ハイデガーと分析哲学①-古典期分析哲学の概説-
文責:屈折誰何
はじめに
本記事は「ハイデガーは何を乗り越えようとしたのか-トゥーゲントハットを手がかりにして-」(改題前「【連載企画】(前期)エルンスト・トゥーゲントハット-ハイデガー最後の弟子の一人にして大陸哲学と分析哲学の架橋者-1/2」)の続編である。しかし、それぞれは独立して読めるようになっているため、こちらから読んでいただいても差し障りがないようになっている。
今回は、ハイデガーが示した解釈学の方途と分析哲学に奇妙な類似が見られることを、E.トゥーゲントハットの主張をもとに見ていきたい。まず、この記事でハイデガーと同時代に発展した古典期分析哲学の歴史について紹介する。それを踏まえて、両者にどのような関係があるのかを次回見ていきたい。ところで、トゥーゲントハットはエッセイ“Philosophische Aufsaetze”において自身の前期の探究を
「(1)分析哲学を通じたフッサールの乗り越え
(2)ハイデガーの真理概念の訂正
(3)伝統的存在論の分析的批判
(4)分析哲学の導入」
という4つに分けている。今回および次回はその(3)と(4)に相当すると思っていただければありがたい。
古典期分析哲学
前章-フレーゲとラッセル
分析哲学はG.フレーゲによって種が蒔かれ、B.ラッセルと、文脈の都合上今回は省くがG.E.ムーアによって旗揚げされた。フレーゲの『算術の基礎』(1884)という先陣にて、主に3つの指針が示されている。
(1)反心理主義であること
(2)語の意味を文脈(命題)から離れて見てはいけないこと
(3)概念と対象は別であること
今回は記事全体に関わる(2)と、この章の歴史を押さえる上で重要な(3)に注目したい。((1)もフッサールの文脈では非常に重要なのだが、今回はハイデガーおよび解釈学との比較が中心となるため脇に置く)
フレーゲのみならず、古典期分析哲学において重要なのはa=aとa=bは別の関係を示すというテーゼである。カントよろしく、前者は新しい情報が加わっていない「分析的」な関係だが、後者はaとbの異なるものが等置されるという新しい情報が加わっている。これは「総合的な」関係だ。これを分かつためにフレーゲが導入したのが(2)、(3)で、命題をある変数とそれに対する関数として見なすことと、指示と意義の関係である。
まず(2)、(3)のつながりについて見ていきたい。フレーゲは「AはBする(状態にある)」のような命題が与えられたとき、Aに置かれる名詞を固有名(あるいは単称名辞)として、特定の対象を指示するものと見ている。このAは個体変項、つまり変数のような役割を果たす。一方でBする(状態にある)という述語(あるいは一般名辞)は、その指示された対象が、この世界に対してどのような関係性を有しているかを示すものと見ている。この関係性こそが概念であり、関数のようなものだ。例えば「氷は水に浮く」という命題は、「氷」や「水」がAに、「…は…に浮く」という関係がBに相当すると見れば分かりやすい。あるいは関数Bがあって、そこに特定の値Aを代入したB(A)なるものを考えているともとれる。
語の意味は、その語が含まれた命題の真理値が、真か偽かの判定ができることである、とフレーゲは考えており、むしろそれを離れ得ない。これが(2)のあらましである。例えばf(x)=x+3という関係を考えよう。このときx=1でf(x)=5と答えた場合、それは偽であり、f(x)=4なら真である。しかし、f(x)が何なのか私たちに知らされないまま、x=1でf(x)=5と言われてもそれが真なのか偽なのか分かりようもない。概念と対象を分けた上で、それが組み合わさってできた命題に即して意味を問う、これが(2)と(3)のつながりなのだ。(つまり指示はそれ単体では意味ではないのだ。)
では、指示と意義をなぜ分けて考える必要があるのだろう。それが有名な「明けの明星」と「宵いの明星」の関係である。どちらも同じ金星を指し示すが、それが用いられる文脈が違う。(日の出か日の入りか)対象となっている金星は、朝方だろうと黄昏だろうと「…を見た」「…を破壊した」という関数の真理値に変わりはない。しかし、「黄昏に明けの明星を見た」という命題は関数の真理値に関係する。これが指示と意義を分ける第一の点だ。
