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月刊コグマ#1 光の景色

陽光

昨日はバイトで、夜遅くまで働いていた。まぁスーパーだししょうがないところもあるのだろうが、それでも学生を大晦日の夜中まで働かせるというこの現状。よろしくないだろう。

え?それが嫌ならバイトをやめればいいじゃないか?それはまさしくそうだな。的を射ている。的を得ている。
それに、賞与としてプラスで1万円もらえるらしいので、本当はここまでぐちぐち言っちゃいけない。

そんなことは置いておいて、今は朝の6時。あれ?昨日寝たのって、たしか深夜2時30分とかだったよな…もしかして、寝たの4時間も無い?
しかし、起きてしまったものは仕方ない。寝たくても、一回起きてしまうと時間が立たなくては眠れないので、Youtubeでも見て時間をつぶすことにした。

思えば今日は1月1日。お正月だ。つまり、初日の出が拝めるということか。ちょっとワクワクしてきたぞ。去年はどうしたのか覚えてないが、たぶんぐっすりと寝ていた気がする。だとすると、初日の出を見ようとすること自体が久しぶりだな。

時間が経ち、ほぼ7時に近づいてきたところ。スマホの奥から赤色にも近いオレンジ色の太陽の光が地平線から顔を覗かせた。見た目はいつもの日の出と変わらないが、初というだけでここまでありがたがられるものか。

そんなことを思いながらも、心の内ではきれいだなとか思っている。
そんな朝の始まりで、新年の始まりだった。

そんなこんなで
2025年の月刊コグマの第1回目、スタートです!




記憶

5年。5年という月日は、自分にとってそこまで長くは無いように思えた。
今も目をつむるとかつての光景が思い浮かんでくる。

戻れない あの島
今はもう いない人々
いとしい人の思い出はすべて
あの島に置いてきた

海に眠るダイヤモンド より

いずみさんじゃないが、自分だっていろいろと置いてきているものがあるし、後悔がある。戻れない、かつてのあの場所には。

でももし、もし再び、同じ場所で出会えたならば。
僕はどうするのだろうか。


「久々に中学校に来たけど変わってないなぁ」と思った。今日は二十歳の集いがあるので、久々にこの故郷に帰ってきたのだ。
今朝、友人に「一緒に行かない?」と誘ったところ、快く承諾してくれた。

毎日のように通っていた通学路。どことなく不思議な感覚を覚える。
何も変わってないのに、どうしてだろう。別にどこか変わったわけじゃない。なくなったわけでも、増えたわけでも。
なのにどことなく違和感のようなものを感じている。

そんなことを思いながら、友人たちと合流し、かつて場所である中学校へと向かった。


中学校も変わっていなかった。目の前に見える緑の校門も先にあるグラウンドも体育館の外観も。何もかもが変わっていなかった。かつての雰囲気そのままにたたずんでいる。まるでここだけ、時が止まってしまったかのようだ。

受付前には久しぶりに会う友達がたくさんいた。「久しぶり!」なんて言いあって、記憶の中の彼の外見と今の彼の外見をなぞる。
体育館の中に入り、かつての友達と話す。
ここでも、違和感を感じた。

彼らは逆に、場所と違って変わっているのに。何なのだろうこの違和感は。

市長のビデオメッセージが流れている最中もずっとモヤモヤしていて、この違和感はなんなのだろう とずっとソワソワしていた。
残念ながら、なんの話をしていたのかは全く覚えていない。

そうして気付くと、二十歳の集い実行委員を名乗る同級生たちが考えた何らかのレクリエーションが始まり、終わり、かつてのクラスの友達と写真を撮って、二十歳の集いは終わりを迎えた。


この不思議な感覚の理由に気付いたのは、会が終わって、体育館前でいろいろな人と話していた時のこと。

自分の中に、全く「懐かしい」という感情が「久しぶり」という感情が浮かばなかったのだ。

もちろん時間的には5年の歳月があるので、久しぶりだし懐かしいはずだろう。なのに、心の中では全くその感覚が浮かばない。みんな、髪を染めたり、身長が伸びたりして、変わっているはずなのに。5年ぶりにこの場所の踏みしめているはずなのに。

自分も含めてみんなが「懐かしい」とか「久しぶり」とか言っている様子を見て、どこかで「なんで久しぶりって言うの?」と自分に問いかけている感覚だ。

かつての友人に、場所に、久々に会えたというのに。
じゃあどうして?どうして、そう思わないのだろう。


外見は変わっても、人の中身はそう単純には変わらないと思う。もちろん、細かい部分では、考え方とかは変わっているだろうし、視野だって広くなっているだろう。
でも、人間の根本の部分というか、人と人がかかわるときの人間の姿はそう変わらないと思う。性格が正反対になるとか、そういうことは、たかが5年ぽっちでは。

