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【しらなみのかげ】近代の本質とは「宗教」への問いである #33

初めに述べておきますが、この記事は考えている問題の核心に一通り触れながら書いている内に大部となりました。

 

 

この「しらなみのかげ」を桃の節句に久々に更新してから、又暫く時間が経った。

 

 

前回書いた如く、一昨年より我が抱負を一事業とせんとして走り続けてきた私の人生は、一月の末から二月の頭に掛けての間に共同事業者の一人、しかも立場上の責任者の背信行為に遭い、唐突なカタストロフを迎えた。奇しくもそれは、全てのリソースを使い果たした後のことであった。前回の記事は、心の中にそこから何とか立ち直る兆しが見えたことで書くことが出来たものであった。しかしながら、そこで語った「探究」と「創作」は、そこから三週間以上もの時間が経ってしまったことから判るように、中々思うように形に出来ていない。ここでも又、「ハビトゥス」を自分の中に再び養い直すことにこんなにも時間が掛かるのかと、己の不甲斐無さを自覚すると共に、真に忸怩たる思いを抱いてしまう。

 

 

このブランク期間、私は自らの生活と仕事の環境を整え直すことに傾注することになった。とりわけ、部屋の掃除と片付けをすること、そして、自ら料理を行うことは、何よりも自らの調子を取り戻すことに繋がった。去年、多忙の余りに等閑にしていたことを行ったのである。自分で食事を作って食べることには、他の営みにはない豊かさがある。それは言わば、「自然を加工して自らのものとする」という人間としての生活の原型を、もっと言えば文明と文化の原型を、自らの手で辿り直し、その力によって自己自身を養う行為だ。

 

 

そのおかげか、この所、研究の為の読書は非常に進んでいる。去年は事業上の必要に駆られたら只管に様々な分野について徹底的に学ぶということを繰り返していたが、それとは異なる、私本来の読書のリズムを取り戻すことが出来ている。実際、今月のブランク期間の内訳に関して言えば、いつもの仕事、そして上記の生活の整理整頓以外は、只管に読書を続けていたのである。私にとって、己のその時々のリズムで、紙の本のページを繰り、印刷された文字を目で追うことは、その僅かな身体的動作によって精神を目覚めさせ、そして健康にする行為であることを改めて噛み締めることになった。

 

 

とは言え、感情的に張り詰めた状態が終わりを迎え、身体に一気に皺寄せがやってきたせいか、体調は芳しくなかった。昼夜の寒暖差で風邪を患い、更にこの季節特有の重度の花粉症に苛まされた。それで、鼻は鼻水が絶えず垂れながら詰まり、喉の奥は腫れ、耳は裂け、全身の皮膚も限りなくボロボロになってはしまったが、自分の生の調子を取り戻しているからか、それぞれ薬を服用すれば割と容易く治療することが出来た。風邪には漢方、花粉症には西洋医学の薬を服用したのだが、何れにせよ、先程述べた料理の例共々、東洋の古い「養生」の思想に思い至る。

 

 

扨、近況報告はこれくらいにしておこう。

私がこれからこの「しらなみのかげ」において「探究」したい事柄について、ここでは極簡単な形で素描してみたい。

 


 

1.核心にあるのは「宗教」への問いである

 

 

それは、一言で言うならば、「宗教」への問いである。

この問いは、「宗教」と歴史、自然、藝術、法、そして哲学を巡る歴史的で範疇的な問題である。この問題に私が強く関心を抱いているのは、他でもない、「宗教」というこの極めて近代的な範疇によって何が括られ、何が語られ、そして何が「非宗教」としてそこから排除されてきたのかという問題こそが、現代世界を生きる我々日本人が、嘗て非西欧として近代の列強に伍した自分達の文明と文化の基底を見つめ直す時、最も根源的なものとして考えられるからである。

 

 

この問いは無論のこと、「近代」を語る時に必ずと言って良い程触れられる「世俗化」という現象を、更にその概念自身を、改めて問い直すことに接続している。通俗的に考えられる如く、「近代」という時代は、科学化と合理化、そして産業化によって、宗教が退潮した時代であったと言って済ませて良いのだろうか。何かが「宗教」として語られ、それと反対に何かが「非宗教」として語られることによって、近代という世俗化の時代を彩った多種多様なファクターが生成されたのではないだろうか。こうした観点から考えた時、嘗て「宗教」が持っていた諸価値は、単に失効したのではなく、「近代」と呼ぶしかないフィルターによって言わば「翻訳」され、そして「非宗教」の別の何かとして提示されたと考えるべきではないのか。例えば、近代文学や近代藝術(そして後続する現代文学や現代藝術)の持つ特異な価値的性質は、或いは、国家や民族や階級をめぐるイデオロギーという近代に固有というべき観念形態の持つ現象的特質は、こうした問題構成の下でのみ、初めてその歴史的意味を正確に理解出来るようなものではないのだろうか。

