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【ヤべえ本】1970年代の過疎集落にいた精神病患者たち【読書記録】


『夜は短し歩けよ乙女』にも登場した古本市です。

さる8月12日、友人と京都は下鴨神社の「下鴨納涼古本祭り」に行ってきました。古本屋27店が集結して、糺の森の木々の下にあった古本の量は圧巻です。江戸時代や戦前の古書から数学の学術書や90年代のアニメ雑誌まで、多種多様な本の世界に迷い込んでおりました。

さて、そんな中で友人が見つけた一冊に興味深いものがありました。

萩野恒一著『過疎地帯の文化と狂気 奥能登の社会精神病理』

というその本に興味を惹かれた私は、自分の獲物そっちのけで読み始め、やがて貪るように読んでいったのです。

本書の概要

「文化と狂気」という強烈なタイトルですが、中身は精神科医による至極まっとうなフィールドワークの成果報告と患者の症例報告になります。
 発行年はISBNコードができる前の1977年。
高度経済成長期にあたるこの時代、生活の現代化が波及し伝統が脅かされ始めた石川県能登半島の奥地(奥能登)の過疎地域で、精神疾患の症例研究とそれを招く地域性と文化の影響について述べています。
大変興味深い内容ですが、

「分裂病」「破瓜病」(統合失調症)、「痴呆」

など当時の用語に沿って書かれていることに注意が必要です。

患者の紹介

本書では実際の精神病患者の症例について匿名で書かれています。

1人目:50代の女性
先祖代々の名家に生まれ、大きな耕作地を持つ彼女の家は、稲作とタバコ栽培を代々続けていました。しかし戦後の減反政策により稲作の削減が求められ、彼女の村は一部の田を杉苗畑にすることを余儀なくされました。
充分な補償の元承諾する他の村人に対し、彼女は強硬に反対を行います。先祖代々の農作を変えてしまうことに対して強硬に反対する彼女ですが、次第に孤立。諦めるに至りました。
ところが、この頃から次第に無気力や無感動の症状が現れ、一日中「何故あの時反対して波風を荒立たせてしまったのか」という後悔ばかり考えてしまった、ということです。
彼女は「うつ病」とされました。

2人目:30代男性
開明的な父親のため、都会への大学進学を当然とする家風に育った男性。優秀な兄弟たちに対してあまり成績の良くなかった男性は、受験に失敗し、「誰でも行ける」大阪の大学で形式的な試験を受け入学します。大阪での下宿生活は母親や兄と一緒ではありましたが、夜遅くまで外で勉強する兄や無関心な母と会話をする時間は多くありませんでした。
体育以外の全科目で不合格を取り、単位を取れなかった男性。次第に通学も滞りがちになります。
そして久しぶりに登校したその日、男性はある学生運動のヘルメットを被った男にビラを渡される、という出来事に遭遇します。
何事か捲し立て、勧誘する彼に対して男性には一切の学生運動や大学生活に対する知識が無く、ただ恐ろしくなってその場を立ち去りました。
その後、「ヘルメットの男」が耐えず自分を監視し街中を付け狙っているという妄想に囚われ、幻覚・幻聴の症状が現れた彼は「分裂病」と診断されました。

3人目:男性
同じく裕福で開明的な父親の元に生まれた男性。教師を務める父は村でも尊敬を集める立派な人物とされていました。期待に応えて勉強を進める男性でしたが、方言を笑われたり寡黙な性格により孤立。成績も低下していきます。その後、「自分は金沢大学の教授になるのだ」「金沢や東京の街中が自分の噂で持ちきりだ」という妄想に捉われ、隣人を敵視したり粗暴な行動が目立つようになりました。男性は「破瓜病」(主に思春期から青年期までに発病することが多い統合失調症)
と診断されました。

この他にも様々な症例が紹介されています。

患者たちの苦悩

1人目の女性の発病の要因として、保守的な価値観や物への執着が強く、思い込みが強いという理由が挙げられていました。他の価値観や環境の変化になれておらず、先祖伝来の秩序が崩壊するとまで感じた彼女はスギ苗畑への転換に強硬に反対したのです。しかし反対によりかえって村全体の秩序を壊してしまったことに思い悩んだ彼女は、大きな罪の意識を抱えてしまいました。

