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*0-2 プロローグ後編

 寮の仲間に最後の挨拶を交わしたなり前職を後にし、自分の部屋から引き揚げた荷物と渡独と言う選択肢を小さな車中にぎゅうぎゅうと詰め込み実家へと戻って来てから、家族らに見送られながら空港の国際線ターミナルを抜け次なる生活拠点を目指し飛び発つまでに要した時間は実に1ヶ月足らずであった。この時非常に順調に物事が進んでいくのを、自分の事と理解していた脳内のどこか別の箇所では、まるで他人事のように観察し、運が流れゆくその水筋をキャンバスに水彩で描く如くに現の物らしく感ぜられた。

 しかし当初の心積もりでは、経験や資金を集めるという目的の前に大凡一年間は日本のパン屋に勤め、数年後にドイツへ渡るという算段であった。と言うのも当時、渡独を斡旋していた会社によると、本年中の渡独希望の応募はすでに締め切られているという事であったために、私はその翌年の渡独プログラムに応募しようと思っていたのである。

ところが帰省後すぐに東京のその会社を訪ねひとしきり説明を受けていると、応募の締め切られた本年分の渡独プログラムに枠が1つ空いていると言い出したのである。私はその時、運命の水流にこの上ない絶好の機会が私の目の前に運ばれてきたものだと天を拝むと同時に、まだ何一つ渡航準備の出来ていない実際の状況に目をやり、運勢の激流に呆然とせざるを得なかった。


 一先ずその選択を親の元に持って帰ろうとその会社を後にし乗り込んだ電車の中で、私は自分の気持ちの整理整頓に手こずっていた。すぐに行けるなら行ってしまいたい。しかしその為の準備が整っていないから一度見送りたい。しかし一度見送れば一年待たなければならない。たったの二択を私は選びあぐねていた。

 そんな時、過去の記憶から二つの言葉が私の耳元で囁かれたのである。
 ひとつは前記した通りのパン職人から受け取った言葉であったが、もうひとつは、前職で同期入社だった六歳年上の同僚の言葉であった。


 実は前職の退寮日、私は実家に戻る前にその元同僚の元を訪れる為に奈良県へと向かっていたのである。前職でお互い修行の身であった時分、密やかに彼を慕っていた私は、久しぶりに会い酒を飲んだ際に、経験とお金を貯めて約一年後にドイツに行こうと思っているんだ、という旨を伝えた。すると彼は「借金してでも気持ちが熱い内にドイツへ行ってしまった方がいいと思う」と言った。その言葉が、たった二択を選びかねていた私の脳内に華麗に蘇ったのである。


 そうして私は親に理解と協力を頼み、その年にドイツへ渡ることを決めた。あの時の親の覚悟が無ければ私の今は無かったと思うと、いくら感謝をしても足りそうにない。
 大至急、パスポートを申請し航空チケットを取り、一ヶ月足らずで準備を済ませ日本を発った。

 ドイツに到着した事は未だに奇跡に思われるが、ともあれ翌日から語学学校でのドイツ語授業が始まった。月曜日から金曜日までの午前授業。これが三月から八月まで続いた。その間は語学学校のゲストハウスに寝泊まりしていた。上記したような授業プログラムだったので午後の時間や週末は皆自由に過ごすことが出来た。何度か旅行にも出掛けたし、毎週末のように仲間と集まり食事会をしていたが、それ以外の時間はもっぱら自主的にドイツ語の勉強をしていた。

 人生を賭ける気持ちでドイツに渡ってきたという思いが強かった当時の私は、まず何をするにもドイツ語が必要になるからと、寝る間も惜しんでドイツ語の勉強をした。基本的に食事も手間のかからないサンドイッチばかりで、深夜まで教科書を眺めノートを汚した。時に周囲の仲間が呑気に思えて歯痒さを覚えた事もあったが、その奮闘が、授業プログラムの終わった八月に受けたドイツ語の試験で実を結んだのでそれで気は済んだ。


 その翌九月からついにパン屋見習いとしての修行が始まった。初めて社会に出て建設会社の工場を見渡した時と同様の感動がこの時また襲ってきたのである。パンの匂い。大工とは違う作業着。そして現実に飛び交うドイツ語と、大きい体でのそのそと歩くドイツ人に、ついに夢の入口に立ったような高揚感に包まれていたのである。

