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風鈴のある書店『#シロクマ文芸部』
風鈴と青い看板が目印の小さな書店。
若い夫婦が運営している書店で、古民家を改装しておしゃれな外観をしている。新刊本ばかりではなく古本も揃えていて、その品揃えは夫婦のセンスの良さが伺われる。
店内には4人が並んで座れる小さなカウンターがあって、僕は学校が休みの日はいつもここで受験勉強をしていた。
「落ち付いて勉強できる場所があるんだよ」
来週から夏休みに入るので、学校の図書館で勉強が出来なくなると、桜子さんは心配していた。そこで思い切って、静かで集中できる場所を探している桜子さんに声を掛けてみたのだ。
僕にしては一世一代の勇気を振り絞った行動だったけど、桜子さんは興味を持ってくれて「そこはどこ?使用料とかいくらかかるの?」と聞いてくれた。挨拶以外で会話をしたのはこれが初めて。高校に入学した時から可愛いなと思っていたけど、人気者の桜子さんは僕にとっては高嶺の花だった。
「お金はいらないよ。平日なら貸し切り状態で、軽食だったら持ち込みもできるんだ」
「塾は夕方からだから、それまで予習が出来ると良いな、そこどこ?教えて」
「駅前商店街のアーケードの中にある『夢家堂』という書店なんだ。暖簾の代わりに風鈴がいっぱい飾っているからすぐわかると思うよ」
「今度行ってみようかな」
「毎週木曜日が休日だから、気を付けて」
僕はもう有頂天だった。
桜子さんがあの書店にきてくれたら、ふたりであのカウンターに並んで勉強が出来るかも知れない。
その日の夜はなかなか眠れなかった。
桜子さんと並んで勉強するなんて夢のようだったし、もしそれが現実になったらと思うだけで、何だか気恥ずかしくなって、布団を頭からすっぽり被って心臓がドキドキしてしまうのだった。
夏休みも始まって蒸し暑い午後、僕はいつものように夢家堂の風鈴の暖簾をくぐった。
「悟君こんにちは、今日も来たね。ゆっくりして行ってね」と店長の三宅さんが声を掛けてくれた。とても優しい三宅さんにはいつも良くしてもらっている。本好きな三宅さんは、掘出し物の古本が手に入るとハイテンションで僕相手にその本の書評を始めるのだ。ちょっと鬱陶しい時もあるけど、そんな三宅さんが可愛らしく思えてくる。
僕がこの夢家堂に通うようになったのは、3年前に古本の漫画を買い集めるようになった時から。
手塚治虫や石ノ森章太郎などの漫画を、僕がコレクションしていると知った三宅さんは、フリマや廃品回収業者に問い合わせて仕入れてくれるようになった。「石ノ森正太郎の人造人間キカイダーの初版本を捜しているんだけど、なかなか難しいかな」と僕がリクエストすると「それは見つかっても高額になるだろうね」と、三宅さんは悪戯っぽく笑っていた。
僕はカウンターに座り、参考書とノートを開いた。
苦手な数学の問題を解こうと集中するが、入口の風鈴が鳴るとどうしても外が気になる。
「風鈴が邪魔かな?」と、三宅さんがソワソワしている僕の様子をみて心配してくれた。
「いいえ、そうじゃなくて。ちょっと集中できなくて」
言い訳してはノートに向き直り、また風鈴が鳴ると外を見てしまう。
アーケード商店街は閑散としていて、人通りも少ない。僕がカウンターで勉強している間に、書店を訪れるお客さんは数人で、これでよく潰れずにお店をやっていけてるなと不思議に思うほどだ。今まで何度も冗談交じりに「大丈夫なんですか?」と三宅さんに聞いたことがあったが「大丈夫だと思うよ。これでもコアなお客さんがいるし、イベントで儲けてるから」と笑っていた。
この日は桜子さんは書店に来なかった。
翌日も、翌々日も。
翌週も、翌々週も。
僕のささやかな希望の夏休みは終わって、翌年の春には地元を離れて東京の大学に通うようになった。
大学在学中に青年海外協力隊に参加し、バングラデシュに赴任した。
その後は発展途上国のインフラ整備に関わる仕事がしたくて、ゼネコン会社に就職。海外での長期出張が多く、忙しさにかまけて地元へ帰ることはしなかった。
当然、夢家堂へも赴くこともなく、度々カウンターで勉強させてもらったことなどお礼をすることもなく、不義理な事をしていた。
あれから25年が経ったある日、母から夢家堂の三宅さんが亡くなったとメールで知らせがあった。
葬儀には参列できなかったが、僕は有給を取って久々に里帰りをした。
そして懐かしい駅前のアーケードを歩いて夢家堂を目指した。
すると懐かしい風鈴の音が聞こえてきた。書店はあの当時のままの外観で、三宅さんの奥さんがしっかり引き継いで営んでいたようだ。
引き戸を開けて「こんには」と店内に入った。
懐かしい本の匂い。内装も当時のままで三宅さんのセンスで集めた本が並べられていた。
「悟君?懐かしいわね、立派になって」と奥さんが出迎えてくれた。
奥さんの話しでは、三宅さんは5年前に胃がんが見つかり、闘病を続けていたそうだ。「時々ね、悟君の話しをしていたのよ、またいつ悟君が来てもいいように、カウンターはそのままにしていたの」そう言うと奥さんは「ちょっとゆっくりして行って、今コーヒー淹れてくるから」と奥の部屋へ入っていった。
書棚の新刊コーナーと古本コーナーを眺めて、いつも受験勉強で座っていたカウンターに目をやった。
カウンターの右端には一冊の本がイーゼルに飾られていた。
その本には『非売品』と書かれた札が置かれている。
イーゼルに飾られていたのは『人造人間キカイダー』の初版本。高校生だった当時の僕が欲しがっていた漫画本だ。
「その本が見つかった時は、大喜びしていたのよ。きっとビックリするから驚かすんだって言って」いつの間にか奥さんが、コーヒーを持って後ろに立っていた。
僕は『人造人間キカイダー』の表紙を見た途端、涙が溢れてきた。
「ついに見つけたぞ、凄いだろ」と、当時の三宅さんの優しい声が聞こえたような気がした。
僕はカウンターの椅子に崩れるように座り込み、溢れる涙を止めることが出来ないでいた。