つまり、かつての僕たちと一緒なのだ。
今ここにいる外見の変わった僕たちと。

学校だって、土地だって、よく見れば細かいところは変わっているのかもしれない。けれど、大きな外見としてはまったくと言っていいほど変わっていないのだ。
かつて過ごしていた、昔の顔と同じ表情をしている。

目をつむれば、今でも思い出せる。
学校でこんなことがあった。こんな失敗をした。こんな嬉しいことがあった。こんな悔しい思いがあった。
あの日々が、青空の下で声とともに記憶の中で再現される。
みんなが記憶の中で、今も生活をし続けているみたいに、その様子がありありと思い出される。

あの、かつての学校での生活が、みんな、僕の中に眠っている。

だからこそ、懐かしいとか久しぶりとか思わなかったのだろう。
まだまだ、自分のすぐそばでは彼らは生活をし続けているのだから。


だからなんだなぁ。と自分はどこかすっきりとした感覚で、改めて目の前の景色を眺める。着物を着ている人女性陣や、スーツを身にまとう男性たち。違うように見えて同じで、同じように見えて違う。

変わってないけど、変わってるんだよ。

そう考えるとどこか心強い気持ちになった。どこからか力をもらったみたいに勇気が湧いてくるような感覚を覚えた。
まるで、心と共にあるような感覚。

後悔ばかりを残してきたと思ってたけど、そんなことはなかったんだな。


この先にある景色に、思いを馳せる。
かつて記憶の中にあった思い出。
目を瞑ると思い出せる光景。
以前見た、生き続ける記憶はすべて、変わっていく。
みんなの背丈が、街並みの色合いが、すべて。
そうして変わった記憶を受け入れて、改めて前を向く。

その時に心から「懐かしいな」「久しぶりだね」って話して、歩いて行けるんだろう。



交差

成人式の日の夜、元同じクラスの友達とご飯に行った。
成人式の翌日、元吹奏楽部の友達と遊びに行った。

とっても楽しかったし、まるでかつての記憶がよみがえってくるようだった。まさしく、彼らがあの中学校で暮らしていた光景と全く一緒のような瞬間だった。

これから先、彼ら彼女らとおんなじ道を歩くことはあるのかな。

成人式が言ってしまえばこの故郷での最後の心残りだった。
本当は好きだった人と会いたかったし、話したかったけど、未練たらたらでバカみたいだし、他にも引きずってることが多すぎるしでそこはすでに諦めていたけど。
それも今回で終わってしまった。

連絡がついたのだ。
かつてなくしてしまった連絡先を、友人からもらった。
その子から許可を貰って。


今現在、これをすればよかった、、、
みたいな後悔はもうこの土地には無くなってしまった。
彼ら彼女らと交わる接点も、これですべてが終わってしまった。

今、自分は笑えているだろうか。彼らと出会う未来を信じていられるだろうか。可能性を願うことは出来るのだろうか。

僕の中の答えは、残念ながら、未だに晴れない。


もし、これから先も道が交わる可能性があるとしたら、それはこの仲を「続けたい」という意思だけなのだろう。

僕たちはみんな互いに、進んでは折れて進んでは折れてを繰り返してきている。今現在もそう。
その度に交差する人たちもいれば、交わらない人も交われない人もいる。
没交渉ならなおさらだ。

友だちなら大丈夫 と考えるかもしれないが、それは甘く見過ぎていると思う。実際自分も甘く考えていて、理想を望んで、望みは叶わず、高校生当時は自分の甘さを痛感していた。

でもそれは相手だけじゃなく、僕自身も連絡を取ろうとしてはいなかった。いつまでも、”相手から”を待ち続けていた。
友だち という関係はそこまで甘くはなかった。

今思う必要ことは、お互いに続けたいと思う意思だと思う。

この関係を続けたい 大切にしたい。お互いがそう思うだけで、関係は続いていくのだろう。

まぁ頻繁な連絡は相手が疲れてしまうかも、と僕は心配になってしまう性格なので、「連絡を取りたい」気持ちと「嫌な気持ちになってほしくない」気持ちが相反して、結局連絡を取らないことも多々あるのだが。