 

 

そして私が考える所によれば、「宗教」への問いは、他ならぬ世俗化の進行した末、全てを呑み込む消費資本主義と共に、近代的な公準の価値の失効宣言である「ポストモダン」が到来した1960年代以後の世界を正確に把握することにもその根柢において関わっている。この時代を理解するためにもなお、近代における「宗教」への問いを念頭に置き続けなければならないし、その時代精神の核心は本来的に、この「宗教」への問いの方から問われなければならないのである。何となれば、「ポストモダン」と呼ばれるフランス現代思想の思潮もまた、こうした近代における「宗教」の問いの或る種必然的な帰結として生じたものであったからである。これらの検討を経るならば、近代の帰結としてのポストモダニズムの残滓が、トランスジェンダリズムを筆頭とするウォーキズム(wokism)の暴流となって暴れていることの歴史的意味も理解可能となるはずである。

 

 

何故そうだと言えるのか。

今回の記事ではほんのその一端にしか触れることが出来ないが、その理由はこの問題を探究するための前提を語る内から自ずから明らかになってくる。

 

 

2.近代につくられた「宗教」と「世俗」

 

 

さて、我々現代日本人は、特に疑問を覚えることもなく「宗教」という概念ないし言葉を用いている。そして、日々生活する際にも必要となれば、何が「宗教」なのであり何が「宗教ではない」のかについて、時には非常に曖昧に、時には過剰な程までに敏感に、吟味し判断している。しばしば言われるように我々日本人の「宗教」「非宗教」感はまことに独特であり、そのこと自体も何処かできちんと問題として取り上げたいと考えているが、ここで注目したいのは、その「宗教」という概念(或いは「非宗教」という概念)の歴史性、もっと分かりやすく言えば、その非自明性である。

 

 

前世紀の末に勃興した「宗教概念論」の成果によれば、宗教(その原語としてのreligion)という概念は、慥かに古典古代のラテン語であるreligioを語源としているものの、近代ヨーロッパにおいてプロテスタンティズムをモデルとして構築されたものである。近世ヨーロッパにおいては、まず16世紀に生じた新旧両教の分裂によって「キリスト教世界」の自明性が崩壊し、そして17世紀・18世紀の啓蒙主義において理性主義と経験論、或いはそれらを方法論として科学の立場から宗教が批判されることにより、それまでヨーロッパ文化の基礎にあった「啓示」と教会の絶対的な権威性が相対化された。三十年戦争以後ローマ・カトリック教会と神聖ローマ帝国の支配体制が崩壊して各々が国教を戴く主権国家体制が成立した後に各国内で熾烈な宗教内戦が繰り広げられたが、大きな転機となったのはやはり17世紀以後の動きであった。ここで、ロック、ピエール・ベール、ヴォルテールなどによる啓蒙思想や寛容思想が広がり、百科全書派の理神論などが登場する。寛容思想に影響を受けたアメリカ植民地の建設、独墺の啓蒙専制君主による寛容の移入、イギリス革命後の権利の章典発布などを経て、アメリカとフランスの革命によって政教分離が成立して、教会と国家が完全に分離したことなどが、この「宗教」という概念をプロテスタンティズム的な、個人の内面的な「信仰」の問題へと限定していく。宗教という概念はそうした歴史的動向の中で、キリスト教に対する批判とキリスト教側の自己規定ないし自己弁護の両方の面において機能することとなった。そこには、中国やインドやイスラム世界など、様々な非西欧の文物がヨーロッパに移入され、紹介され、研究される経緯も深く関わっている。この過程では、キリスト教以外の「宗教」が(大抵の場合キリスト教よりも劣位のものとして)考えられるようになる。

 

 

もう一つ、ここで述べておかねばならないことがある。

それは、先に触れた「世俗化」に関わる問題だ。

もっと言えば、「宗教」と対置される「非宗教」のカテゴリを指す概念ないし言葉、「世俗(secular)」ないし「世俗化(secularization)」の問題である。元々、「世俗」という言葉はラテン語のsaeculumという「人種や血統」或いは「一つの時代、一つの世代」ことを意味する言葉の形容詞系saecularis(「一つの時代に属している」という意味)に起源を持ち、「教会に属さない」ないし「教会から分離されている」ことを意味するものであった。同様に、「世俗化」という言葉は、宗教改革時に教会の財産が世俗諸侯に収奪された時に「教会領ではなくなった」ことを現すものであった。現在の「世俗」という概念ないし「世俗化」という概念は、近世以降に教会と国家ないし市民社会が対比的に語られるようになる中で後者のことを意味するようになり、やがては精神史的な領域にまで拡張されていく中で成立したものである。