そして第二、これがa=aとa=bに関わる。もし指示と意義が同じ意味だとすれば、この二式の間に違いがなくなってしまう。aもbも同じ対象を指し示していることは、a=aによって了承済みであり、それ以上のことは何も言っていない。これでは分析と総合が混ざり合ってしまう。そこでフレーゲは意義を導入する。a=bとは指示対象は同じだが、それぞれの表す意義は別なのだ。そして、その別々の意義が等置されることによって新しい情報が生まれるのだ。
フレーゲの数理論理学(数学基礎論)に根ざしたような言語の哲学はラッセルに衝撃と歓喜を与えた。しかし、程なくして、フレーゲの体系に致命的な矛盾が生じることをラッセルは発見してしまった。まずそれまでの前期ラッセルについて見ていきたい。ラッセルは伝統的論理学の基本的なテーゼである「AはBする(状態である)」という主語-(コプラ)-述語の形式にすべてを還元させようとするあり方に批判的だった。彼においては「Bする(状態である)」という関係もまた一つの指示表現であり、単称名辞も関係もある「項」であると説いた。そして、それを端的に「存在」(being)と呼んだ。命題は項を扱うが故に、すべてのものは存在に与っている。この「存在」という枠組みに関しては、存在論の優位から離れた中期以降も保持された態度である。
ここで注意しなければならないのは、ラッセルには一貫して実在論的な傾向があったということだ。ラッセルは知覚によって得られる「見知り」での存在(existence)、つまり時間・空間内に一定の場所を占めるものと、命題によって得られた知識として存在(being)を分けて考えている。なぜなら命題の知識は知覚の必要がないからだ。例えば、太陽の重心について、私たちはそれがどこにあるのかを直接見て確認しているわけではないが、何らかの記述によってそれを知ることができる。そうした存在beingの普遍性によって、私たちの知識は成り立っているのだ。そして、その上で実在論的な傾向にあるために、そうした普遍的な存在をexistenceとも表現する。しかしこれはむしろbeingに近く、「見知り」のexistenceとは異なった相のexistenceである。
こうした存在論は彼の数学的探究と相互関係にあったが、その数学・論理学の側で不和が生じることが発覚する。命題の項が何を入れても等しく存在に与るのだとすれば、「自分自身を否定する命題」を項に持つ命題はどうなるのだろうか?いわゆる嘘つき(エピメニデス)のパラドクスである。数学的に述べるのであれば「自分自身の要素でない集合全体の集合をRとしたとき、Rは自分自身の要素なのか」という問題だ。
これは関係をも一つの指示表現として定義した先の図式に大きな陰を落とす。なぜなら、もし関係が項であるなら単称Aと述語(関係)Bの関係Cもまた一つの項であり、単称Aと「単称Aと述語(関係)Bの関係C」の関係Dもまた一つの項であり……と無限に続くことになってしまうが、これを解決する手立てとして、数学側の知見に立ち、集合の外延性のみに着目するという態度を今までは取ることができたのに、それが不可能になってしまったからだ。つまり、今までは「もし関係が項であるなら〜無限に続く」、というこの無限の連鎖それぞれの項を、同じ意義を示すものとしてコンパクトにひとまとめで考えることができたということだ。しかし、その「同じ意義かどうか」が揺らいでしまった以上、これを解決する手立てが要請される。
ラッセルは記述理論という理論に到達することで、その矛盾を乗り越えようと図った。矛盾は主に2パターンである。
①項と関係の統一性が無限後退するという矛盾
②①に伴って、命題は真理値を要求するが、その真理値を要求する所以が項と関係がある一つの統一(存在)のもとだとしたら、それが崩れたとき、すべてのものが真理値を有さない、前期の用語における「客観的な虚偽」になってしまうのではないかという矛盾