 それから三年の間、私は必死の覚悟で修行に明け暮れた。このような書き方をしたが、山に籠ったりするわけでも、水瓶やら御猪口やらを体の至る所に置いて負荷の掛かる体勢のままじっとしているわけでもなく、単に深夜に仕事をしながら週に一度職業学校へ通う、というシステムに則った生活が基盤であった。これは所謂デュアルシステム(※1)と呼ばれるドイツの職業訓練の仕組みである。パン屋の勤務時間は夜中の1時から朝方10時頃までなのに対し、職業学校は朝8時から夕方4時頃までという、不規則極まりない生活を強いられる事に対し方々から聞かされた文句は、デュアルシステムの欠陥を簡潔に物語っていた。

 しかし人生を賭けるという心意気でドイツまで来た私にとって、ただ働いて週に一度学校に通うだけでは物足りず退屈であったために、深夜労働後の余暇や日曜日などの休日の多くを、文字通り寝る間も惜しみ勉強に費やした。言葉や文化をはじめ、知識や技能など全てを一新した状況を選んだ手前、休む暇はもとより休む理由などほとんど持ち得なかったのである。時折、疲れてベッドに横たわっている時などは、何処からともなく、その怠惰を叱責する声が聞こえ、鞭を打ちつける腕が見え、罪悪感に苛まれた後に、懺悔の念を抱きながらまた体を起こして本を開いたりした。

 とは言え私はとりたてて、よく頑張った、などと労いの言葉欲しさに実態を見せびらかすわけでもなく、また過去の出来事に過剰な装飾を施し自分を大きく見せたいわけでもない。私にとってそれは至極当たり前に思えた上での行動だったからである。

 仕事をするにも授業を受けるにも、また市役所に行くにも買い物に行くにも言葉が必要であるならば、当然、ドイツ語圏においてドイツ語の不十分な私はそれを早急に取得する必要があった。

 日常会話に必要な語彙だけではなく、職場や授業に必要なパンに纏わる専門用語も早急に理解しなければ、職場でも使い物にならず授業にも遅れをとるという事態に見舞われてしまう。

 製パンの経験も知識も無かった私にとってはパン工房の中の全てが真新しかったので、道具や機械の名前から使い方、また生地の種類や加工法までを大至急脳味噌と体に覚えさせる必要があった。

 そうしていると、意識的に休む暇はほとんどなかった。それでいて、決して苦とも思われなかった。前職の寮生活での二十三時消灯、六時半起床という規則に則った生活よりも、睡眠時間こそ短くなったが、目覚めは頗る良くなった。それで午前十一時ごろに帰宅すると、簡単に食事をとってまた夕方まで力の限り勉強をした。そうして職業訓練の三年間を過ごした。

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 二〇一八年の夏に実技と筆記での最終試験があり、私はそこでミュンヘン(※2)におけるその年の上位三番目の成績との評価を戴いた。すべてをゼロから始めた自分にとって、またそれを許し送り出してくれた両親にとっても、それまで続けてきた事の結果としてひとつの証明になったような気がして、そこで初めて安堵の気持ちが口から洩れた。

 それから二年間、大型パンを焼く為のオーブンやパンの仕込みなど、見習い生期に経験出来なかった責任のある役割を実務の中で教わり、幾度も失敗を繰り返した後に、今では担当して任せられるようになった。職業学校で教わるだけでは理解が十分でなかった事なども、実際経験の中で次第に解ってくるようになった。そうしてまた知的好奇心が刺激されていたのである。


   ***
 二〇二一年を迎える前に、大雑把であるが過去の粗筋を二度に渡って書き起こして来た。私自身、過去をこうして鮮明に振り返る事は非日常的で良い機会であった。
 これから先、綴り行くは、全て現在から未来の話である。マイスター資格取得に向けた日常を記録していく手前、大変劇的な時もあれば、至極平凡な時もあるであろうから、それも含めて忠実に修行録を埋めていく所存である。


(※1)デュアルシステム:ドイツの職業訓練のシステムで、働きながら職業学校で授業を受けるシステム。

(※2)ミュンヘン:南ドイツの主要都市。


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