 

 

それ故、宗教社会学を嚆矢として諸学の中で語られてきた「世俗化論」というものは、それ自体が近代的構成物としての宗教概念と世俗概念ないし世俗化概念を用いて、当の近現代における「宗教」の(そして宗教と国家ないし市民社会との関係性の)在り方の変容を叙述したものである、ということになる。この世俗化論においては、長い間「近代(modernity)」を特徴付ける際たるものとされてきた現象が「世俗化」であると言われてきた。この世俗化論とは、「近代」の本質を、まさに「宗教」概念や「世俗」概念の如き「近代」自身が産み出した道具立てによって、探究する営みであると言うことができる。

 

 

即ち、それ自体が「近代」自身の特徴付けであることからして、当の分析のために用いている概念それ自体が「近代」の構成物であることからして、世俗化論というものは、近代という時代に起こった現象の分析であると同時にまさにそれ自体「近代」自身による反省的(reflective)で再帰的(reflexive)な自己規定である、と言うべきであろう。

 

 

無論、これと同様の事態は、より直裁に「宗教論」に関してもそっくりそのまま当て嵌まる。先程述べたように、そもそも宗教概念は、近世以降のヨーロッパにおいてキリスト教という宗教が社会的に盤石のものでなくなり、とりわけ理性の光を持つ知識人達にとって疑わしいものになる過程で、すなわち宗教が一つの<問題>となる過程で形成されたものである。

 

 

この<問題>はどのように引き受けられるのか。まず、伝統的な信仰と神学を離れ、理性を媒介としてそれらの内容を語り直すものとして「宗教哲学」が誕生する。

しばしば言われる如く、イマヌエル・カントによって『単なる理性の限界内での宗教』(1793年)が書かれたことが嚆矢であった。この書は、キリスト教の信仰の内容を道徳という実践理性の延長線上に描き出したものである。この宗教哲学という分野は、その後、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといったドイツ観念論の「絶対者」の哲学の動向と共に発展を遂げるが、決定的に重要なのはシュライエルマッハーであり、彼は、宗教の領域を形而上学とも道徳とも異なる独自の領域として描き出し、その固有性を「宇宙の直観」「絶対依存の感情」に見出したのである。彼によって、「宗教」が「発見」されたと言っても過言ではない。

 

 

こうした動きのきっかけはその少し前に始まっていた。

それが、1785年にドイツで起こったスピノザ論争である。哲学者フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービが、ゴットホルト・エフライム・レッシングの晩年の発言に端を発し、モーゼス・メンデルスゾーンらと当時無神論として長らくタブー視されていた「スピノザ主義」を巡って論争を繰り広げるのである。カントと同時代の思想家であり、カントの批判者の一人でもあった。彼は、「ある!」という事実を感情的に感得できるとして「信仰(Glauben)こそがあらゆる認識のエレメント」であると唱えた。ここでスピノザの汎神論の哲学を大いに注目され、先に述べたドイツ観念論の哲学者達が「絶対者」を思考する縁となるのである。

こうして「宗教」が、一つの<問題>となるのだ。

 

 

やがて19世紀の後半に至り、聖書の文献学的な高等批評が発達すると時を同じくして先のシュライエルマッハーによって自由主義神学が誕生することにより、最早聖書の記述を全く鵜呑みに出来なくなるのとほぼ同じ頃に、インドを始めとしてアジア・アフリカの植民地からの文物が大量にヨーロッパに寄せられる。マックス・ミュラーによるインドの宗教研究による東洋と西洋の比較や、『金枝篇』で有名なジェームズ・フレイザーによる古代ギリシア・ローマの宗教や、ヨーロッパの民間信仰、原始宗教の研究が行われる。そのすぐ後には、エミール・デュルケムやゲオルク・ジンメル、そしてマックス・ヴェーバーらによる宗教社会学、スターバック、ウィリアム・ジェイムズらによる宗教心理学も勃興する。ここに、「宗教」への問いを哲学的のみならず同時に実証的にも<問題>として引き受ける学問分野として、「宗教学」が誕生する。

 

「宗教とは何か」という問いは常に人々の関心を寄せ続けたと言って良い。そうであるからこそ、近代以降における宗教についての言説も又、その裏側にある「何が非宗教なのか」という問題をも含めて、それ自体が「近代」の再帰的で反省的な自己規定なのである。

 

 

3.「近代」の問いの反省性と再帰性

 

 

ここで一旦、「反省的」で「再帰的」という事態は、一体どのような事態を指すのかについて少々説明しておこう。

 

 

