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トマージ・ディ・ランペドゥーサ『山猫』

 アラン・ドロンが出演したことでも有名なヴィスコンティの映画『山猫』(1963)の原作小説。ドロン追悼記念で再読してみました。この小説自体も、イタリア最高の文学賞であるストレーガ賞を1959年に受賞しており、歴史的評価の高いものです。

 イタリアの書評サイトTuttolibriが行ったアンケートでは近代イタリア文学で1番の小説に選ばれ、2012年に行われた英Guardian紙の10の偉大な歴史小説というリストにも、トルストイらと並んで選ばれています。

 作者はトマージ・ディ・ランペドゥーサというシチリアの大貴族の末裔で、本人も宮殿で生活していた筋金入りの貴族でした。ヴィスコンティもミラノの大貴族の末裔ですし、南北を越えたシンパシーがあったのかもしれません。

ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(1896〜1957) 公爵

ストーリー

 19世紀半ばのシチリア。イタリア統一を掲げる勢力が半島を席巻しており、とうとうシチリアにもガリバルディ率いる赤シャツ隊がやってきて、大混乱に陥る。

 シチリアの大貴族サリーナ公爵家のドン・ファブリツィオは、その変化に狼狽えるだけの周りと異なり、貴族なのに赤シャツ隊に参加するなど活発な甥のタンクレーディに新時代を思い支援する。

 シチリアも新イタリアの傘下になり、新時代が来る。タンクレーディは貴族の女性ではなく、新興ブルジョワの娘アンジェリカと結婚すると浮かれており、それに衝撃を受ける。しかし周りの変化にためらいながらも、舞踏会の後で貴族の時代の終わりをしっとりと受け入れる。

 映画とほとんど変わりませんが、映画との違いは

①映画では有名な宴会で終わりますが、原作は公爵の死と、エピローグで舞台である屋敷自体の終焉まで書かれています。滅びゆく美の煌めきをヴィスコンティは映像にしましたが、原作は「滅び」まで書き切っており、頽廃的な余情と詩的なカタルシスはないです。

②タンクレーディもアンジェリカもそこまで出てきません。映画ではアラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレが演じたこともあり、その出番がかなり多いのですが、原作はほとんど公爵(映画ならバート・ランカスター)と彼の視点です。
 神父や娘のコンチェッタもそれなりに出てきていますが、ヴィスコンティは3人の映画スターに一切を凝縮させたつくりになっています。

作品の美質

文章による演出の卓越性

 分かりやすい面白さはない小説です。ひとりの高齢貴族が時代の変化をしみじみと感じながら去っていくだけの話であり、何か特別な行動を起こすわけでもなく、教会に行って一族の歴史に思いを馳せたり個人的な天文学の話をしたり、といった耽美派的なものです。ストーリー自体に面白さはありません。

 この作品の魅力はまずもって文章表現にあります。凝りに凝った文体です。

 ところで貴族階級にも、守護神なるものは存在する。その名は〈礼節〉、しばしばこの女神は、《山猫》族が道を誤らないよう、救いの手を差しのべてくださるのである。

p178

 山猫は公爵家の紋章のことですが、このように比喩が散りばめられた絢爛な文章が最後まで続きます。他にも、例えばシチリアの風景描写は彫琢されたイメージの連続で、

 狩人たちが山の頂上に達したとき、御柳とコルク樫の疎らな林の間から、正真正銘のシチリアの姿が現れた。それに比べれば、バロック都市や柑橘畑は取るに足らない飾りにすぎない。尾根また尾根、と波打ちながらどこまでも続く不毛の地。
 尾根は物悲しげに打ち沈み、理性の力では、鵺のような全体はおろか、その主要な輪郭すらつかめず、太古の混沌期の姿などとうてい想像もできない。それはまるで風の変化により、波が狂気に取りつかれた瞬間、石のように固まってしまった海のようだ。

p146

 不毛や狂気といった負の言葉がシチリアの自然を書く際によく使われます。その自然の中で話が展開されているため、華やかな貴族社会の描写が多い中で死の気配や陰鬱な印象をもたらし、それぞれが強烈な光と闇の対比になっています。文章による世界観の演出が卓越しているのです。

 闇の自然に対する光の部分として舞踏会の場面、

 生きたまま茹でた珊瑚色の伊勢海老、ほんのり黄味を帯びた白い肉が、見るからに柔らかで弾力ある肌合いの仔牛の冷製、まろやかな味のソースに浸した鋼色の鱸、オーヴンで狐色に焼いた七面鳥、その内臓をすりつぶし琥珀色のペーストにして塗りつけたカナッペの数枚重ねが添えられた。
 骨を外した山鷸、フォアグラを入れゼラチンで固めた薔薇色のパイ、オーロラのような光を放つガランティン、その他多くの、多彩かつ残酷な悦楽の品々。

p338-9

 ガランティンは薄切りの肉のロール焼きみたいなものですが、オーロラのようとは、まず食べものに使わない表現です。上にあげた負の自然描写と没落のストーリーに包まれているからこそ、華やかな場面はひたすらに豪華に描写され、それぞれの光と闇が対比効果で際立つのです。

