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【世界史】好きなWikipedia発表ドラゴン【時間泥棒】

好きなwikipedia記事を発表します~


すきすきだいすき~♪

さて、巷では「Wikipedia三大文学」なるものを言われることがあります。
「三毛別羆事件」「地方病(日本住血吸虫病)」「八甲田雪中行軍遭難事件」の3つを指して、文学作品のように思わず読み込んでしまう名作記事とされているのです。
事実、日本住血吸虫の媒介生物「ミヤイリガイ」を駆除するために実施された山梨県民の物語は何度もまとめサイトなどで拡散され、ネットではそれなりの知名度を誇ります。(かくいう私も夢中になったことが……。)

しかし、こうした記述の文学的情緒や知名度の有無にかかわらず、興味深い記述があるwikipedia記事は沢山あります。
そこで今回は私的に面白かった、世界史関連の記事を中心に紹介します。


1.さんた丸や

隠れキリシタンの聖母子像

 「さんた丸や」は長崎県の隠れキリシタンに伝わる聖母です。「サンタ・マリア(Santa Maria)」の訛りであり、16~17世紀以降キリスト教が禁教とされて宣教師との交流が途絶えてしまって以来、ひそかに信仰を守るうえで独自に発展した教義の一つです。

興味深いのは『天地始之事』と称する独自の教義にまとめられているのが、
「丸や」がルソン(フィリピン)出身であるとか、奇跡を起こして6月に雪を降らせた、といった旧約聖書からは似ても似つかない魔改造をされている点です。

ただし、キリスト教が地域によってローカライズされた教義が広まったのは珍しい事ではありません
例えば、エチオピア正教会の壁画ではキリストは黒人として描かれることがありますし、ニュージーランドのマオリの間ではユダヤ人の苦悩と白人に土地を奪われた自分たちの境遇を同一視したケースもあります。

また、隠れキリシタンには「元和の大殉教」(1622年)や「豊後崩れ」(1660年)など多くの犠牲を払いながら信仰を守り続けた歴史があります。
珍奇な視線で消費するだけでなく、さんた丸やの記事を入り口に日本キリシタン史を知ることも大切です。

ちなみにカトリックの原型からは大きく異なる教義のため、長崎県には現在も「キリシタン」信仰を続ける方もいるとされています。
さんた丸や - Wikipedia


2.ナーランダ僧院

ナーランダ遺跡

ナーランダ僧院は、インド北東部のナーランダにて5~12世紀に営まれた学問の中心地です。仏教の典籍研究が主に行われ、最盛期には教師約1000人、生徒約1万人が在籍していたとされ、まさに古代インドの学問の中心でした。

また、かの三蔵法師こと玄奘の目的地の一つとしても知られています。
彼がここから持ち帰った数百の仏典は、多くが漢訳されて「大般若経」をはじめ多くの重要な経典が編纂されることになりました。

ナーランダ僧院の驚くべきはその規模です。
グプタ朝によって創設されたその施設は、図書館が9階建て
ヨーガカラやサルヴァスチバーダなどの6つの主要な仏教宗派・哲学ヒンドゥー教ヴェーダとその6つの哲学、さらには文法、医学、論理、数学などの科目を教えられていました。

そして蔵書数は約5万冊総敷地面積は約50㎢にも達し、
これは日本最大の大学キャンパスである九州大学伊那キャンパスの約18倍、
山手線の内側の面積の約80%にもあたります。

学問の中心として賑わった当地ですが、インドでの仏教衰退を機に徐々に衰退。そして1193年にイスラム教勢力の、奴隷王朝(インド・マムルーク朝)の将軍ムハンマド・バフティヤード・ハルジーによって破壊され終焉を迎えました。

現在、遺跡は世界遺産に認定され、インド政府による現代大学としての再建プロジェクトが持ち上がっています。

ここのオープンキャンパスとか行ってみたかったですね……。
ナーランダ僧院 - Wikipedia


3.ユダヤ系アメリカ人と中華料理

19世紀からアメリカ人の舌に合うように中華料理は現地化していった。

アメリカでは「ユダヤ教徒はクリスマスに中国料理店で食事をする」というステレオタイプがあります。

一見かけ離れたイメージの両者が出会ったのは、19世紀のNYの貧民街ロウアー・イーストサイドでした。ここには東欧系のユダヤ人とカリフォルニアから移住した中国人がごく近くに居住しており、中華料理店にユダヤ人が訪れることになりました。