まず「反省的」ということだが、これは、「自己とは何か」という形で、自らの本質的な規定を自ら問い、自ら認識するということに他ならない。ここでは、自己の中で「反省する」作用の面と「反省される」対象の面が絶えず分離しながら、前者が後者の中に自己規定の内容を見出していくことになる。しかし、そこで見出された内容とは、あくまでも自己の反省される対象の面でしかないので、自己の反省する作用の側はそのままでは取り零されることとなる。そこで、反省する作用は、その内容を否定した上で、それをも包括した自己の本質を改めて探究するために、反省する作用自身の反省へと向かう。ここでも又、最初の「反省する」作用の内に、メタ的な「反省する」作用の面と、メタ的な「反省される」対象の面の分裂が生じる。反省においては、この過程が、「反省する」作用と「反省される」対象が、個々の本質が自立した本質としては否定された状態のまま、全体が統一されることを目して続けられる。

 

 

この問題を分かりやすくするために、「私とは何か」という問いで考えてみよう。「私とは何か」と自己自身に向かって問い掛ける時、問い掛ける自己(作用)と問い掛けられる自己(対象)の分裂が生じる。そこで答えとして見出される自己の内容は、あくまでも後者の問い掛けられた自己の内容でしかない。しかしこれでは、最初の「私とは何か」という問いに十全に答えたことにはならない。そのため、私の本質を探究するためには問い掛けられた自己の内容を自己の本質としては否定し、今度は「問い掛ける自己」そのものへと問い掛けなければならない。そうすると、当の「問い掛ける自己」の内に、問い掛ける「問い掛ける自己」と問い掛けられる「問い掛ける自己」が分裂する。このように、「私」の中に含まれている様々な側面が「私」の本質であることを否定した状態で含み込んでいく過程を通じて、それらが全て統一された「私」の全体が目指されていくのである。

 

 

ここで、「再帰的」という側面が生じていることが分かる。「再帰的」ということは、あるものの定義の中にそれ自身が含まれているということである。先の過程について考えてみると、「自己とは何か」という問いの答えとなるのは差し当たり「反省された自己」の内容であるが、この「自己」の中には当然ながら「反省する自己」もまた含まれているからである。このことから、「反省された自己」の内容は未だ「自己」自身そのものではない、言ってしまえば「非自己」であることになる。そうして、答えとなった「反省された自己」の内容を「自己」の本質としては否定し、その内容自体に加えて「反省する自己」をも含み込んだ形での「自己」を反省することになる。要するに、この問いは常に自己自身に還帰することになる。

 

 

こうして、自己の内容を次々と分裂させながら、自己自身に還ることにより、作用としてはその内容の否定を経てそれらを統一しようとする一つの運動を成す。「反省的」で「再帰的」であるという特徴は、このような自己定立とその否定、そしてそれらの止揚という、殆ど無限にも等しい運動を繰り返す性質のことを示している。このような性質は、ヘーゲル流に言えば「弁証法的」と呼ぶべきものであろう。

 

 

4.「宗教」の「真理」の「翻訳」としての藝術と道徳

 

 

近代における「宗教」という概念は、そして、それに対する「非宗教」としての「世俗」という概念は、その自己規定にあたってこうした無際限にも見える螺旋系のプロセスを繰り返してきた。その結果こそ、近代の間に数えきれない程多くなされてきた「宗教」への問いと答えであり、それらはその反省的で再帰的な本質故に、一つの問いと一つの答えに原理的に自足することが出来ないのである。「近代」という時代はまさにこの「宗教」という範疇を構成し措定するところに始まっていることを鑑みれば、「近代」という歴史的動向の本質とは、その絶えざる過程そのものの内にあったと言える。そしてこの過程を通じて、元来は「宗教」へと分類されていた事柄の内容が「宗教」であることを否定され、「非宗教」の範疇において「翻訳」されるという事態も又、次々と巻き起こっていく(ここで用いている「翻訳」という語は、ハーバーマスのポスト世俗化論における用法から自由な形で採用した)。

 

 

こうしたダイナミックな展開は、「何が真理なのか」という問題を常に裏に孕まざるを得ない。「啓示」という絶対的真理の源泉が、それを下支えしてきた神学という真理探究の道と共に、理性主義や経験論、そして科学により相対化されればされる程、「何が真理なのか」という問題は顕在化することになる。デカルト、スピノザ、ライプニッツ、マルブランシュ、或いはホッブズ、ロック、バークリ、ヒュームといった近世のよく知られた哲学者達は、言うなればこの問題に哲学の方面において正面から向き合ったとも言える。大きく言えば、前者の人々は神と理性の問題に直接向き合い、後者の人々は人間的経験の問題に直接向き合った。「近代」という歴史的動向に即して見れば、彼等の哲学自体が、自我の「反省」という語の文字通りの意味で、「近代」の反省的=再帰的な自己規定であると捉えることも出来る。

 

 