記述理論では指示語(everything, nothing, something, all, a, no, the)などが一つの真理値を示す表示句として機能することを明らかにした。つまり、ラッセルはここで意味と表示の分離に成功したと言える。当の項がどんな場合でどう真理値を取るかということ=意味と、どう真理値を取るか決定すること=表示はそれぞれ別ということになる。例えば表示句everythingがあるとき、命題C(everything)は「C(x)は常に真である」ということに対して、真理値を決定する。「すべてのものがおいしい」は「おいしい(もの)は常に真である」という命題関数となり、まずいものが一つでもあれば、偽という真理値を取る具合だ。こうすることで、真理の領域と意味の領域という二つを考えることができるようになり、②がまず回避された。さらにそれを応用させたタイプ理論によって、①のような状態を無意味として回避する道を取れるようになった。
事物ではなく事実へ-前期ヴィトゲンシュタイン
タイプ理論の導入によって、統一の無限後退や嘘つき(エピメニデス)のパラドクスを回避しようと試みたラッセルだったが、そこにもまだ弱点があった。先の表示句とセットになった束縛変数(「すべての人」など)は、表示句を真理値の決定要素とすることで、任意の束縛変数を含まない命題関数に変化できる。ある命題がその意味と表示句(束縛変数)という二つのレベルを持っていたとき、そのレベルは2である。そしてその言明のなかで、自身の言明の意味だけを問題とするのならそのレベルは1である。つまり嘘つきのパラドクスはこうなる。
「私は嘘つきだ」は「私の行うすべてのレベル1の言明は偽だ」というレベル2の言明を意味する。
レベルが違うため循環は起こらないというのが結論だ。では、もしある命題を任意の束縛変数を含まない命題関数に変化し続け、束縛変数が一つもなくなった命題=要素命題をどう考えるか。ラッセルはその項を個体と呼ぶ。逆に、任意の命題関数は要素命題の項に変数を繰り返し入れることで得られる。その個体は、何とも複合関係にない。つまり、先に挙げた項と関係の統一による項を極限まで分解した項と言える。そのためこれは命題にはなり得ない。しかし、要素命題の項であることに対して、複合的でないというのは新しい情報であり、これを保証する必要があった。
それを助けたのが前期ヴィトゲンシュタインだ。彼の『論理哲学論考』(1921)の一・一のテーゼや二・◯二◯一のテーゼ
世界は事実の総体であり、ものの総体ではない(一・一)
複合的なものについての言明はいずれも、その構成要素についての言明と、その複合されたものを完全に記述する命題とに、分解されうる(二・◯二◯一)
によってラッセルのいう要素命題の項が命題たり得ないこと、つまり複合的でないことが保証されたのである。それだけに留まらず、この原子的事実は、もはやタイプ理論で用いたレベルの区分(還元公理の応用)すら放棄しようとし、原子的命題という新たなモデルを提供する。ここで個体とは、原子的命題における変項のことなのだ。(ややこしいが、ラッセルの原子的命題がヴィトゲンシュタインに言う要素命題に相当する)そうしたことがラッセルの『プリンキピア』第二版(1927)で示される。もともと『プリンキピア』は数学の基礎づけとそれを達成するための「論理的に完全な言語」を目的に書かれたものだったが、それはヴィトゲンシュタインにも波及する。例えば『論考』三・三三二の
いかなる命題も自分自身について語ることはできない。なぜなら、ある命題記号が当の命題記号自身のうちに含まれることはありえないからである。(これが「タイプ理論」のすべてである)
や続く三・三三三(ラッセルのパラドクスの解決方法の紹介、長いため省略)によってラッセルの理論が踏襲され理想言語の構築が企図されている。
ここで、ワルター・シュルツが挙げている『論考』での三つの思考様式を見てみよう。
(1)科学と生は別であり、精密科学としての学はさらに自然科学と論理学に分けられるということ
(2)論理的命題は分析的-同語反復的であり、自然科学の命題は総合的であること(フレーゲでのa=aとa=bを思い出してほしい)
(3)総合的(経験的)命題は検証されなければならないこと