当時ユダヤ人は、他の人種から差別や迫害の対象となっており、
多くの料理店では排除や好奇の目線の対象となっていたのです。
ところが、文化的に遠すぎるユダヤ人に対する先入観がない中国人は彼らを歓迎。ユダヤ人も居心地の良い料理店と捉え徐々に人気になりました。

そして中国料理のエキゾチックな物珍しさに加え、ユダヤ教の戒律的にも中華料理には利点がありました。
ユダヤ教には、モーセ律法に基づく「カシュルート(כַּשְׁרוּת)」と呼ばれる食に関する決まりがあります。
豚肉やエビ・カニなどの甲殻類はカシュルートにより禁忌とされていますが、中華料理は「割烹」という具材を細切れにする調理法やワンタンなどに包んで食材を見えなくする調理法が多いため、禁忌の食材であっても問題がない、という解釈がなされました。

1935年ごろには、中華料理とユダヤ人を結びつけるステレオタイプが報道され始めました。

異文化交流のケースとして面白いですね。
ユダヤ系アメリカ人と中華料理 - Wikipedia


4.以北五道

5つの行政区が北朝鮮の統治下にある。

「以北五道」は大韓民国によって設置された行政区の通称ですが、
その全ては朝鮮民主主義人民共和国の統治下に置かれており、
韓国の統治が実際に行われたことはありません。

黄海道、平安南道、平安北道、咸鏡北道、咸鏡南道の5つに「道知事」が
1949年以来置かれており、以北五道委員会と呼ばれる委員会が
離散家族の連絡や郷土文化の伝承などの業務を行っています。
北朝鮮による「実効支配」を認めず韓国の行政が及んでいる正当性を主張するためです。

逆に北朝鮮にも同様の行政区画が韓国領土に当たる朝鮮半島南部地域にも充てられているとのことです。
この他、中華人民共和国には「台湾省」が置かれていたり、
中華民国側には「福建省」が置かれています。

ちなみに台湾(中華民国)では、
90年代の民主化まで他地域の省の行政も設定されていた他、
中国本土で選出された国会議員しか認められないため、物理的に選挙が行われず1949年以前に選出された議員が永遠に任期を務める「万年国会」なる現象もありました。

なお日本の「北方領土」における村長などの行政権限は、根室市長が兼任しているそうです。
以北五道 - Wikipedia


5.オリンピックの開催地選考

五輪旗。東アジア以外のアジア、アフリカでの五輪開催はまだ実現していない。(2024年現在)

近代オリンピックにおける夏季・冬季で開催を立候補した都市の一覧です。
開催の有無にかかわらず落選した都市も含まれているのが特徴で、
エジプトのアレクサンドリア、キューバのハバナなど意外な都市も含まれます。

中でも米デトロイト市は2024年現在で、最多7回立候補を数えていますが、いずれも落選して開催に至ったことはありません。
1944年,1952年,1956年,1960年,1964年1968年,1972年の立候補のうち、
当時のケネディ大統領から正式に国を代表する立候補都市として承認された、1968年の選考が最も開催実現に近づいたといいます。

しかし、1963年には立候補を後押ししていたケネディ大統領の暗殺が発生。さらには1950年代以来、アメリカ国内の自動車産業が衰退しデトロイトから人口の流出が始まっていた他、人種暴動も頻発し治安と予算の面から招致を断念。1968年の夏季オリンピックは、メキシコシティーで開催されました。

同市は24年の開催も立候補していましたが、財政難を理由に辞退しています。
オリンピックの開催地選考 - Wikipedia


6.アブラム・ガンニバル

アブラム・ガンニバル(1696~1781)

アブラム・ガンニバル(Абрам Петрович Ганнибал)はピョートル大帝に
仕えたロシアの軍人です。

彼の出生は詳しいことがはっきりしておらず、エチオピア出身ともカメルーン出身ともされていますが、1703年ごろに奴隷としてアフリカからオスマン帝国に連れてこられたことは確かなようです。

