無心に宿る
心を無にする、というのは心身にとてもよい影響を与えてくれます。
皆さんは、どんな時に無心になりますか?
私は、いろんな場面で、ちょこちょこ無になります。
家事をしている時もたまに無になります。
読書をしているときはほとんど無心です。
一人でゲームをしている時も無心になります。
そして意外に思われるかもしれませんが、人と話している時にも、しばしば無心になります。
それで気付いたんですよね。
閃きや得心など、高次からもたらされるものは、「無心に宿る」のだということに。
なーんて、ちょっと小難しい感じで書いてしまいましたが、要するに、
「無心になるとあっちと繋がる」
という簡単な話です。
心を無にする、というと座禅や瞑想を思い浮かべる人がいるかもしれませんが、そんなに大げさなものはそこまで必要ではないと私は思います。
趣味に没頭した事がある人なら、わかるでしょう。
没頭しているとき、その人は無心です。
確実に「あっち」と強く繋がっています。
一瞬でもいいんです。
あれこれ日常の雑事について考えながら料理をしているとき、野菜を切り終わって、「あれ? 今何考えてたんだっけ?」なんて思うことありませんか?
手元が危ないから一瞬包丁と野菜に集中したその瞬間、思考が途切れて無心になって、あっちと繋がってるんですよ。
そんなのしょっちゅうありませんか?
ほら、みんな日常的にあっちと繋がってるんです。
そういう時、特になにか直感を得たりしなくたって、ちょっと心がすっきりしていると思うんですよね。
じゃあ、もっと恩恵を受ける為に、座禅や瞑想をした方がいいんじゃないか、って思います?
心身ともに健康な人ならぜひやってみて~と答えますけど、そもそも心身ともに健康な人なら、日常的にいい感じにあっちと繋がってるので必要ないんじゃないでしょうか。
なんというか…
鬱っぽい人とか、体調がよくない人なんかは、一人で座禅組んだり瞑想したりするのはやめた方がいいですよ。
ちゃんとお寺さんなんかできちんと見てくれる人がいるところで座禅を組む。
きちんと誘導してくれる人と一緒に瞑想する。
これならいい影響を受けられると思います。
状態が悪い人が一人で座禅とか瞑想を始めると、無心になるどころか、その状態に見合ったいわゆる「よくない領域」と接続するための儀式になっちゃうんじゃないかと思います。
そう、接続するんですよ。
無心になるとあっちに繋がるって言いましたよね?
私がきちんと人の話を聞こうとすると、ぐわーっと、こうなんというか全神経が集中して、無心になるんです。
そうすると、ぶわーっと自分から情報網のようなものが指向性を持って広がっていくんですよね。
よく、「なんでわかるの?」って聞かれますが、そういう状態の時の私は、わかるのが当たり前なんです。
昔はこの状態のことを、何かが降りて来てるんじゃないかと思ってましたが、今はそうじゃないとわかります。
見えない世界と繋がることで、得ることのできる情報量が爆発的に増えているんだと思うんですよ。
で、どうやって接続しているのか? っていう場面で、私は「無」になっているんだって事なんです。
無、というか、私心がない、ともいいます。
あるがままをただ眺めるだけの状態です。
そうでなければ、高次とは繋がれないんです。
自分の事ばかり考えていても、誰かの為に、なんて他人のことばかり考えていても、それはどちらも私心のある状態です。
全部とっぱらって、無にならないと、すっきりするようなエネルギーは降りてこないんですよねぇ。
なーんにも考えないその一瞬、いい一瞬です。
深呼吸とかもいいですよね。
これは私の感覚ですがたぶん、息を吸って吐く、吸いきった時、吐ききった時、いちいち無になれると思うんですよね。
なんかね、この瞬間ってたぶん、なんかあるんですよ、言語化できないんですけど(笑)
呼吸って、ものすごく不思議なものっぽいです。
まあとにかく、座禅や瞑想をするだけが、心を無にする方法じゃないので、日常の中で自分の「無」ポイントを見つけてみるってどうでしょう?
そういう無心は、鬱っぽかったり体調が悪い人にも安全安心で心身にもいいものです。
無心になるのは、本当に心にも体にもいい影響があるんですよ!
いらんこと考えて落ち込むタイプの人は特に、無心になれる瞬間をたくさん作ってみてくださいね。