「『隠れ虐待』が母にバレた話」が母にバレた話 2019/3/8(隠れ虐待と母との記録3)
母は、私のことを名前で呼ぶようになっていた。
前回の記事を公開してから、1週間が経とうとしている。
人生を圧縮したような、記録しきれない色々な出来事があり、時間感覚があまりない。もうじき春がくるということだけを理解している。
結論、
は、即座に母親にバレた。
Twitterを母が監視しているようで、その関係で記事を出そうに出せない状態が続いていた。
溜まっていく一方の記録。
文を書くことうんぬんより、その後の家族への対応と、どうやったら母のネット監視から逃れられるか、どうやったら記事を出せるか、記事を公開する必要があるのか、なんのために記事を出すのか……そんなことであくせくと動き、頭を悩ませていている。
この記事が公開されているということは、いつかの私はなんらかの結論を出したのだろう。
さて、記録はあの記事を出した翌日からだ。
「『隠れ虐待』の記事がバレた」という記事を出した翌日、母から着信があった。
早いな、と思った。
電話に出る。フーフーと荒い息づかいが聞こえてくる。とりあえずどんな状況でも生きているようなのでひとまずほっとする。
「え、えりちゃんは、いま、じかんだいじょうぶ?」
えりちゃん、と、震える声が耳に入ってきた。
名前を呼ぶ声が耳から入って、頭の中の壁にバウンドしまくっている。あまりに耳慣れなくて語感が消えていかないのだ。
以前の記事に、母に名前を呼ばれ嬉しく思ってしまったと書いたのを思い出した。
私に問いかける声はまさに、ひらがなで表記したくなるような、一文字一文字必死に発音しているようである。
少し息を整えて母は、
「ひらがなで検索すると出てくるんだけど」
と言った。
「続き読みました」という意味だというのは言うまでもない。
もちろん着信の時点で予想はできていたが、つくづく今後こんなにありがたく思えない「続き読みました」はないなと苦笑してしまう。
あと母は意地でも私の名前を検索し続けるんだなぁとも渋く思う。勘弁だ。
後に調べると、ひらがなフルネームで検索するとTwitterのアカウントが出てきてしまうことがわかった。前回の記事を出してから何人かの友人に協力してもらって漢字の名字や名前では検索しても出てこないようにしたのだが、ひらがなではだめだったようだ。調べたところ、Twitterに本名情報が一切なくてもTwitterがGoogleと情報を連携しているせいというのが原因らしい。色々試行錯誤しているところだ。読んでいただいている方も是非一度確認して気を付けてほしいと思う。
「京都なにさんだっけ?」
「どうしてくれる?」
「やってくれたって感じだよね」
もちろん抗議を示してくる母。
それにしても、前回と違ったところは、それほど発狂していないことだった。
言葉が話せているし、こちらの声も聞こえているらしい。やはりフーフーと息は辛そうだ。今にも暴れる自分をぐっと圧し殺しているのがわかる。
理性で少しでも感情を押さえられている母を初めて見るので、私は内心驚いていた。私に電話をかける前、よほど頑張って感情を抑えたのだろう。
「すごくない?」
自分に言い聞かせるように落ち着きを自慢する母。私は苦笑いで返すしかない。
母は自分を落ち着けようとしているのか、「どうする?」「どうする?」と何度も繰り返している。
それは「どうしてくれる?」と「私はどうしたらいいの?」という感情の入り混じったものなのだと推測できた。
「心当たりがあるんだよ」
と、彼女は切り出した。
「色んなことを認めてないわけじゃない。心当たりがあるんです。でも書いてあったような多くの出来事のことは忘れてる。だから病院に行こうと思うから」
そう言いながら余計に息が荒くなる母。
私はほんの少し考えてから、こう答えた。
「お母さんがしてないと思うならそれでいい。
私が書いたことは本当でない。辛くもないから。
妄想だと思う。
過去の記憶は私もお母さんも変わっているから。
本当かどうかはもういいんじゃないかな。
病院に行ってお母さんが楽になるなら行ったほうがいいと思うよ。
でも心当たりがあるなら、それで辛かった過去を無理矢理思い出そうとして生活できなくなるなら病院行かなくていいんじゃないかな」
すると母は訴えた。
「妄想だったなんて言わなくていいだよ・・・!」
「辛くなかったって言わなくていいんだよ」
その母の言葉が決して嘘ではないことは、わかった。
母は自分を責め、私の気持ちを受け入れようとしている。
しかし、
「確かに、妄想だったなんて言わなくていいし、辛くなかったなんて言わなくていいんだろうね。