この歴史的動向は当然、国家や社会をその根源から揺るがしていた。キリスト教神学の体系下において神定法と実定法の間にあって、人間の有限な理性や知性によって把握出来る範囲の「正しさ」であった自然法の基礎付けを再び必要としたからである。この時代になって、マキャヴェリに見られるように古典古代のポリスに準えて純化された現象としての「政治」を捉える学の発達もあり、ボダン、ボシュエ、フィルマーのように、中世の「王の二つの身体」における政治的身体の方を引き継いだ王権神授説によって「主権」=「至高性」(Sovereignty)を語る人々の活動もあった。そして、先程述べたホッブズやロック、そしてルソーによる社会契約説によって、同じ「主権」を基礎の危うくなった自然法や自然権の擁護という論脈において持ち出す人々も現れた。言うまでもなく、現代の「人権」という思想はこの脈絡から生じてくる。現代の主権概念も人権概念も、数世紀を掛けて「宗教」と「非宗教」が最も根源的な問題として争われた結果なのである。

 

 

先に述べた近代文学や近代藝術の持つ独特な価値、即ちそれ自体で自立した価値を持つような「美」という価値も又、まさにこの「近代」の反省的で再帰的な自己規定によって生じる。この「美」の成立はおよそ18世紀中頃から展開し始める事態であるが、「宗教」の枠組みに置かれるものの「非宗教」の枠組みへの「翻訳」という形を取る。動向の内実が最も顕在化するのは、個人の自由な内面において芸術を「美の宗教」として称揚するロマン主義の登場以後である。例えばドイツ・ロマン派は、ドイツ観念論の動向に並走して「新しき神話」を藝術によって創造しようとした。ロマン主義は藝術家を無から有を産み出す「天才」として、文字通り神格化したのである。ロマン主義の藝術概念は、このように純粋に美的に創造的であろうと志向した結果、現実から離脱した自体的価値を持つ「藝術のための藝術(l’art pour l’art)」(哲学者ヴィクトール・クザンによる提唱。テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、ヴェルレーヌら)という観念を発展させ、19世紀の中頃には美を至高の価値とする「唯美主義」(オスカー・ワイルド、エドガー・アラン・ポーら)を生み出す。ドイツでの動向が最も顕著であるが、ロマン主義とは概して、啓蒙主義的理性に抗して、「宗教」を「藝術」へと「翻訳」することで成立した近代の「新宗教」とでも言うべき運動であった。そうして成立した近代的な「藝術」は、その本質において「近代」の代替宗教ともいうべきものであった。要するに藝術の「美」とは、嘗て「宗教」が持っていた神という絶対者の至高性の人間的な「翻訳」なのであり、そこに理性的な意味とは異なる「真理」が見出されていたのである。

 

 

道徳ないし倫理に関しても、藝術と美に関する先の議論と同様の事態が考えられる。道徳の本質を定言命法という原理として考え、それが、傾向性に抗う人間の自由を示している叡知的な価値であるとしたのは、何を措いてもイマヌエル・カントであった。彼は、普遍的な道徳法則が最高善と神を要請すると考えていた。ここから分かるように、道徳に紛れもなく「宗教」の「翻訳」を見ていたのである。実際カントはそれのみならず、道徳的自律だけでは人間の本性に潜む根源悪は解決されないとして、道徳的な義務の実践によって最高善を実現するために要請される神の命令、即ち理性宗教の必然を訴えたのである。ヘーゲルは、カントのこうした主観的な道徳学説を批判し、絶対者=精神=理性の客観的な展開として、共同体の制度化された人倫、その最高段階としての国家を見出した。存在する全てのものの発展過程の全体を絶対者の自己展開であると見る彼にとって、家族、市民社会、そして国家は、自由な人間の行為によって達成される、神の自己実現に他ならなかった。ここにも又、カントとは異なる形で紛れも無く「宗教」の「翻訳」という含意が見て取れる。

 

 

しかしながら道徳ないし倫理に関しては、そうした「宗教」的な「真理」の「翻訳」としてではない、全く「世俗」的なあり方がほぼ同時期に現れるし、その「宗教」の翻訳としてのあり方に対してその系譜上から激しい批判が殺到することになる。カントとほぼ同時代のイギリスでは、ベンサムによって、神的な要素を何ら介在させない、完全に人間的な道徳学説が既にして提唱され、それがジョン・スチュワート・ミルによって発展させられる。即ち、功利主義の登場である。そしてドイツでも、人間の絶対者認識が即ち神の自己認識となるという哲学的神学を打ち立てたヘーゲル没後、彼の弟子筋に当たる人々は早くも彼の言う絶対精神とその根源にあるキリスト教に対して徹底的な批判を向け、無神論を唱え始める。彼等こそ、フォイエルバッハ、アルノルト・ルーゲ、マックス・シュティルナー、ブルーノ・バウアーといったヘーゲル左派の思想家達、そしてマルクスである。彼等は、ヘーゲル哲学を「世俗化」させ、彼等にとって現代であった「近代」を極めて批判的に考察することによって、それが唱えていた価値を、唯物論的な意味で人間的なるものへと「翻訳」したと言える。このような動向から、社会主義が誕生する。社会主義もまた、「藝術」とは異なる位相において、絶対者の至高性の人間的な「翻訳」であり、近代の「新宗教」或いは代替宗教と言えるものであるだろう。