彼はイスタンブールに赴任していたロシア大使によってロシアへ連れていかれ、ピョートル大帝によって洗礼を受けました。
ピョートル大帝はロシアを近代化に導くために、自ら身分を隠してオランダの造船所に留学したり、暦や顎髭を生やす風習などのロシアの伝統習俗を改廃するなど、型破りな皇帝です。
出自や身分、人種や肌の色を問わない皇帝の方針により、彼はロシアで貴族として育てられることになりました。

1717年には科学・軍事の学習のためにパリへ留学。
ルイ15世のもとで四国同盟戦争に従軍。この頃、ローマ時代のポエニ戦争の名将ハンニバルのロシア語読みから「ガンニバル」と名乗り始めます。

帰国後、ピョートル大帝の崩御を以って一時失脚しますが、
女帝・エイザベート1世のもとで、オーストリア継承戦争や七年戦争に従軍。軍事的名声を確立しました。
彼はサンクトペテルブルク付近プスコフに領地を与えられ、その子孫は貴族として続きます。

ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンは彼の子孫とされています。

型破りな主人とアフリカ出身の武人という対比から、どうしても
織田信長と弥助の関係を思い浮かべてしまいます。
アブラム・ガンニバル - Wikipedia



7.奴隷制度に対するキリスト教徒の見解

奴隷船内部の様子

その名の通り、奴隷制度に対するキリスト教の神学者の見解を掲載している記事です。

新約聖書が編纂された紀元後1世紀の古代ローマ時代では、奴隷制度を廃止することは非現実的でした。
ローマ社会にとって異分子であるキリスト教が広まるにはある程度文化的慣習に従う必要があり、初期のキリスト教を布教したペテロは、奴隷制を認めつつも奴隷については寛容であるべきとしました。

4世紀の神学者アウグスティヌスは、聖書から人間の自由意志の問題から奴隷制度を批判しています。また旧約聖書の解釈によって、同じく神の創造物である奴隷も大事に扱われなければならない、と複数人により解釈されました。

中世以降キリスト教化したヨーロッパでは、奴隷制度は公式には廃止されていきますが、不徹底であったり農奴の存在などは長く残りました。

アメリカ「新大陸」が「発見」された後、「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」を後に刊行したラス・カサスらにより、アメリカ大陸での先住民の虐殺や奴隷労働の実態が明らかとなりました。
これを受けて、1537年にローマ教皇パウルス3世はアメリカ先住民も自由の権利や私有財産を持つと定めた、「スブリミス・デウスSublimis Deus」と呼ばれる勅令を発表します。

これは画期的な内容でしたが、1534年にスペイン国王が奴隷制の廃止を撤回するなど、カトリック信仰圏でもこの勅令は実行力を持っていたとは言えませんでした。

18世紀後半から奴隷制が廃止される流れとなった際には、メソジストやクエーカー教会が直接的な役割を果たしました。

奴隷制廃止の主張が受け入れられたかどうかは、結局のところ時代の流れが大きいように思います。このほかにも神学的な解釈などが詳しく載っていますのでご覧ください。
奴隷制度に対するキリスト教徒の見解 - Wikipedia


情報の正確性が確認できないやーつー

本記事では基本的にWikipedia記事を元に紹介しているので、歴史的に厳密な事実に基づいているとは限りません。

可能な限り正確性を担保するため、日本語版wiki等でしか確認できなかった事実の記事は泣く泣く除外しております。
(例:トンガの歴史 ートンガ近代帝国主義 トンガの歴史 - Wikipedia)

ですが、私は専門家ではなくただの好事家にすぎません。本記事を引用・出典にする際は必ず本記事とwiki記事以外の
書籍・論文などを確認していただくようお願いいたします。
謬説の拡散にはご注意ください。

※本記事内の記述に誤りが確認できた場合、明記した上で訂正させていただきます。


好きなWikipediaがー
また出てきたその時はー発表しーたい~

知らない項目のWikipedia記事をサーフィンしているときは楽しいですよね。
今後も紹介したい記事が貯まれば書いてみようと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。


では!

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