ハイブランド(唐絵)のファスト化なんだ【デザイン思考で読み解く狩野元信】
ちょっと敷居が高いかも、と敬遠されがちな日本美術。
でも実はなかなかエキサイティングで、今を生きる私たちの創造性を刺激してくれるかもよ!ということを伝えたくて、試しに前回「アート思考」の絵師というテーマで俵屋宗達を読み解いてみました。
今回は、アート思考の対局にある「デザイン思考」で日本美術を読み解いてみたいと思います。さて、はたしてうまくいくかな…。
そもそも、古来の日本にデザイン思考の絵師(画家)はいたの?と思われるかもしれませんが、依頼主の注文に応じて制作をするのが日本の絵師の基本スタイルですから、課題解決型のデザイン思考タイプはわりと多くいるのです。
その中でも特筆すべきデザイン思考の持ち主として紹介したいのが、室町時代の終わりから江戸時代末期まで画壇を席巻した狩野派、その二代目として流派の基礎を作った狩野元信(1477?〜1559年)です。
元信がデザイン思考によって成し遂げたことを一言で言うなら
です。
海外ハイブランド(高級ブランド)のエッセンスを残しつつ、わかりやすく、量産可能なドメスティックブランド(国内ブランド)を起ち上げたのが元信の最大の功績なのですが、どうやったらそんなことが可能だったのか、時代背景とともに読み解いていきましょう!
唐物・唐絵(=海外ハイブランド)をヒエラルキーの頂点とした室町文化
狩野元信が登場する少し前の時代から、話を始めましょう。
「東山御物(ひがしやまごもつ)」と呼ばれる、足利将軍家の美術品コレクション(三代義満、六代義教が収集したものが中心)は珠玉の中国美術品で構成されていました。
将軍の邸宅の「会所」と呼ばれる建物は、人々が集まって連歌会や茶会を催したり、能や狂言を楽しんだりする文化的空間ですが、この会所には中国・宋元時代の花瓶や香炉、漆器、天目、茶入などの第一級の唐物が飾られ(こんなのとか↓)
さらに唐絵とよばれる中国絵画が掛けられました(こんなのとか↓)。
会所にどんな唐物を飾るか、取り合わせからインテリアまでの座敷飾りを担当する同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれる人たちもいました。
この同朋衆のひとり能阿弥がまとめた『君台観左右帳記』は、将軍家の唐物コレクションの目録でもあり、またその飾り方の手引き書でもあります。
『君台観左右帳記』では東山御物が「上中下」でランク分けされていて、「上」の部を見ると玉澗、馬遠、馬麟、牧谿、梁楷、夏珪、孫君沢などの宋元画家がずらりと名を連ねています。
とにかく宋元時代の中国絵画と工芸が、文物ヒエラルキーの最高位にあったと、まずは理解してください。
筆様(ひつよう)=○○風の絵がほしい!という注文
さて、ここから日本の絵師たちの話になります。
将軍邸は唐絵・唐物で飾られただけではありません。建物の各室の襖には、絵師たちの筆で様々な絵が描かれていました。
描き手に選ばれたのは、主に禅宗寺院に身を置く画僧と呼ばれる絵師でした。もともとは禅僧が修行の余技として水墨画を描いたところから始まっていますが、室町時代には将軍家などからの注文を一手に引き受ける専門組織となっていました。幕府御用絵師というやつです。
相国寺(足利義満が創建)の画僧である周文、その弟子の小栗宗湛らがこの幕府御用絵師として活躍していました。
興味深いのは彼らの制作方法です。というより依頼された注文内容です。絵の制作依頼時には「筆様(ひつよう)」というものが指定されました。
筆様とはようするに「○○風」という意味です。○○には、宋元名画の画家たちの名前が入ります。
例えば、足利義政の東山殿の障子絵は、当時の記録(『御飾記』)には次のように記されています。
馬遠、夏珪、和尚(=牧谿)、玉澗。いずれも先ほど見た『君台観左右帳記』上の部の画家たちですね。
つまりこの時代、憧れの宋元画が手本とされ、画題(何を描くか)とセットで筆様(どの画家のスタイルで描くか)が指定されていたのです。
このような制作方法は、将軍邸だけでなく大徳寺塔頭や相国寺塔頭の障子絵などにも用いられていました。とにかく憧れの画家風の絵で埋め尽くしてほしかったのです。当時の文化人たちが唐絵(宋元画)をいかに特別なブランドとしてとらえていたのかがよく分かりますね。
唐絵、唐物は日本人にとって、まさに燦然と輝く海外ハイブランドだったのです。
さて、周文、宗湛という禅宗寺院の画僧が任されてきた幕府御用絵師でしたが、その後を継いだのが狩野正信でした(周文の弟子であった雪舟は幕府御用絵師とならずに、山口に移ってしまったため)。狩野派の一代目となる絵師で、元信の父にあたります。
狩野正信は禅宗寺院に身を置く画僧ではありませんでした(詳しい素性は分かっていません)。ただ、正信も制作スタイルはやはり筆様にもとづくものだったことが分かっています。
東山殿持仏堂(いまの慈照寺東求堂)の襖絵の制作を正信に依頼することになった際、将軍義政は「まずは正信に一枚描かせてみよ。夏珪様か馬遠様か、またはその他の筆様か思案させるように」と命じているのです。
筆様制作の限界と元信の変革
このように代々の幕府御用絵師が手がけてきた筆様に基づく絵画制作ですが、実はいろいろと問題点がありました。
まず、手本となる絵に限りがあります。
当時の絵師が手本としたのは将軍が所蔵する唐絵でしたが、とても希少なものだったため、幕府御用絵師であってもそう簡単に実物を目にすることはできませんでした。どうしても必要な場合に限り、特別に蔵から出され(出庫管理をしていたのは同朋衆)絵師に貸し出されたのです。
手本とする絵が少なく、また見ることも簡単ではないとなると「馬遠様」だ「夏珪様」だと言っても、何が本当に正しい画風なのかきちんと理解することが難しくなります。
その結果「私が考える夏珪風の絵はこんな絵だ」というように、各絵師なりの画風解釈が行われることになるのです。これでは絵師個人の裁量による部分が大きくなり、画風にはばらつきが出てきてしまいます。
もう一つの問題として、海を渡って将軍の倉に収められた絵画作品はいずれも掛軸や巻物形式といった小画面のものばかりでした。しかし絵師たちは大画面の障壁画を制作しなくてはいけません。
小画面の作品から宋元名画の構図形式を理解し、それを柔軟に大画面に転用するというのは簡単ではありません。結果的に宋元画の図様をいくつか抜き出し、パッチワークのようにつなぎあわせることで大画面を構成するような手法がとられていました。
画風にばらつきが出る、大画面への転用も容易ではない。これの何が問題かというと、絵師個人の力に頼る部分が大きく、工房による分業制作、大量生産ができないのです。
ここで少し時代の移り変わりに目を移すと、応仁・文明の乱前後から、将軍の権力は弱体化していき、将軍だけが唯一絶対の文化の庇護者とは言えなくなっていました。将軍家に代わって、寺社、大名、そして町衆が文化の担い手として存在感を増していたのです。
つまり顧客の増加に対して従来の筆様制作では対応が難しい、という問題が発生していたということです。
正信の跡を継ぎ、狩野派二代目となる元信が登場したのは、このような時代でした。明確な課題を前にして元信が行ったのが
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