(1)に関して、まず、私たちの世界は論理から離れて存在することはできない。(二・一九や三・◯三二など参照されたし)これを言語論的転回と言う。しかし、その論理が自然言語のそれでは非論理に接近する。その最たる例がこの『論考』で一番有名な七、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」に集約されている。つまり、われわれの生の領域に関わる倫理の言明は、その根本が世界と命題の関係を表すものであり、端的にそうなっているとしか言えないもの(言語の内部で検証できないもの)=語りえないものであるのに、それを「沈黙しなければならない」とまさに倫理の形で語ってしまっている。この神秘が私たちの生である。一方、精密な学としての科学および、それを基礎づける論理学は、そうした神秘を排して厳密になる必要がある。ヴィトゲンシュタインはこの神秘について肯定的な評価を捉えた一方、こうした形而上学の営みを徹底して排し、むしろ科学的な立場によって現実の諸問題に関わろうとする集団があった。それこそカルナップに代表される論理実証主義である。
論理実証主義-カルナップ
論理実証主義は『論考』から凄まじい影響をうけ、独自に発展していった。今回はその中でもR.カルナップに注目しつつ、先の(1)、(2)、(3)を考えていきたい。この学派もまたこの三つの思考様式を受け継いでいるが、重要なのは伝統的な形而上学の排除である。それこそが彼らの訴える検証原理に他ならない。検証原理を持ち得ない命題は偽なのではなく端的に無意味(真偽のつけようがない)とされる。では検証原理が検証原理足りうる根拠は何なのか、これこそ、ヴィトゲンシュタインが示した言語の限界と世界の限界の一致による逆説である。言語分析(検証原理)は真なる命題の意味を明証しはするが、それの根本的な理由はメタ言語を必要とし、メタ言語は検証原理で用いる原理を超越しているため、語りえないものなのではないかというものだ。
これをカルナップは『言語の論理的構文論』(1934)で乗り越えようとする。つまり、メタ言語の規則を検証原理の部分言語として採用したのだ。これによって、総合的な領域を扱う意味論的言語(=対象言語)と、分析的な領域を扱う構文論的言語が、逆説を解消しつつ上手く住み分けられることが期待された。言い換えると、自然科学の事象についてのみ検証原理は適用可能であり、それを下支えする論理学の領域は、その検証原理を適用することが無条件に真であるという図式を提供するものであるとしたのだ。そして残された問いとして、こうした論理学や古典的数学などは、分析的なものとして無条件に成立するのかがある。カルナップはこれにも答えようとした。
まず、なぜメタ言語の規則を検証原理の部分言語として採用できたのか見てみよう。カルナップはある命題で示された記号には意味論的性質だけでなく、構文論的性質も持っていることに気が付いた。構文論的性質とは、語の意味ではなくある公理的性質に該当するかのみ着目したものである。例えば「五は一つの数である」という命題を考えてみよう。ここで「五」は「……は一つの数である」という対象の関係を示すものと結びついていると言える。これは今まで見てきた通りである。しかし、この命題はそれだけに限定されるわけではない。これは「五は数言語である」という命題、すなわち、その記号の表現が、検証原理を適用できるか否かを公理的に含んでいる、という性質も持ち合わせているのだ。このようにして、命題それ自身が真理値を取れるものなのかどうかを判定できることが明らかになった。これを準構文論的命題と言う。(これは、先のラッセルにおける記述理論を彷彿とさせるが、あちらは「どう真理値を取るのか決定する」だったのに対し、こちらは「そもそも真理値を取れるのか否か決定する」という根本的な違いがある。)
「カエサルは素数である」という命題は、カルナップからすれば偽ではなく無意味である。なぜなら、それは構文論の次元において「カエサルは数言語である」という構文を取り、カエサルはわれわれの自然言語において通例数を表現する記号ではないから、その表現形式において取り違いが発生しているためだ。これは分析的な領域における取り違いである以上、検証原理を適用させて、偽であると言うことすらそもそもできない。しかし、ここで一つ重要な留保がある。それは「カエサルはわれわれの自然言語において通例数を表現する記号ではない」という公理である。もしこの公理が異なる言語があるのなら、(例えば数をルビコン川、カエサル、渡った、などと数える言語があるのなら、)それは構文論的に公理を満たしており、その中で素数か否かの検証原理が適用できる。