 

 

このような「宗教」の「翻訳」という時代の潮流の中で、まさにその概念的な意味に従って、内面的信仰の問題としての「宗教」を「真理」の問題として真正面から追究した人物が現れる。それが実存主義の祖、キルケゴールである。彼は、ヘーゲル左派と同じくヘーゲルの影響下にあってヘーゲルの弁証法的論理に叛逆したが、ヘーゲル左派とは全く方向性を逆にして、個別具体的な事実存在としての人間における主体的真理をキリスト教に見出した。

 

 

煎じ詰めて言えば、近代という時代にそもそもこうした反省的=再帰的自己規定が求められるようになるのは、神という絶対者の視点が最早自明のものでなくなったことに起因している。しばしば言われる如く、ルネサンスと宗教改革から始まった不可逆的な変化の中で、神中心主義から人間中心主義へと全てが移行したのである。全てが人間による人間自身の問いの中に巻き込まれていくことこそ、そう、全てが人間にとっての<問題>と化したことこそ、その「反省性」であり「再帰性」の内実であった。そうして人間自身が、絶対者を、その痕跡を、「宗教」という形であれ、その「翻訳」という形であれ、自分自身で探究し続けなければならなくなったのだ。さもなければ、足場の無い迷妄の中を彷徨い続けることになる。それ故に人は、自らの生きる「近代」とは何かを問うようになった。

 

 

5.「近代」への問いと「歴史」への問い

 

 

「近代」とは何かという近代自身によるこの自問自答は、それが一つの時代に向けられていることは言うまでもない。それ故に、歴史という時をどのように区分するのかという歴史学的な問題に深く関わっている。何となればこの時代に至っては、聖書に基づく天地創造以来の「普遍史」の普遍性が失効し、人間自身の意志による世界形成として「世界史」を叙述する必要に迫られたからである。

 

 

そこで「古代」「中世」「近代」という時代区分が生まれる。我々に馴染み深い時代区分は自らを「古代の再生」と位置付けたルネサンスに端を発し、17世紀のドイツの歴史家ケラリウスがキリスト教の支配する「中間の時代」である「中世」を加えてその著作に用い、それを受けてヨーロッパの近世以降の歴史学によって構成されたものであるが、この時代区分は、政治や社会や文化や哲学などの各カテゴリにおける「宗教」という一つの基準を以て区分せられている。

 

 

この<問題>をまず真正面から引き受けたのが、ヘーゲルであった。

何となれば、彼にとって「世界史」とは、その知の歴史である哲学史と共に、人類が理性によって弁証法という法則に従って精神の自由を実現させていく進歩の過程、即ち「絶対精神」の自己展開に他ならなかったからである。彼は言わば、神ないし絶対者への問いをこのようにして人間の「歴史」への問いへと移し替えることによって、「宗教」の内容を「非宗教」の歴史へと「翻訳」したのである。そして、人間の進歩の過程という観点から、或いは逆に、実存的な「真理」という観点から、ヘーゲルのこうした見方に反駁する人々が陸続と現れたことは、既に触れた通りである。

 

 

歴史学の成立という観点から言えば、こうしたヘーゲルの歴史観に反発した人物であり、史料批判による実証史学の確立者レオポルト・フォン・ランケをここで挙げない訳にはいかない。彼の仕事は「各時代は神に直結するもの」であるという断言の下に成り立っていた。そして彼は、ヘーゲルの如き完成へと至る精神の発展段階の歴史ではなく、どの時代も神の前に平等な「世界史」を構想し、そして、ヘーゲルとは別の形で、各時代の支配的傾向としての「指導的理念」を見極めようとした。ここに、「歴史」という「非宗教」への「宗教」の「翻訳」を見ることは出来ないだろうか。

 

 