言わなくていいのに言っているんだよ。私、お母さんに過去のことを認められたいんじゃなくて、過去のような思いをこれ以上味わいたくないだけなんだよ。お母さんが頭でどう考えてるかなんて関係なくて、ただ、これからこれ以上ヒステリーやパニックを起こされるのが嫌だから、それだけを避けるために妄想だったと辛くなかったと言ってあなたを刺激をしないようにしてるんだよ」
と、私は母に
言わなかった。
母の私への思いが嘘でないこともわかったが、
本当の気持ちを言ったとて、母が私の気持ちを受け入れる器がないことは、23年かけてわかってしまっている。
認めてほしいとも、本当のことを言いたいとも、もはや思ってもいないのは、寂しいことなんだろうか。
その判断基準を、私は持ち合わせていない。
「妄想だって言わなくていいんだよ」に続けて、母は悲痛に叫んだ。
「私がずっと台所にいるのは、負い目があるから!」
そのあと、母は呟くように噛み締めるように言った。
「小さい頃、夏には毎晩庭で花火をやってたよね。そのとき、『お母さんもやろうよ』っていつも呼びに来てくれてたの。でも私いつも台所に逃げちゃって。それは今でもよく思い出すんだよ……」
母の伏し目がちな視線が目に浮かぶ。
私の瞼の裏にも、忘れていたその記憶が呼び起こされていた。
私は母と遊んだり楽しいことをした記憶がない。
母を恨んだことはないが、寂しく思っていたし、それ以上に母を心配していた。
お母さんと一緒の楽しい思いをしたかった以上に、いつも苦しそうな母に楽しいと言ってほしかった。そう言ってほしくてたまらなかった。
私はことあるごとに「お母さん一緒にやらない?」「お母さんは楽しい?」そう母に聞いていた記憶はある。
家族と出掛けた帰りの車で母とこんな会話をしたことがある。小学校低学年のころ、夏休みに年に1度大きなプールに出掛けた帰りだった。車の中、母の癇癪はピークに達していた。
「こんな大変な思いしてよぉ!」
母の剣幕は、狭い車の中で高密度に充満していた。空気が細かい無数の針になって、私の体に隙間なく刺さっている。
「お母さんは・・・楽しくなかった?」私は体に言い知れないジクジクとした痛みを感じながら、声を震わせて聞いた。
「はぁ!?」母は叫んだ。
「楽しいわけないだろ!ストレスでしかないに決まってるだろ!」
母のその叫びが、あまりの衝撃で車内にやまびこしているかのように感じた。体に電気が走る。
おでかけが、楽しくないなんて。
年に一回の待ちに待ったおでかけ。お母さんも楽しいとばかり思っていたら。
違った。
私のせいでお母さんは楽しくないんだ。
私が勝手に楽しんでしまっただけだったんだ。信じられなかった。
そして自分の愚かさを幼ながらに恥じたのも本当だ。
おみやげに買ってもらった欲しかったラブアンドベリーのCDも、捨ててしまいたいと思った。
そして家に着いてからの地獄の時間を憂いた。
いつだろう、「お母さんも楽しい?」そう聞くのを諦めてしまったのは。
上京して、田舎から母が東京へ来る用事があったとき、つかの間東京を案内して駅まで送ったことがあった。
そのとき母が
「ありがとう。楽しかったよ。」
そう言って笑ってくれたとき、「お母さんも楽しい?」と言った小さい頃の何回もの場面がフラッシュバックした。
そのたった一言がふいにあまりにも嬉しくて、言葉にならなかった。
言葉にならない代わりに、フラッシュバックと一緒に思い出した、小さいころ、言いたいと夢見ていた一言を台詞のように返した。
「お母さん、私も、とっても楽しかったよ」と。
あれから4年ほどがたったのだろうか。
電話越しに、彼女に湿った後悔がどんどん巻き付いていっているのがわかる。
彼女が後悔に絞め殺されようとしている。
「フルタイムで働いてたわけでもないのに、なんであんなに余裕がなかったんだろう」
母は静かに言った。
そう言う母はつかの間、穏やかにすら思えた。
「子供を二人育てるって、そういうことなんじゃないかな」
しばらくして、私も静かに答えた。
あぁ、家族が静かに終わろうとしている、そう感じた。
この母との会話の沈黙に流れる、LINE通話のかすかなノイズをBGMに、母との関係が閉じようとしている。
私は今、自分が何を望むのかもわかり切れていない。
怒りと自責でどうしようもなくなった母ができたことは、やっと私を名前で読んでみることだった。そんなことは私は嫌でもなんでもなかったのに、そこじゃないのに。
その母の不器用さがあまりにもどかしく、いじらしい。
それでいいじゃないか。
そう思った私は、
私は、母にこれだけ言っておかねばと、口を開いた。
「お母さん。私はなんで、これを書いたと思う?」
(続く。続くといい。)
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