、ひょっとしたら軽い鬱傾向にあったんじゃないかな。そして、それに追い討ちをかけるように、ここ最近、毎晩、俺は夢の中で「奴」と戦っていたのだ。それはもう本当に命懸けで。
正確にいうと「奴」ではなくて、「奴ら」だ。何万、何億いや何兆とかそれくらいのレベルの数がいたんじゃないか。皆、似たような顔をしている。「奴」は、もう自分も存在意義をかけて、全員が俺に向かってくる。時には力で、時には感情剥き出しで、時には知恵を尽くしてお互いを出し抜き合い、「奴」と、俺は戦い続けてきた。
文字通り、それはお互いの全てを出し尽くさないと勝てない勝負だ。時には、どうしても挫けそうな時もあった。だけど、遂に僕は昨晩「奴」に打ち勝つことができ、息の根を止めることができたのだ。そして、僕は最終的に無事ゴールに辿り着くことができ、こうやって生き延びることができた。朝目覚めて、改めてその長い長い軌跡を振り返る。
なぜだろう、戦っていた時には感じなかったのに、今となっては「奴」に強烈なシンパシーを感じざるを得ない。お前、なかなかやるじゃないか、お前こそ、それでこそお前だよ、俺は嬉しいよ。自分の手を見つめながら、「奴」がそう言っているように感じる。ああ、そうだ、お前のおかげで今の自分がある。まさに真のライバルだった。
今の自分のこの右手も奴が形作ってくれたようなものだ。この右手は、力の強かった「奴」の。この左足は、足の早かった「奴」の。この両目は、遠くまで見渡せる「奴」の。全ては必要なプロセスだったんだな。結局、お互い似たもの同士だったから、競い合いながら切磋琢磨して、最終的に「奴」よりほんのちょっと、紙一重の差で上回った俺をゴールまで押し上げてくれた。「奴」は俺に未来を託したのだ。
今となっては、最終的には「奴」には、感謝しかない。ありがとう、俺を生かしてくれて。仕事が憂鬱だとかなんて、言ってられない。せっかく俺を生かしてくれたのだから、そんなことではこうやって生まれてくることのなかった「奴」に申しわけが立たない。彼らの分を含めて、俺はもう迷わず全力で生きなければいけない。そして、この命を次の世代に繋げなければ。それが生き残った俺の使命なのだ。何千何億年とこれまで人間が紡いできた連綿とした長大なプロセス。覚えていないだけで、これまでも苦しい時にはこうやって俺を助けてくれていたんだ。
ありがとう、兄弟たち、俺は生きるよ。