 2人目と3人目のケースは、逆説的ですが能登の開明的な気風に現れています。2人の父親がそれぞれ中央文化への志向を持ち、進学を積極的に勧めたように、能登地方にはしばしば開明的な気風と中央文化との交流がありました。
能登の集落では男女問わず一生に一度は近畿に出稼ぎをする習慣がありましたし、明治時代には国の「富国強兵」のスローガンに応え、積極的に兵士や教師を輩出したのです。

こうした進学を模範とする風潮のもと、勉強についていけなかった彼らは、故郷に戻って農業をすることも拒み、かといって未来にも八方塞がりになり妄想の世界に入ってしまったのです。


「能登は僻地なのか」 仏教文化

冒頭の章では能登半島に伝わる民話を元に、精神病理学で解釈できる描写、民話から伺える伝統的な考え方について述べています。
ここで著者は、能登の人々の基本的な考え方を、
よそ者を過剰に排除し、敵対する。自集落以外の来訪者は全て敵であり呪術的に対抗する必要があると考える、「シャーマニズム的世界観」
だと設定します。

著者の時代(70年代当時)においても、通学路で通らざるをえないよその集落の小学生に対して石を投げる、ということは日常的だったとのことです。

ところがここに、異なる近隣の集落であっても協力する「博愛」の考え方を植え付けたのが浄土真宗を中心とする仏教の世界観、だとしました。

室町時代の僧・蓮如の滞在以来、北陸地方には本願寺の浄土真宗門(一向宗)が盛んになった歴史背景があります。
特に近隣の加賀国は「百姓の持ちたる国」として1488年から1580年にかけら約100年にわたり大名や守護を追い出して一向宗が直接支配する国になった事は有名です。

能登国にも加賀国と同じく、「お講」と呼ばれる寺や各家庭に集まって僧の説話を聞いたり有事の際に助け合う細かいコミュニティが形成されていきました。

「能登は僻地なのか」   海上交通


能登は冬は雪に閉ざされ、深い山々があり陸上交通では孤立しがちな立地でした。しかし歴史上、海上交通が盛んな時期においては多いに中央文化と接触し、爛熟した文化をまとっていたのです。

一つ目は平安時代、中国東北部に現れた渤海国との交易です。能登に迎賓館が置かれ、黒テンやヒョウの毛皮など大陸の名産を京都に送る窓口となりました。

二つ目は江戸時代、菱垣廻船で江戸〜大坂の航路に能登が組み込まれたことです。特に能登商人の活躍は目覚ましく北海道にも多くその名残と子孫が残っている他、
「鴻池財閥」は北前船の能登商人の出でもあります。

こうした陸運による閉ざされた時代と、海運による開かれた時代を交互に経験した能登は、
保守性と開明の二面性を持つに至ったのです。
そして、患者たちの発病背景には少なからずこの二面性があるということでした。

感想

この本の全ての興味深い点を取り上げることは叶いませんでしたが、患者たちの例を見ると、この時代・この場所の環境と限られた経験量のみで生きた場合、誰が生きても同じように病んでしまうだろう、と思わされました。

著者は「もし数世代前の不変の農村風景で一生を終えれば彼ら彼女らは発症することはなかっただろう」として、変化の時代だからこそ二面性が悪く作用したと述べていますが、

私はインターネットや特性に合わせた教育体制のある現代ならまた、彼らの苦悩も楽になっていただろうにと思わざるをえません。

時代が変わり、他の考え方に触れたり異なる選択肢を知ることは容易になりました。彼らのように思いつめてしまう人が減ることを願うばかりです。

また、本書で紹介される事例は実際に精神病院に入院した患者のみでした。
よって、観測不可能な相当数の未診療者がいた可能性は高いでしょう。
中には世間体によって隔離されたり私宅軟禁に近い境遇にあった人もいたはずです。

50年前の出来事ですが、今とは全く違うようでどこか他人事に感じられない患者たちの境遇が気の毒でしょうがなく、せめて彼らが幸せに生きたことを願って本を閉じました。







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