「ぼくのお日さま」を観て、好意について考える【エッセイ】
「ぼくのお日さま」を観た。
映画の表現力を最大限発揮していてとても面白かった。
製作側のこだわってる作品はこちらも観ていて楽しいので好きだ。
しかし上手く咀嚼できない部分もあったので、色々と考えたい。
この作品は常に説明が不足している。これが第一印象だった。
登場人物のセリフがかなり少ない。
その分、演出によってちゃんと見れば理解できるようにはなっている。
しかしそれにしても少ない。おかげで感情がうまく受け取れない部分もあった。
このセリフの少なさは登場人物らの特徴ゆえのシナリオだと思う。
主な登場人物は3人いる。しかし、この3人とも自分から進んで話すようなタイプではない。
その3人がアイススケートを通して距離を縮めていく。
これが作中の大まかな流れになっている。
しかし、最終的に3人は離れ離れになったままでこの作品は終わってしまう。
この主な原因は荒川に対してさくらが嫌悪感を抱いたことにある。
自分はこの嫌悪感が理解できなかった。
荒川はおそらく同性愛者である。
そしてさくらはそのことに気づき、荒川がタクヤに好意を持っていると思い込み嫌悪感を抱いた。
だが、他人が他人を好きであることに嫌悪感など持つだろうか?
例えそれが同性愛だったとしてもだ。
それが自分には理解できなかった。
この作品は現代ではなく、20年くらい前の時代の話になっている。
その背景を踏まえても自分は納得ができなかった。
さくらが荒川のことを異性として好きだったのかは分からない。
中学生だし歳上に異性に舞い上がることはよくあることだ。
ただし、尊敬はしていたと思う。
そうでなければタクヤとアイスダンスのは断っていたはずだ。
このアイスダンスも自分のためを思ってのことだと信じて従っていた。
また、アイスダンスを通してタクヤに対しても好意が生まれたと思う。
これが異性としてなのか、友としてなのかは不明である。
だがラストのシーンを見る限りタクヤと距離を取りたいという感じはしなかった。
では、なぜさくらは嫌悪感を抱いたのか。
荒川は自分のことを見ておらずタクヤに近づくために自分を利用したのではないか。
荒川はタクヤに対して劣情を抱いているのではないか。
と思い込んでしまい「気持ち悪い」という答えに行き着いたのではないだろうか?
では、その荒川は実際どうだったのか?
これは作中で語られている。
タクヤがさくらのことを好きだと思い込んでいたのである。
だからその手助けをしたかった。ただそれだけ。
しかしまぁ正直なところ余計なお世話である。
これは自分が同性愛者にか分からない負い目のようなものがあったのだろう。
作中でもそのようなことを語っていた。
しかし他人を使って禊をするのは違うと個人的に感じた。
では、タクヤはどうだったのか?
確かにさくらに対する好意はあったのだと思う。
しかしそれは異性としてではなく、さくらがアイススケートをする姿に対してだ。
だからこそ我を忘れて見惚れてしまった。
だからこそ近づきたくて一生懸命練習した。
タクヤはアイスホッケーとは異なり、アイススケートに対しては受け身ではなく自分から積極的に取り組んでいた。
誰よりも純粋にアイススケートに向き合っていた。
そして誰よりも楽しんでいたように見えた。
また、自分が恋するアイススケートについて根気強く教えてくれた荒川に対しても尊敬という好意を持っていたに違いない。
この作品は多くの種類の好意が錯綜する作品だと自分は思っている。
それゆえに登場人物間ですれ違いが多発し、ややバッドエンド的な終わり方になっている。
これは同性愛が今ほど理解されていない時代背景だけの問題ではなく、今現在も当たり前のように起きていることである。
相手がどのように考えているかなんて正直わかるはずがない。
それが当たり前だ。
でも、それでも3人は互いに話し合う必要があった。
相手を分かるためではなく、分かろうと歩み寄るために。