書評 俺は書きたいことを書くー黒人意識運動の思想
半世紀前の、南アフリカで光り輝いた野火
言うまでもなく、昨今アメリカは黒人差別に抗議するデモが起こっている。平和に行っているデモもあれば、暴動を起こして白人、黄色人、黒人関係なく略奪をしている連中もいる。人種差別は当然いけない事だが、それは略奪を許す理由にはならない。
さて、黒人差別について語られたり問題になったのはアメリカだけではないし、今だけでもない。「アパルトヘイト」とは誰でも一度は聞いたことがあるはずである。南アフリカでかつてあった人種隔離政策の事で、1994年に撤廃された制度である。
このアパルトヘイトに反対し、戦い、警察に殺された「南アフリカ全土で光り輝いた野火(a veld fire)」(ネルソン・マンデラ)と評された人の本が、「俺は書きたいことを書く」(スティーブ・ビコ)である。
アパルトヘイトと黒人意識運動
アパルトヘイトを知っている人はいるだろうか。南アフリカ共和国でかつてあった、白人と非白人との付き合い方から職業、住む場所までを国が規定する政策の事である。廃止されたのは1994年で今から26年前だった。
ビコの思想で最も重要なのは、白人や黒人というのは肌の色で決まるものではないという事である。白人とは、黒人に限らず他の民族を労働力として扱い、自分たちが経済的に特権階級であり続けようとするために、政治的にも特権を持ち、経済収入を安定のものとしようとしている人間と、その人間に協力している人間たちの事を意味した。
だから彼は南アフリカの黒人の警察や官僚を「非白人」(白人の様に生きたいと望んでいながら、皮膚の色のせいでそれが不可能である人)として批判した。アパルトヘイトを存続させうるとビコが見なした制度の維持に関わる人は、それが白人だろうと黒人だろうと、誰であろうと全て批判した。
白人を「主人」と呼び、警察や公安当局に使える者は誰でも、そのこと自体によって、非白人である。黒人ー真の黒人ーとは、自らの魂を喜んで白人に売り渡してしまう者のことではなく、敢然と頭を高く上げることのできるものである。 P97
ビコにとって黒人として認められる人は、自分たちに協力する人だけだった。それも上っ面の協力ではない。ともに南アフリカ政府という「白人組織」に対し圧力をかける人でない限り、協力とは認めなかった。白人リベラルに対してのビコの痛烈な批判はそのためだ。白人リベラルは「話し合おう」と言っているが、話し合った内容を南アフリカ政府に対して言おうとはしていない。南アフリカ政府の組織を変えようと、黒人に向かって話はするが、白人に向かって話はしない。このままではいけないと言っておきながら、自分たちが運営する組織(○○協会)の運営に、黒人が関わる事は許さない。差別はいけないといいながら、自分たちは差別の上に出来上がっている構造にどっぷりつかって、プールで泳いで酒を飲み、自分たちの贅沢を手放そうとしない。
リベラルが親になってしまったゲームとは、周到な責任逃れのゲームである。「私には何ができるのだろうか」という問いがしばしば発せられる。リベラルに、白人用隔離施設の使用をやめてくれとか、大学を中退してすべての黒人と同じように下賤な仕事についてくれとか、彼らに特権を与えるあらゆる法律条項を公然と無視し、告発してくれとか頼んでみればいい。答えはいつもこうだー「でもそれは非現実的な事だ!」。 P55-56
では、着地点はどこなのか。赦さないなら罰してはいけない。無論簡単に赦したら「やったもんがち」となって、オレオレ詐欺などで大金をせしめ、捕まっても金を返すことはなく、数年の刑務所暮らしの後、悠々自適の生活に入るようなケースが起こってしまう。だが赦しがないと罰は永遠に続き、終わることがない。それは再生、再開の機会を、個人だけでなく、集団や民族からまで奪ってしまう。それは黒人が白人を「原罪に焼かれ続ける人種」とすることにつながり、精神のアパルトヘイトが始まることになる。そんな事をビコは望んでいなかった。着地点を見出すために、ビコは「黒人意識」を提案した。
劣等コンプレックスーそれは、三百年間の意識的な抑圧、侮辱、愚弄の結果であるーに苦しんでいる限り、黒人は、人間が自分自身のための人間に他ならないような正常な社会を共に建設していく者としては、無能であろうということである。したがって、これから起こりそうな次の何事かの前奏曲として必要になるのは、黒人が自己を主張し、その当然の権利を要求することができるような黒人意識を、草の根において非常に強力に発展させていくことである。 P53
なぜ黒人意識が必要なのか。それは黒人が白人にされてきたことに原因がある。黒人は教育、経済、思想、宗教など、ありとあらゆる精神面に影響を及ぼす要因において、白人に頭を押さえられている。黒人が白人に対して劣等感を感じる歴史的理由、そして構造を、具体的にビコは語る。
彼ら(白人宣教師)の傲慢さ、そして真理、美、倫理的判断の独占によって、彼らは先住民の慣習と伝統を軽蔑し、これらの社会に彼ら自身の新しい価値観を吹き込もうとするようになったのである P178
