【読書記録】ロバート・ルイス・スティーブンスン『ジーキル博士とハイド氏』
最近は『罪と罰』や『クリスマスキャロル』など、聞いたことはあるけど読んだことがない古典の名作を手当たり次第に読んでいます。今回取り上げる『ジーキル博士とハイド氏』もその一環で手を付けました。
「ジキルとハイド」のフレーズは二重人格の代名詞としてよく使われますが、実際に読んでみたところ面白い発見がいくつかありました。
まずジーキル博士が元から二重人格なのではなく、薬で無理やり人格を分離するというところが意外でした。
普段は良心や理性で抑えている欲望を思い切り解放したいというのは、実行するかどうかは別にして、自然な欲求だと思います。まして地位や名誉のある紳士であればなおさらかもしれません。それを医学の力で自分とは別の悪の人格として両立させるという発想が見事ですね。
この作品が発表されたのは1886年のことで、イギリス中で物議を醸したそうです。いくら別人格とはいえ、元をたどれば一流の紳士の心に潜む残忍性や冷酷さが暴走して最終的に殺人まで犯してしまうわけですから、当時の上流階級の人々には受け入れがたい話であったのかもしれません。
私が注目したのは、ジーキル博士がハイド氏に変身すると、身体が縮むという設定です。
これについては、ジーキル博士の中の善の人格に比べ、悪の心は今までの人生でずっと抑えつけられてきたために、ハイド氏の体も小さくなったのだろうという推測が、ジーキル博士の最後の手紙の中で綴られています。実際ハイド氏はジーキル博士の服をそのまま着用し、ブカブカの格好のまま行動しているところを周囲の人たちに目撃されています。
このハイド氏がジーキル博士と比べて体が小さいという点について、私は一つの疑問を抱きました。
変身した最初の頃のハイド氏は、街の人に悪態をついたり睨みつけるなど、せいぜい接した人の気持ちを害する程度のことしかしませんでしたが、ある時はぶつかった少女を平然と踏みつけるなど徐々に暴力性が増していき、最終的には殺人を犯してしまいます。
しかし、ハイド氏の悪の人格(ジーキル博士の欲望の開放)がどれだけ成長しても、ハイド氏の体が大きくなったという描写はありません。最後までジーキル博士との体格差、服のサイズの違いは変わりないのです。
個人的には変身を重ね、悪行を重ねる度にハイド氏の体も大きくなり、最終的にはジーキル博士の体と同じサイズ、もしくはそれを超える大きさになっていた、という方がしっくりくるのですが…
気になったのでフリーで公開されている論文を色々調べてみたところ、ハイド氏の体については世界中でそれなりの量の研究成果が発表されているようです。その中でも、中村晴香氏の論考に私の気になっているポイントが上手くまとめられていました。以下のURLのものです。
曰く、ハイド氏の体は当時流行っていた退化論(ダーウィンの進化論の逆)や同性愛、人間の内面に他人が深く入り込むことへの警鐘などの様々な記号的役割を果たしているとのことで、納得させられるものでした。
この考察に従って考えれば、途中でハイド氏の体が大きくなってジーキル博士と同じ、あるいはそれよりも大きなものになってしまうと、動物と比べた時の人間の優位性(理性とも言える)は否定され、同性愛や個人の内面の過度な詮索が肯定されかねないことになります。
それはイギリスのみならず欧米社会の主流であるキリスト教の教義からしても、到底容認されるものではないでしょう。そのためハイド氏の体の大きさは作中で変化しなかったのだと思われます。
もちろんこの物語は普通に読んでいても面白いのですが、一歩踏み込んで考えてみると、このように奥深い世界が広がっていくのが名作文学の味わい深いところですね。
現代の日本人が読んでも全く色あせない魅力を感じられるので、機会があればぜひお手に取ってみていただければと思います。