こうして生まれた近代歴史学、そしてその「歴史」への問いは、前に述べた「宗教学」の成立にも関わっている。即ち、「宗教史」の「発見」である

18世紀末から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパ自身の歴史の探究が盛んになるが、それに加えて、非西欧地域の諸々の「宗教」に関する文物が植民地からヨーロッパに移入され、広く読まれるようになる。前近代までの普遍史を最早信じられなくなった時代の「宗教学」の研究者達は、「宗教史」というものを「発見」することになる。「宗教史」の探究においては、「自然崇拝」「供犠」「アニミズム」「呪術」といった古代の「宗教」の残存を見極め、そこから如何なる社会形態が誕生してきたのかを考察することによって、「宗教」の起源と来歴への問いが展開されていく。その営為は、「宗教」という近代的範疇によって生じた領域を他ならぬ近代的な手法によって探究することによって、「近代化」=「世俗化」という根本的な現象に対峙し、自分達の時代において取り零されつつある「生の事実」という「真理」を拾い上げんとするものであった。

 

 

「近代」における歴史への問いは同時に、先の「宗教」への問いと絡み合いながら、「文明」と「文化」という人間の自己規定を生み出し、そして絶えずそれらへの問いをも生み出していくことになる。換言すれば、「文明」とは何か、「文化」とは何かという問いが、自然科学的な真理とは別の人間的な価値体系の「真理」として、問われるようになる。実際、近代という時代を通じて、「文明」と「文化」という人間の自己規定そのものが、一つの<問題>であり続けた。こうした<問題>が様々な政治的・社会的・経済的利害関係と連動することこそ、この時代に特有のものであるイデオロギーというものの成立機序である。そして、これは極めて重大なことであるが、そうした<問題>に対する様々な「回答」が、近代が「宗教」と呼んだものが持っていた真理性の、何らかの形態での「翻訳」であった点を無視してはならない。

 

 

マルクスやエンゲルスにおいては、この「真理」はヘーゲル哲学の唯物論的な「翻訳」として現れた。そして彼等は、「唯物論的弁証法」という見方を他ならぬ「歴史」の「真理」であるとしたのである。彼等が「科学的社会主義」と呼んだものは、こうした「宗教」から二重に「翻訳」された「真理」の未来における「実現」に他ならなかったのである。

 

 

6.「非宗教」へと溶け込んでいく「宗教」

 

 

ここまで述べ来ったことを一々慮るのであれば、近代において起こった事態とは、しばしば通俗的に言われるが如く、「宗教」の領域が単に退潮して、その覆いが取り払われるようにして「非宗教」ないし「世俗」の領域が姿を見せた、ということでは恐らくないのである。実際に起こっていたことは、「宗教から科学へ」ではないのである。起こっていたのは、個人の内面の信仰に重点化された「宗教」概念を基にして、「宗教」と「非宗教」を絶えず区分し規定せんとする運動であり、そして又、その営為によって当の「宗教」概念自体を再規定するという運動であったし、それと同時に、「宗教」的なるものの「非宗教」への絶えざる「翻訳」でもあったのだ。

 

 

要するに、「近代」とは、何が「宗教」であり、何が「非宗教」(即ち「世俗」)であるのかについて、一つの<問題>として絶えず反省的=再帰的に自己規定を行う営為のことであると述べても差し支えないと思われる。近代という時代に至って、世界から神という絶対者の「聖なる天蓋」が消え失せた。代わりに人間自身が、自らを反省的=再帰的に自己規定し、世界を制作しなければならなくなった。その過程で「宗教」に関する言説は、宗教側からも、非宗教側からも、無数に生産されることとなった。そして又、そうして語られた「非宗教」の中に、「翻訳」された「宗教」的な諸価値が絶えず入り込むこととなった。こうした営為そのものを大いなる歴史的動向として眺めた時、世俗化論が、歴史における時代区分論が、そして「文明」と「文化」への問いが、近代の反省的で再帰的な自己規定的な<問題>として絶えず浮かび上がってくるのである。

 

 

そして、この<問題>の反復の中で、「宗教」の内容は殆ど「非宗教」の中に翻訳され尽くしていき、いつしか「非宗教」の中での自立的価値をも消失させていった。言うまでもなく、これが近代的ヒューマニズムの成立である。そうした諸価値もまた最終的に、人間中心主義における手段の目的化とも言える帰結である個人主義と道具的理性によって相対化されてしまったのである。人間における絶対者ないし絶対的なるものの探究は、こうした流れの中で徐々に退潮せざるを得なかった。これが、「近代」という「世俗の時代」の大凡の道行きであったように思われる。

 

 

7.最後の時代へ

 

 

この最後の時代こそ、所謂ポストモダンと言われている時代に当たる。この現代にまで雨のように長く延びている時代である。

それでは、思想としてのポストモダニズムとは何だったのか。その問いに少しだけ答えるのであれば、私がここで論じている「宗教」からの「近代」論を、「宗教」と「近代」の解体論として読解するならば、それがそっくりそのままその答えとなるだろう。要するに、そうした一連の過程の中で全ては「構築されたもの」であると捉える時、「近代」における箇々の規定やその内実は全てその構築過程の方に依存していると考える時、そこにポストモダンの相が現れるのだ。