ある男が、ひとつの集団に対して外来の概念を受け入れさせることに成功するとき、この集団は、その概念に熟達しているこの男(白人)によってしか特定の領域における進歩を評価してもらえない、永続的な生徒になってしまうのである。 P179
英語を身につける過程において、黒人学生は十分に内容を把握できない、したがって、十分雄弁に発言できない、そして、自分よりも雄弁な人(白人学生)と同席するとき、彼ら(白人学生)が自分よりも上手に喋れるのは、彼らの方が自分よりも知力が優れているからだと思ってしまう、という事態が実際におこっているのです。 P205
このような構造がある限り、黒人は自分達に自信など持てるはずがない。白人から与えられた真理、美、倫理的判断の中で、白人に認めてもらうためだけに生きる人間は、白人という教師に気に入られようとゴマをすっている様な人間は、実際には死んでいる人間だ。自己の意識なく、主人の機嫌を取ろうとしているだけの人間だ。だから黒人意識を言わないといけない。
白人の知識を学び、受け入れはするが、屈服はしない。自分達の日常で使っている言葉で、自分達の周りの事を価値あるものとして語り、歴史を語り、伝統を語り、宗教を語り、経済を語り、技術を語り、文学をつくるのだ。そうしないと、白人や英語に対する劣等感を除く事はできない。劣等感を払拭して、初めて対等になれる。黒人は今のままでは、制度が対等になったとしても、真の意味で対等な存在にはなれない。
制度としてのアパルトヘイトを無くさないと十全に黒人意識の確立は難しいが、だからといってやらないでいたら、いつになるかわからない。黒人意識の思想の研究、確立と、アパルトヘイト反対の運動は同時に行われないといけなかった。この時スティーブ・ビコは24歳。ビコの先見性の高さ、洞察力の鋭さには、兜を脱ぐしかない。アフリカ出身アフリカ住まいの文学者や歴史家の本がどうなっているか、これから読もうと思う。
南アフリカ警察に危険視され、逮捕されたり転居させられたりしながらも、ビコは黒人意識の必要性をのべつづけ、自分たちでもできるという実証として1975年「ザネンピロ共同体診療所」を運営した。
ザネンピロは・・・「黒人意識」運動の化身でありシンボルであった。・・・黒人が計画し黒人が建てた建物によって、そしてなによりも、そこで働く職員(黒人)たちによって表現されていた・・・貧者と被抑圧者は行為にしか耳を貸さない。やって来た人々は・・・完全な人間としての尊厳と敬意をもって扱われ・・・彼らにこうしたあらゆる世話をやいてくれるのは、個人的な利得のためではなくて犠牲的な精神に基づいて働いている、彼らの同胞の黒人たちなのである。 P324
ビコは1977年、南アフリカ警察の収容所で白人看守に撲殺された。暴行を受けたあと、裸で放置され、長距離を治療なく不衛生な環境で移動させられたのも加わるが、実質的には撲殺された。享年30歳。
文化盗用とポリティカル・コレクトネス
この黒人意識を考えると、文化盗用やポリコレなどの思想が、何故あんなに声が強いかがわかる気がする。それは白人に対する復讐であり、信用のなさであり、黒人のトラウマでもある。
自分達が見つけて、価値あるものだと評価した物があったとする。白人から教えられて見つけたものでなく、自分達が、黒人が黒人の目と文化と歴史から、ようやく見つけたものである。それを出来上がったそばから奪って、まるで白人が見つけたように振る舞わられ、大本の黒人たちに意識が向かず、ただ表面上の「いいね」だけで評価されてしまい、しかも黒人たちの歴史や文化に敬意が払われず「他になんかない?」程度の、一種の「商品」としてしか扱われなければ、それは形を変えた搾取になる。そしてこの搾取の構造が続くと、黒人は今度こそ、立ち上がるために必要な基盤を根こそぎ「白人」に奪われてしまう。そんな危機感が感じられてくる。
また、黒人たちが何かを見出したとして「それは白人たる我々がすでに見つけていた」とか「私たち白人の研究方法とか、技術や道具を使わないと、見つけられなかったでしょ?」などというと、それはビコの言う
「この男(白人)によってしか特定の領域における進歩を評価してもらえない、永続的な生徒」
の構造を維持することになってしまうと言えるだろう。
ビコの問題意識「黒人意識」がないと、白人人種主義に呑み込まれてしまうという事は、黒人だけでなく世界中の民族に言えることだろう。それは日本人でも同じで、価値判断を他人に委ねる事が隷属を招くという事は、ビコが示した。そこから逃れる術もビコは示した。ビコが撲殺されず、アパルトヘイト後も生きていたら、どれだけの事を成し遂げたことか。
アパルトヘイト後