成人式の翌日。帰り、駅の前。
今回あつまれた人たちで写真を撮った。

話の流れで、
今度こそはみんなで集まって何かしたいね
ということを話していた。
実際にどうなるのかはわからないけど。

だからあとは、続けようとする意思。
繋がろうとする意思だけなんだと思う。
僕は続けたいと思う。
僕の人生に欠かせない、大切な人達ばかりなんだから。

まぁみんな、そんな頻繁に連絡を取り合うような人間でも無いんだけどねw
いつかまたどこかで会えたら、道が重なって交差出来たらいいよね。


寂び

1/2日、夜。野木亜紀子先生が脚本を書いている、新春スペシャルドラマ スロウトレインを見た。

ドラマ、面白かった。
とてもあったかい、家族と未来の話だった。

物語の中心を担っていたものとして、盆石というものの存在があった。
編集者である渋谷葉子の次の仕事として依頼されたのは盆石のことをまとめた1つの本。ここから1つの物語は動き出す。

盆石を学び、侘び寂び に触れる。侘び寂びの"寂び"は"寂しい"ではないけれど、みんなの思う寂しいってなんなのだろうか。家族ってなんなのだろう。1人って。孤独って。

色々な気持ちを巡る電車のような物語だったようにも感じる。

物語終盤。はこねぇ(葉子)、みゃーこ(都子)、うーちゃん(潮)の3人姉弟は韓国のとある場所で、互いのことを話しあう。

その中で出てきた「他人を言い訳のせいにしない」という言葉にすこし、ドキッとした。家族の内ならまだいいけど、この先一緒に過ごしたい人がいるのならば、目をそらさず自分の気持ちをちゃんと伝えるべきだ とはこねぇはそう言っていた。

はこねぇ自身も家族や周りの人に誤魔化してきた。みゃーこもユンスに、うーちゃんも百目鬼先生に自分の不安を打ち明けられず、家族を言い訳にしていた。

でも、たぶんこれから彼女らはちゃんと真の意味で目を見て話すことが出来るのだろう。

はこねぇは道半ばでありながら、どこか他のキャラよりも達観しているように見える。
それはきっと自分が20近くのときに両親と祖母を亡くしてしまって、下2人の生活を守るために生活をしていたからだろう。

彼氏と別れてしまった理由こそ家族のせいにしてしまったものの、こういうところで落ち着いた先を見えているはこねぇがとってもカッコいいと思った。そうしてそれを、「犠牲になってない。自分のやりたいようにやった。」と言い切れるところが好き。

最終的にみゃーこはユンスと韓国へ、うーちゃんは百目鬼先生と生活をすることになる。彼女らは次の自分の駅を見つけた。渋谷家にいた人々はすべていなくなり、はこねぇだけになってしまった。

盆石のシーンで、盆の上に月を描くときに、講師の先生が「刻を描く」と行っていた。まさにその通りで、月を空に描くことで盆の中の世界は一気に夜へと変わった。

はこねぇが「刻」というシーン。
はこねぇは家族団欒の机を並び替え、椅子を縁側に置き、代わりに仕事用の椅子を置くことで、「1人の生活になった」という刻を描いた。

「はこねぇの次の駅は?」
たぶんその答えがここにある。

最後の、亡くなった両親へ心の内で宛てた手紙。そこには、自分がどのように生き続けるのか。両親の考える寂しさとは。など、いろいろな気持ちが書いてあった。

ただ、生きて、生きて、生きて。ただ生き続ける。

星野源さんのエッセイ「いのちの車窓から」にも通ずるところがあるようにも感じた。

眼鏡から見える、このレンズの窓の先。
僕たちの身は電車で、どこで分岐して交差するのか、どこの駅に着くのか、見えてる人も見えない人もいる。
それでもいいじゃないか。
いつかはきっと、たどり着くんだから。


空腹

この間、劇映画 孤独のグルメを観に行きました。

行きたいなとは思っていたのですが、いい時間が見つけられず、あきらめようかとも思っていた。
すると、スマホに一件の通知が。
Instagramのストーリーで松重さんのことを書いたら、友達が反応してくれて、一緒に孤独のグルメの映画を見に行くことになったのだった。

彼も孤独のグルメが好きだとは知らなかった。まぁ、僕は全話見てますってほどのファンではないのだが。(タイトルでおいしそうなご飯の名前があったらその回を見る という感じ)
彼は最近までやっていた「それぞれの孤独のグルメ」も見ていたらしい。残念ながら僕は見ていない。

