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光の方へ。

皆さんは「宗教」と聞くと、どんな印象だろうか。
時折メディアでも話題となるが、目にするのは事件性のあるものが多い。

有名な事件の一つで言えば1995年に起きたオウム心理教の地下鉄サリン事件。連日報道されるあの事件を、当時リアルタイムで観ていた僕も「宗教は悪い組織」という印象だったが、北陸の田舎ではテレビの中の別世界のものという認識だった。

多くの人は宗教に対して、不信感を抱いてるだろう。居酒屋で話すべきではない話題として、政治・野球・宗教と言われているぐらいセンシティブな話題だ。

狂信的となり、他人に信仰を強要するのは違うと思うが、信仰を持つ事自体は自由だし、どちらかと言えば肯定派だ。

今回は僕がそんな「宗教」に触れたお話。


ある日、僕は新宿の街景記録を撮りながら新宿を3時間ほど歩いていた。そして疲れ果てた僕は帰路を目指し、新宿駅東口へ辿り着いたが思わず石段にへたり込む。すると隣にはギターを演奏する男性、それを囲い共に歌う集団がいた。

話を聴いてみると、キリスト教の人たちだった。
みんな天を仰ぎながら恍惚な表情を浮かべながら讃美歌を歌う。その光景が混沌とした新宿とは相反し、神秘的で自然とその光に導かれ「この瞬間だけは、献身なカトリックになってみる。」と心に決めた。

元々宗教に興味があったというわけではないが、
信仰を持つ彼らを、ただの「街の光景」として面白がる事は失礼で、それは僕なりの彼らへの敬意の形でもある。

すると、ひとりの男性信者に声をかけられた。
「神について、信仰についてどう思う?」

思い返せば小学生の頃に、学校帰りにイエス様の絵本を配っている人から貰った記憶がある。

冒頭でも書いた様に、当時世間は連日オウム心理教の報道で賑わっていた。カルトと宗教の違いもわからず"怪しい存在"と感じながらも、その神聖なる絵柄や世界観に感じた事のない美しさを感じて何度も読み返していた事を覚えている。

すると母親に鬼の形相で「そんな気持ち悪い本を読まないで!」と取り上げて捨ててしまった時、捨てられて当然。と理解しつつも、大切な何かを取り上げられてしまった悲しみで、複雑な心境だった。

同時期に曽祖父が亡くなった。そこでこの世に"死"というものがある事を初めて知り、救いのない強烈な恐怖を感じたのを鮮明に覚えている。

学校終わりに自室の光の差し込む窓前で正座し、手を合わせて号泣しながら「死にたくありません。どうにか僕を救ってください。」と神様にお祈りを捧げる事が日課となっていた。

子供にとってサンタクロースを信じるように、
神様というのも漠然と絶対的な存在だった。


「特別何かを信仰してはないけれど、何か信じれるものがあるって救われる事で、自分にもそういう存在があればもっと幸せなのかも。」と答えた。

これは彼に歩み寄ったのではなく本音である。
僕には偶像仏だろうと、存在するものであろうと、崇拝するものがない。

基本的に刹那的な人付き合いが多く、他人は他人。と割り切る事が多かった。しかし最近、他人が自分に対する態度や扱いに敏感になってしまい、一方的に人間関係に疲弊していた。

作家活動をする上でネガティブな感情は、熱量となる。それを捌け口として写真に落とし込む部分があるので、作家としてその感情は肯定的だが、人間としては苦しく非常に不健康な状態だ。

恋愛も風俗も仕事もアイドルも宗教とそう変わりない存在だと思ってる。絶対的に何か信じれるもの。救いになるもの。がある生活というのは活力に溢れて、救いに満ちている様に感じる。

正直、何かすがれるもの。抱えるすべての荷が下ろせる場所。そんな救いの存在を欲していたから、
無意識にこの集いに惹かれたのかもしれない。

すると彼は「君の為にお祈りをしてもいい?」と言ってくれた。彼とその友人に挟まれ、彼らは柔らかく暖かな手を僕の肩に置き、時間にして2.3分だろうか。(体感5分ほど。)誠心誠意お祈りをしてくれた。
すべて英語だったので何を言っているかはわからなかったが、その手から、その声から、すべては伝わったつもりだ。

その後、彼らが読み上げる聖書に続くように一緒に読み上げたりもした。7割は発音出来ていない溺れるような僕の英語でも、彼らは笑うこともなく最後まで寄り添ってくれた。

すると、あれほど疲れ切った身体と眠気が嘘のように軽くなり、人生でこの様な体験は初めてで、驚き多幸感に満ちていた。日常で似た状態に例えるなら銭湯上がりの様な感覚だろうか。

とは言え、何をするにも写真を撮る事が先行するので、その状況に完全には没入出来ていなかった。
もし写真を撮らず、共に神様に祈りを捧げていたらまた違う結果になっただろうか。そして彼らに感謝を伝え、有り余る力でまた新宿を歩き続ける事が出来た。

初めての経験に気持ちが収まらないままに高円寺へ帰る。

馴染みのあるヒロシ君の歌声に導かれ、北口広場へ足を向ける。そして一人の女性が、失恋をしたと歌を聞きながら泣いていた。こういう時の高円寺民の結束力と包容力は凄まじいものがある。みんなで失恋した事を笑い。きっと大丈夫だよ。と励まし合った。


そしてヒロシくんが弾き語るカネコアヤノの「光の方へ」をみんなで熱唱した。いつもSpotifyで聴いていたその曲とはまた違う感動がそこにあり、新宿駅で体感したあの光とは、また違う美しさがあった。

この日はほんの数時間だが、ずっと光の中にいるような日でした。

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