 

 

そして実際、真摯に考えれば考える程、そのような捉え方を逃れることは決して出来ないだろう。そうした人間自身による自問自答は、その回答としての近代的諸価値のみならず、幾重にも折り重なった<問題>までをも含めて、全てが歴史的に「構築されたもの」でしかなく、その根柢には何一つとして絶対的な目的も価値も意味も無いことということを看取せざるを得ないからである。詰まるところ、近代人はその端緒からしてニヒリズムから逃れることが出来ないようになっており、「近代」の根柢を成すニヒリズムがニヒリズムとして顕になった時にはもう手遅れだったのである。

 

 

そもそもポストモダニズムとは、認識の潜在的な規定条件としての関係性である構造へと主体性を溶かし込んでしまった構造主義を経由して、当の構造の生成過程や可変性に着目したポスト構造主義と呼ばれる思潮を指す。このポスト構造主義は、マルクス、ニーチェ、フロイト、そしてハイデガーといったドイツの哲学者達による「近代」的主体の解体という視点を受けて、彼等の著作を含めた西洋の思想史や文学史、そして哲学史のテクストを読み直すことによって形成されたものである。その営為は言わば、テクストが織り成す種々の「歴史」を、そこに記されている普遍的だと思われてきた諸々の概念を、諸々の諸条件の中での「言説」(discours)として解体するように読解することであった。

 

 

ここまで私が記してきた「宗教」への問いもまた、普遍的カテゴリーと思われる諸々の概念の成立そのものを問題にしている面において、そしてそうした概念によって恰も自明のもののように分節化された現実の社会的歴史的構成そのものを問題とする点においては、こうした営みに近しいものであることは理解されよう。私の考えるところによれば、「近代」はその歴史的構成からして最終的に、そもそもこうした発想を生まざるを得なかったし、全ては「言説」であるとするポストモダニズムに至らざるを得なかった。それはかの、反省性と再帰性の為せる最後の業だったのである。

 

 

そして、このポストモダニズムは現在、ヘーゲル左派からマルクス主義へと伸びていったあの「宗教」の「翻訳」の道を、往時とは異なった形で歩んでいるように思われる。あらゆる価値が最早単に歴史的に構築されたものでしかなく、その裏には権力だけが見透かされているという状況において、確実なものは、貨幣が絶対者の代替を果たしているかのように見える資本主義のみ、そして手札にはその資本主義に適応した個人主義と道具的理性しか残っていない。そして道具的理性は資本主義という形で歴史的構築物の側に加担し、個人の真に人間的なるものを抑圧する。このような状況下においては、個人の真に人間的なるものは、歴史的構築性を徹底的に逆利用しながら、その被害者として、当の歴史的構築性に抗うことでしか獲得出来ない……恐らくはこうした理路こそが、マイノリティのアイデンティティ・ポリティクスというものであり、トランスジェンダリズムを筆頭とするかのウォーキズムの生成過程であるだろう。

 

 

最後にこのことは注意しておきたいが、私は、「近代」における「宗教」が、或る種のポストモダニストが主張する如くに、それ自体としては全く無意味な、「帝国主義」なり「植民地主義」なり「ヨーロッパ中心主義」なり「男性中心主義」なりといった単なる権力体制であった、と言いたい訳では決してない。とは言え、そうした批判が全く的を外しているとも思わない。むしろ「近代」の運動がポストモダンというその末期をも終えようとしながら、それでもなお近代国家と近代法、民族とナショナリズム、そして資本主義といった近代的システムによって駆動し続けているこの時代においてこそ、そうした見解が提出されることをも含めて、我々は今なお、「近代」における「宗教」への問いを、「近代」を受け止めつつ、「近代」とは別の仕方で反復しなければならないのである。この問い掛けは、「近代」に対する反発から誕生し、前世紀末から今世紀初めの間に一気に世界史の趨勢を握ることとなった原理主義の台頭に対して如何に対峙するのか、という課題としてアクチュアリティを持つことになる。そのためにもまず何より、「宗教」という観点からの「近代」の歴史の追考が必要不可欠なのである。

 

 

これから私が探究したいのは、こうした歴史的事情、即ち、「宗教」への問いにおいて現れる常に虚無と紙一重の事態の核心である。

それは、我々の生きている時代をもう一度その歴史的根柢から考え直すことに他ならない。

そしてこの思考は、現代の我々が「世界史」の中で、我々自身を如何に自己規定出来るのかを考えることに直結しているのだ。

 

 

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今回は、自分の核心的な問題意識を粗い形ではありますが語ってみました。ここからはこの「しらなみのかげ」にて、このような問いに基づいて様々な文献や事象を分析してみたいと考えています。

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