映画の感想を言うなら、この映画は想像以上に面白かった。
元々がテレビドラマシリーズということで、あの展開が続くんだろうなぁと思っていた。
自分の仕事のシーンを映して→お腹が空いて→美味しそうな店を探して→見つけて→いっぱい注文して→とっても美味しそうに食べる というお決まりの連続。

そのお決まりがこのドラマは良いのだが、今回は映画ということで、どのような展開でどのように帰着していくのか、とても不安だったのだ。
今回は、もしかしたら見ないかもしれないし…という思いもあったので、前情報が自分の中に一つもなかった。
なので、始まりの展開からとても楽しむことが出来た。

どこまで言っていいのか、、、
たしかInstagramにフランスへ来ていたシーンは載っていたはずなのでそこの話でもしようか。

フランスのあの街で食べていたスープとビーフ、おいしそうだった。
オニオンスープとブッフブルギニョン。
あのシーンで五郎ちゃんがあんなにバクバクろ食べているシーンを見ただけでも何度も唾を飲んだし、お腹も何度も鳴ってしまった。

五郎ちゃんのビーフ食べたい欲がとても強く出ていたからこその食べっぷりが出ていたシーンだった。

他にも五郎ちゃんがおいしそうにご飯を食べるシーンはもちろんいっぱいあるので、おなかももちろんいっぱい鳴る。
映画が終わった後、彼に「お腹鳴ってたよね」と言われてしまった。周りの人に、少し申し訳なかったがそれくらいにはお腹が空く映画だ。

面白かったところとしては、シームレスに、いつもの雰囲気から味の違うドラマになって行くのが面白かったと思う。オダギリジョーさんのあの廃れた、腐った感じ。とっても好きです。
あとはそうだな、遠藤憲一さんが出てきたシーンは面白かった。

まさかこういう出方をするとは。それにしても、あのエキストラさん。どこかで見たことがあるような気がするんだけどなぁ。とっても美味しそうに食べる感じ。どこで見たんだっけなぁ。

映画が終わって、僕たちは昔孤独のグルメに出ていたお店へご飯を食べに行くことに。時刻は16時近く。ちなみにこれはお昼ご飯である。
僕も五郎ちゃんみたいに美味しそうに食べられるのかなと想像をしながら店の中に入っていくのであった。

光景:まとめ

この1月。いろいろな光景を目にしたと思う。
それこそ上にも書いたように、久々に故郷に帰ったし、友達と映画を見に行ったし。ここでは話していないが、実習も行っているので、本当にいろいろな体験をしている。

今回話に載せた 交差寂び空腹の3つの話は今年の1月から始めた日記から抜粋して、加筆修正をしています。
それでいったら陽光も日記で書いた内容の焼き直しなんだけど、それはちょこっと内緒にしていただいて。

毎月にも増して書く量が増えているので、手が進まないんじゃないかとおもったら案の定進まなかった。やっぱり難しいものは難しい。
どうしても、頭の中から文字のアイデアが消えうせて、手が止まってしまう。言葉を紡ぐのが難しくなってしまう。

日記に関しては、その日に感じたことを書けばいいのに、こと月刊においては、この月のまとめをしているので、その日のことを思い出さなくてはいけないという。

だから、自分の気持ちとかを語るような話が増えてしまうのですが、、、
結局今回もそれに逃れることはできなかった模様。

記憶、交差は一応 続きものとして書いています。
成人式。だいぶ深い日だったなぁ。

なつかしさとかを感じなかったのは本当。口でそうは言っても、どこか懐かしと思っていない自分がいた。言っても5年ですからね。外見は変わっても中身はそうそう変わらないのです。
ましてや人とかかわるときの自分なんて、"もっと"でしょう。

光景。光の景色。光が見せてくれる景色。
そのどれもが輝いていて、どこか清々しさを感じる。

未来が明るいものだとは残念ながら思えない。SNSの世界なんて、常にドロドロだし真っ黒だし、腐ってるって思うことも何度もある。
ネットから離れられる世の中であればいいのだろうけど、残念ながらそうもいかない世の中。

だからこそ、海とか光景とか、そういうどこか清々しさが感じるようなところが好きなんだろうな。
僕が秋冬が好きな理由もそういうところにある気がする。だって、晴れの日が多いしさ。

クソみたいな出来事を味わうときが今までもこれからも絶対あるけど、そんなときは上を向いて、明るい青空を眺めていたいじゃない。
そうすれば、少しすっきりして、またその時間を再開できるってそう思うから。

こんにちは、光景たち。

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