南アフリカは1994年、アパルトヘイト政策を撤廃した。しかし経済は衰退し、失業率も高く、格差も激しく治安は悪く、ヨハネスブルグの治安の悪さは説明するに及ばない。仕事がないのを解決したくても、昨今のビジネスの主流はデジタル関係であり、昔ながらの農家とか鉱山などに金は回りにくい。そして黒人の教育問題は解決されたとは言い難いし、さらに言えば教育したとしても全員に仕事が舞い込むとは言えなくて、閉塞感が漂っている。これと同じ経済状況が、アメリカにもある。2020年にはコロナまであった。そこにジョージ・フロイドの事件があった。
ビコがもし生きていたら、彼はどのような言葉を言っただろうか。言葉だけではない。彼は1975年の時点で、できる限りのことをして、黒人に仕事を与え、給料を与え、物質面の充足を与えるようにした。だから実際に何か行動をしていただろう。その行動は、果たして略奪や暴行を容認するものだっただろうか。
われわれは、黒人の希望を実現しようと努めるとき、それを、黒人を抑圧することになる政治構想(注:南アフリカの白人の特権を維持するための構想)によって達成することはできない、という態度をとっている。 P279
戦略として、建前として略奪や暴行を容認することがなかっただけかもしれないが、ビコは容認しなかった。自分達の意見を取り入れる事ができる体制を求めていたし、黒人側の運動の一致団結を望んでいたが、それは武力闘争を肯定するものではなかった。
「赦し」は何処
黒人の歴史に、不幸な出来事があったのは事実だ。白人が大きく関わってきたのも事実だ。黒人は固有の文化、伝統、歴史、思考形態、思想面において、白人から奪われたり、押しつけられたり、決めつけられたり、認められなかったりしてきた。その責任を白人だけに帰するのではなく、自分たち「黒人」にも帰するべきで、黒人は白人から与えられる、精神的な劣等感を払拭し、経済的に引目を感じないようにならないといけない。「俺は金をもらっているんだ」「だから腹が立っても文句は言えない」「文句を言ったら家族が飢える」ああ、すまじきものは宮仕というような、人間性を失わせる経済構造は変えなければいけないし、黒人がそんな経済構造に「負けて」、唯々諾々と従うような精神を持ってはいけない。黒人が声をあげることは、どんな面から見ても、許されることであり、否定されるものではない、、、。
全て事実だが、いきすぎるとそれは逆になる。ビコの論理や論旨は、「アパルトヘイト下の南アフリカの、1960〜1970年代の状況限定」のものだという事を忘れてはいけない。ビコは黒人から搾取する構造を変えろと言ったが、それは現代のアメリカの状況を念頭にはおいていない。ビコの想定は全て南アフリカであり、無条件に他の国に適応されるものではないし、未来永劫に固定されるべきものでもない。
それでも何かを言うならば、誰かを永遠の生徒とする事そのものにビコが憤ったなら、その論理は黒人にも当てはまる。黒人が白人に対し、無限に上位に立つような言動は許されない。暴動や略奪が許される事はない。
日本人は原爆による民間人虐殺を、東京大空襲による民間人虐殺を理由に、アメリカに対し上位に立とうとしてはいない。腹に据えかねるかもしれないが、手打ちにして水に流した。それが大事だと、日本人の歴史や文化、伝統からそれを行った。「赦し」がないといつまでも怒りの螺旋は続く。では、黒人意識における「赦し」の概念はあるのかないのか。あったとして、それはどのような状態を持って赦したとするのか。個人と組織との違いをどこまで認めているのか。後の世代の黒人と白人に対し、どうなっていたら「赦し」を経ているとみなすのか。
「親の因果に子が報い」を否定するのかしないのか。否定しなかったら、一体何代まで続くのか。「三代呪ってやる」は、「四代目は赦す」という事だ。黒人意識に置いて、白人に対しては「未来永劫呪ってやる」という、アダムとイブの原罪のような思想しかないのだろうか。これらはまた学ばなければわからないが、昨今のアメリカの状態を見ると ー そもそも黒人意識運動がどれだけ影響を及ぼしているかもわからないが ー 赦しも時効も、思い浮かんでいないように感じるのである。
社会的政治的局面の変化に直面する近年においては、(南アフリカの)「黒人意識」の諸理念は柔軟性に欠け、ときとして反革命的なものになってしまったように思われる。 バーニー・ピジャーナ P426
ビコの赦しの概念がどのようなものだったのか。仮に生きていたとして、黒人意識運動にどれだけ影響を与えたのか。それはわからない。だからビコの赦しの概念を顕していそうな事を引用して終わりにしたい。
ある宗教が別の宗教に取って代ろうとするとき、その宗教は信仰にもとづく受容を人々に要求する前に、道理にかなって振舞うことができていなければならない。 P401
9月9日、二日前に受けた脳の傷が回復不能なものとなり、すでに瀕死の状態にあったとき、彼はフィチェット氏(ポートエリザベスの看守)に向かって、「君に接吻したいよ。だって、君は僕に粥(マヘウ)と水をくれたからね」と言ったという(『ランド・デイリー・メイル』紙 1977年11月19日土曜日号)・・・それは、あまりにもスティーヴらしい話だったからである。 エイルレッド・スタッブス P407