これはヴィトゲンシュタインにはなかった理論だ。ヴィトゲンシュタインにおいては理想言語は唯一であり、それはトートロジーの形式から自明だとされた。しかし、この理想言語は複数たり得ることがここで明らかになったのだ。分析的な言明は無条件に成立するのかについてもこれに関わってくる。つまり、古典的数学の知識はすべて正しいのかについての問いだが、これはヴィトゲンシュタインのトートロジーだけでは説明できない。かなり雑な解説になってしまうが、トートロジー(真理値の値が同じになる命題)の置き換えは、先ほどラッセルのところで紹介した束縛変数を、あくまで個体に限定したときのみ成り立つことが、数理論理学の側から知られたからだ。(詳しくはK.ゲーデルを各自参照されたし)こうした狭い限定では、古典的数学のすべてを分析的な言明と見なすことはできない。(古典的数学は従来より分析とされていたが、それの無条件性が崩れることになる)これを解消したのがカルナップであり、その糸口こそ理想言語の複数性にある。詳しくは数学の話になるため、ここでの解説は省く。
後年、カルナップはその意味論的言語から構文論的言語が構築されることを、準構文論的命題としてではなく、純粋な意味論的命題の変項であると見なす。そして分析性とは、ある任意の理想言語のもとで、その概念が無条件に(ア・プリオリに)真であることを確認することによって、保証されるものとされた。これを「解明」という。
経験主義と二つのドグマ-クワイン
こうして、確固たる地盤を構築できたかのように見えた論理実証主義だが、こうした分析性に対する態度そのものが、論理実証主義の基本的なテーゼ(科学主義、物理主義、経験主義)に反していると主張したのがW.V.クワインだ。彼はもともと論理実証主義の立場にあり、この批判は、むしろ論理実証主義を徹底しようとしたがゆえに起こったこととも取れる。
彼の批判はこうである。カルナップはある任意の理想言語に対して、その意味論的体系の中で「解明」を行うことによって分析性が獲得できると主張した。その「解明」の中でも特に、真偽に関わる規則が分析性に関わる。(意味論とは真偽に関する論のことであるから、この規則は「意味論的体系」と呼ばれる根拠でもある)クワインはここを問題視する。確かに、
ある任意の理想言語S3における分析性とは何か?
と問われたら、
その理想言語S3における真理規則のことである
と返すことができる。しかし、
では一般に、分析性とは何か?
と問われたら、どう返せるだろう?真理規則はある理想言語に即して決定される以上、その言語を離れてどういったものかを規定することはできない。とはいえ
それは理想言語S1における真理規則であり、S2における真理規則であり、S3における……
と無限に羅列しても回答になっていない。これは厳密な人工言語の話であるが、自然言語に拡張すると分かりやすい。ある任意の文章、例えば「カエサルは素数である」は、確かに私たちの自然言語では、分析的に無意味であることが先ほど示された。しかし、それと同時に、「カエサルを数言語と認める言語」においてはそれは真理規則に即していることになる。では分析性一般は何を指すのだろう?結局、本質的(分析的)に真理規則となる文などない以上、それの解明は不可能だ、とクワインは言う。これによって、ずっと保持されてきた分析/総合の絶対的な境界が揺らぐことになる。
当初は人工言語を巡る議論だったが、それはやがて自然言語へと至る。カルナップは、クワインの批判をその解明すべき項の分析性はどうやって担保されるのか、というものと理解した。カルナップがはじめに考えた図式、意味論的言語と構文論的言語を、ここでは内包と外延に読み替えよう。構文論的言語がすべて意味論に包摂された中で、従来の前者的な要素を内包、後者的な要素が外延だと思ってほしい。カルナップは自然言語について、通常は内包(≒意味)の理解から出発して、それを外延(≒記号とその指示対象)として表すが、未知の言語を取得するときは、その順序が逆転すると考える。例えば、私たちは未知の単語manasを聞いたとき、その外延を先に知って、それが心を意味するものだと知る。そして、そうした意味を確定させる方法が解明に他ならないため、分析性は担保されるというのだ。解明すべき項なんてそもそもあるのか?という問いに対して、現に自然言語であるではないか、という応答である。