真の貴族性

 著者も正真正銘の貴族なので、日本のなろう系が書くイマジナリー貴族ではないです。本物による「貴族とはなにか」という思索がストーリーとは別に、作中の至るところで考えられています。

 公爵は天文学者でもあるので、観測所での独白に

 真の問題はただ一つ、精神を、死にもっとも相似した、もっとも抽象的な時間の中で生活させることなのだ。

p61

 と、時代の変革期において、浮世離れしたことをずっと言っています。俗世や現実と違うところに根を張る存在が私であり貴族なのだと言わんばかりです。作品全体を通して公爵は家長として絶大な力を家族に対して振るっているので、家父長制のニュアンスが極めて濃い小説でもあります。

 修道院には、出入り禁止の厳密な規則なあった。つまり男性の立ち入りは、固く禁じられていたのである。だからこそドン・ファブリツィオは、ここを訪れることが特別に好きだった。
 というのも、創立者の直系子孫たる彼には、その締め出しの原則は適用されず、しかもこの特権を、ナポリ王ただ一人とだけ、分ち持っていたのである。それだけに彼はなおさらそれに執着し、子供のように誇らしく思っていた。

p122-3

 貴族の中にも序列があることを示していますが、彼らにとって歴史に接続する特権を有するということが何よりも誇りであるという感性が見て取れます。
 豪華な衣服や見事な教養などは頑張れば当人の努力で何とでもなりますが、些細な、しかし他とは絶対の隔離にある歴史と結びつくことを、この上ない快感とする考えこそ、歴史の中を生きる者だけの恍惚です。それは人の時空間とは異なる星に惹かれる、公爵の天文学者という設定も重なるように思います。

 このあたりはプルーストも貴族(ゲルマント家の人々)の描写で指摘していましたが、ヨーロッパ貴族はどんな感じかなと思ったら、この本を読めばすぐ分かります。著者はひょっとすると貴族という存在がどういうものだったかを、この小説に保存しておきたかったのかもしれません。

もうひとりの主人公 シチリア

 貴族という存在が理解できると同時に、シチリアという島がどのようなトポス(場)であるかを示してくれます。

 少なくとも二千五百年の間私どもは、種々雑多、さまざまな輝かしい文明の重荷に耐えてまいりました。すべて外来の文明ですが、やってきたときにはすでに完成品でした。どれ一つとして、この地で芽生えたものはありません。

p259

 真実がシチリアほど短命なところはどこにもない。五分前に起こった出来事であっても、その事の真の中核は、幻想と利害によってたちまち消滅し、隠蔽され、美化され、抑圧されて無と化してしまうのである。

p394

 かなり辛辣ですが、シチリアという多くの民族が押し寄せて文化が混淆していったカオスで重層的な世界を生きる、ため息のようなものが伝わってきます。自然描写でも悲観的な風に書かれていますが、ランペドゥーサ自身が故郷シチリアに抱いていた印象なのかもしれません。

 ただそれ故のリアルな重みを感じます。文意に説得力があるのは貴族論同様に著者がシチリア人かつ大貴族の末裔だからかもしれませんが、浮ついていないのがいいです。辛辣であっても脚色はない、あくまで公然事実を摘示しているだけ、という冷たい乾きがそこにはあります。これは地元民しか書けない表現です。

 公爵と並びシチリアの風土と精神が本作の主人公と言えます。

まとめ

 あらすじだけ読むとダイナミックでも、ストーリー自体は非常に平凡で、登場人物たちもそこまで躍動するわけではなく、事件が起きて次はどうなるかを掻き立て読者を運ぶタイプの作品では全くありません。また解説にもあるのでいいのですが、イタリアの近代史を多少知ってないと読み解けません。

 そのため暇つぶしや娯楽としての読書には全く向いてないと思います。その方面では退屈です。

 この作品の美質は文章表現の類稀な華麗さと、節々に込められた貴族の精神とシチリアのリアリティに尽きると思います。この2点について並ぶものはそうないでしょう。特に後者はこの『山猫』にしか存在しない傑出した美質です。

 それと同時にヴィスコンティが原作から抽出して広げたところも、やはり見事だと思いました。原作通りではないのですが、エッセンスは完璧に引き出せていますし、偉大な映画監督は偉大な読書家でもあったのだなと感心します。本と映画を比べてみるのも一興です。

 最後に、タンクレーディ役をつとめたアラン・ドロン氏のご冥福をお祈りします。

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