クワインはそれに対して、翻訳の不確定性というテーゼで応じる。カルナップもクワインも、内包を確定させようとする段階で、相手の話者の反応を観察しようとする点は同じだ。例えば、Gavagaiと発話されたときに、ウサギが目の前を通りすぎたとする。そして再びウサギを目にしたとき、こちらがGavagai?といって相手が同意するか否かを確かめるわけだ。ただ、カルナップにおいてはそれが述語として捉えられたのに対し、クワインはそれを観察文という文全体と捉える。そしてそれは突き詰めれば確定することはできないのだ。まず外延の不確定性について、これはGavagaiの指示する範囲が、私たちの言うウサギという分節で用いる範囲のみを指しているのかは確定できない。もしかしたら、ウサギの登場とそれによって草むらが動くことを指しているかもしれない。次に内包について、これも私たちがウサギと意味する分節に一致することは不確定だ。もしかしたら、ウサギと鳥について、どちらも食料だからGavagaiと言っているのかもしれない。このように翻訳が不確定である以上、カルナップが示そうとした解明の正当性も頓挫してしまうことになった。
しかし、ここで不穏な予想が出てくる。クワインの言うように、翻訳行為に不確定性が備わるとすれば、それは日常の言語にも当てはまるのではないか、ということだ。つまり内包が完全に確定することはないにもかかわらず、こうかな?と分析性を仮説することで私たちは生きているのではないかということである。これに対して、クワインはある種の開き直りを行う。確かに、私たちは対象(内包と外延)を確定しようと確認作業をしたところで、それが達成されることはない。それでも、指示が何らかの意味論的な概念であることに変わりはない。よって、その存在を確認作業していく認識の次元と、その認識が存在の認識であることは相互包摂関係にある。重要なのは、そうした認識を離れた存在者などないということだ。この認識に対応するものとして存在者を策定する行為は、本当に正当なのかという問いが成り立つようにも思えるが、クワインはそれを認めない。なぜなら、この問い自体が予め何らかの存在者を策定し、それを疑うということをしているからだ。
こうしたクワインの立場は自然主義・行動主義と言われる。余談だが、こうした存在に対して、例えばGavagaiの指示対象は翻訳に関わるが、「クォークが実在するか」という問いは自然の真理に関わるものだ。物理学の理論が常に刷新されたり動的であったとしても、その時点では不確定であることを意味しない。翻訳の不確定性は、ある言語の項が、別の言語の項で解釈されるかが問題だったが、科学の場合、その科学を超えた別の理論的知識を要請することになる。これこそ、クワインが自然主義によって否定する立場だ。彼にとっても、これまでのラッセルやカルナップなどと同様に、哲学とは科学の一領域であるからだ。(こうした科学知の対象の実在性の議論についてはI.ハッキングなどを各自参照されたし)
次回へ向けて
ここまでがハイデガーと同時代に生きた分析哲学者たちのおおまかな流れだ。次回の検討がスムーズに進むよう、かなりの取捨選択を行って略記したために、取り上げることの出来なかった人物や話題も多く、申し訳ない。
ところで、ハイデガーの解釈学的方途は後期以降鳴りを潜め、むしろ弟子のガダマーにその道を譲った。分析哲学の方も、厳密な言語構築という当初の目的から幾度ものズレを経て、1940年代以降、日常言語学派の台頭を促した。ここまで来ると、カルナップのハイデガー批判で鮮明となった両者の対立は、当人たちの及ばぬところまで波及していったと言える。そこで次回は、トゥーゲントハットに倣いつつ、一旦1920,30年代まで戻ってその尖鋭に立ち返り、批判的検討を行いたい。今のところ以下の四節構成にするつもりだ。
①カルナップの批判は妥当なのか
②解釈学と分析哲学の類似点
③ハイデガーの過ち?単称主義か否か
④トゥーゲントハットの主張、ハイデガーを超えて
どうぞお楽しみに。
参考文献(次回の記事も含む)
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高橋和孝(2017)「カルナップ哲学における「解明」の役割についての考察―カルナップ=クワイン論争を足掛かりとして―」/『科学哲学科学史研究』/京都大学文学部科学哲学科学史研究室(通号11) pp. 45-54
松井隆明(2023)「ウィーン学団の科学的ヒューマニズム : カルナップとノイラートを中心とした、論理実証主義の社会的・政治的コミットメント」/“Contemporary and Applied Philosophy“/応用哲学会(通号14)pp. 116-145
中村正利(2001)「カルナップとクワイン:何が争点だったのか」/『哲学・思想論集』/『哲学・思想論集』編集委員会 編 (通号 26) 筑波大学人文社会科学研究科哲学・思想専攻 pp. 98-118
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佐々木崇(2002)「クワインの存在論の枠組み」/ 『科学哲学 特集 クワインの哲学--回顧と展望』日本科学哲学会 編(通号35-2)pp. 55-68
成瀬尚志(2022)「クワインにおける認識論と存在論の相互包摂」/大阪成蹊大学紀要(通号8)pp. 69-76
山崎諒(2023)「ハイデガー研究における分析哲学の受容史とその舞台裏」/『Heidegger-Forum』/ハイデガー・フォーラム 編(通号17)pp. 62-77
Zabala, Santiago(2008)“The Hermeneutic Nature of Analytic Philosophy ” Columbia Univ Pr
竹尾治一郎(1999)『分析哲学入門』世界思想社
Russell.Bertrand(1905)“On Denoting” 松阪陽一 訳(2013)「表示について」/『言語哲学重要論文集』春秋社 pp. 59-80
高村夏輝(2013)『ラッセルの哲学[1903-1918]センスデータ論の破壊と再生』勁草書房
Wittgenstein.Ludwig (1921)“Logisch-Philosophische Abhandlung” 野矢茂樹 訳 (2003)『論理哲学論考』岩波文庫
Schulz.Watlter(1967)“Wittgenstein--Die Negation der Philosophie” 金子昌弘 訳(1980)『哲学の否定[ヴィトゲンシュタイン]』二玄社
Carnap.Rudolf(1932)“Überwindung der Metaphysik durch Logische Analyse der Sprache” 内田種臣 訳(1977)「言語の論理的分析による形而上学の克服」/『カルナップ哲学論集』pp. 9-33 三水社
Kraft.Victor(1952)“Der Wiener Kreis -Der Ursprung des Neo positivismus Ein Kapital der jüngsten Philosophiegeschichte” 寺中平治 訳(1990)『ウィーン学団 論理実証主義の起源・現代哲学史への一章 付:科学的世界把握--ウィーン学団』勁草書房
Quine.Willard Van Orman (1960)“Word and Object” 大出晃,宮館恵 訳(1984)『ことばと対象』勁草書房
Hacking.Ian (1983)“Representation and Intervening” 渡辺博 訳 (2015)『表現と介入』ちくま学芸文庫
Heidegger.Martin 慣例に従い略記 GA24 溝口兢一,松本長彦,杉野祥一,セヴェリン・ミュラー 訳『現象学の根本諸問題』創文社
〃GA40 岩田靖夫,ハルトムート・ブフナー 訳 『形而上学入門』創文社
荒畑靖宏(2016)「カルナップ、ウィトゲンシュタイン 形而上学的なものをめぐる誤解と理解」/『続・ハイデガー読本』秋富克哉,安部浩,古荘真敬,森一郎 編/法政大学出版局 pp. 287-295