自分の"天才"を生きる道①~『バカをつらぬくのだ!バカボンのパパと読む老子・実践編』(本の紹介)
こちらの本は、作家で「道化師」という、なんともユニークな肩書を持つ、ドリアン助川さんという方の著書です。
ドリアンさんは放送作家をしたりバンドをしたり、長野パラリンピックの公式テーマ曲である『旅たちの時~Asian Dream Song~』の作詞をしたり、『あん』という世界中で刊行され映画化もされた小説を書いたり、現在は明治学院大学で教授をしたりと、非常に多彩な活動をされています。
こんなふうに、あふれんばかりの才能がぴかぴかと輝いているドリアンさんですが、その才能が発揮されるまでには、紆余曲折があったようです(詳しくはのちほど)。
『バカをつらぬくのだ!バカボンのパパと読む老子・実践編』は、大昔の中国の賢者・老子が語ったといわれる『道徳経』について、ドリアンさんがその豊かな感性を持って歩んできた"人生という道"に重ねて語るという、最低でも一生に一回は読んでみる価値ある一冊です。
この本は15の章に分けられていて、本当は時間をかけて全部の章について語りたいところですが、それだと本を買って読んだ方が早いですし、本を読んで買ってもらった方が出版業界も著書も支えることになりますのでそういうことはしません。
代わりに、三章、五章、十章、十四章をピックアップしてお伝えすることにしましょう。
なぜその四つの章なのかというと、これらの章をつなげると、「自分の中に秘められた才能を活かしきるための方法」が見えてくると気づいたからです。
この方法を知れば、自分が行きたい進路に進んでいくこともできますし、最終的には「幸せな成功」を手にすることができるでしょう。
そういうことであれば、この知恵はひとりでも多くの人に知ってもらわないといけない!
あなたがこれから読む文章は、そういう気持ちを持って書かれたものです。
では、さっそく見ていきましょう。
(最初にお断りしておきますが、こちらの本にはバカボンのパパはほぼ出てきませんので、そこの点はご承知おきくださいネ)
世界に苦しみが生まれるとき
私たちが生きているこの世界――宇宙といってもいいでしょう――は、対立する物事によって成り立っています。
対立と言うと敵対してぶつかり合っている様子を想像する方もいるかもしれませんが、そうではありません。
ここでいう対立というのは、例えば、男がいれば女がいて、活動する昼があれば休息する夜があって、暑い夏があれば寒い冬がある、というようなことです。
これは本来、どちらが良いとか悪いとかいう問題ではありません。
やっぱり男女の恋愛はお互いの存在があってこそ楽しいものですし、いくら仕事や遊びが好きだからといってもずっと昼ばっかりだと疲れてしまいます。
でも、活動した昼の時間があるからこそ夜のビールはおいしいのだし、夏は暑いからこそ31のアイスクリームやかき氷などの冷たいものがおいしいのです。
このように、対立する物事は、互いが互いに影響しあうことによって共存しています。
むしろ、対立する物事同士が反対の性質を持っているからこそ、お互いの性質をより際立たせているとも言えるかもしれません。
そういう意味では、私たちが生きている対立の世界というのは、互いが互いの良いところに拍手を送っているような、優しい世界なんですね。
しかし、この世界はありのままの姿であれば優しいのに、人間が余計な手を加えることで、そこが苦しい世界に変わってしまうんです。
ここでひとつ例を出します。
ある小学校では、いっぱい食べる子が人気者になれるとします。
だから、もともと食べられる子はいっぱい食べます。たくさん食べても苦しくなく、むしろいっぱい食べることが喜びだからです。
彼らは、そのような自分自身の中にあるナチュラルな性質を出していけば、勝手に人気者になっていくことができます。
でも、小食の子はどんなにがんばってもこの学校で注目してもらうことができません。無理して食べてもせいぜい中くらいですし、もともと小食な子はいっぱい食べて人気者になっている子をみて、「なんで自分は食べられないんだろう」と心がしぼんでしまいます。
また「ボクのクラスには、いっぱいたべるひとしかいません。げぷ」というクラスがあるとしましょう。
たしかにみんな最低2回はご飯をおかわりするので、お茶碗1杯分しか食べない子に比べれば「いっぱい」食べていることになりますが、それでも6回おかわりする子もいれば3回おかわりをする子もいるわけでして、6回の子は「いっぱいの中のいっぱい」、3回の子は「いっぱいの中のちょっと」となるわけです。
そしてやっぱりこの学校では、「いっぱい食べるクラス」といえども、いっぱいおかわりする子の方が人気があったりするのです。
200ミリリットルの牛乳を5秒で飲み干せると豪語して憚らないだいきくんは、クラス最速の名をほしいままにしていましたが、2秒で飲み干せるイギリスからの転校生のレイチェルさんと出会えばショックを受けてしまいます。
あのときはうちのクラスの誰もがショックを受けてました。懐かしい・・。
これは子どもの世界の、しかもフィクション(一部実話です)の話ですが、本質を取り出してみれば大人の世界も同じことに気づきます。
花の色はうつりにけりないたづらに
その本質とは、いったい何でしょうか?
それは、この世界ではあらゆる人が「比較」にさらされている、ということです。
比較するというのは優劣をつけることです。人間がつくった社会ではこの「比較」が常に行われていて、互いが互いに優劣をつけあっています。
そこに、苦しみが生まれる根本的な原因があります。
小学校から大学に至るまで「優」の評価を受け続けてきた人は、そのまま高い自己肯定感を持ったまま社会に出ていくことができます。
これは勉強の成績に限ったことではありません。顔が「優」であれば大人になってから異性のパートナーにもそれほど困りませんし、スポーツが「優」であればクラスの中でも一目置かれます。
そういう人は、幸せな人生を送るためにとても重要な要素の「自信」を持っています。
自信がある人は、自信のない人に比べると、就活や仕事、恋愛でもなんでも成功しやすい。
でも、小学生から大学に至るまで、「劣」の評価を受け続けてきた人はどうでしょう。
顔が「劣」である。勉強が「劣」である。スポーツが「劣」である。
あるいは、学校というある種の異様な空間に馴染む能力が「劣」であるとか、身体の面で何かしら特殊な事情を抱えていることで、自ら「劣」というレッテルを張ってしまったり。
そういう人は、将来にわたって感情的に苦しんだり、就活や恋愛の面でも自信が持てずに苦労したりするのです。
これが比較をすることによって生まれる苦しい世界です。
でも、世界が苦しい場所になってしまうのは、「劣」の評価をされてきた人であって、「優」の評価を受けた人は幸せなんじゃない?「劣」の人が苦しむのは、自己責任じゃない?と思う人もいるかもしれませんが、それはちょっと違います。
学校という場所はかなり特殊な環境で、言ってみれば「変わった場所」です。
一方で社会というのはある種まっとうな場所でもあるので、その人の実力がなければそれが結果としてわかるようになっています。
学校でずうっと「優」の評価を受けてきた人も、学校を卒業して社会に出れば、入った会社で自分の能力がまったく通用しなくて「劣」の烙印を押され、それが人生初の挫折だった、なんてことはよくあります。
社会で通用するのは、"学校で「優」を取った人"ではなく、"社会で通用する実力を積みあげてきた人"だからです。
学校で評価される力と社会で評価される力は、必ずしも重なっていないのです(もちろん、学校も先生も変わろうとがんばっています)。
また、見た目の面で「優」の評価を受けていた人は、実力がそれなりでも社会で優遇されることがあります。
もちろんその人たちは「見た目」という武器を使って社会に貢献しているということもできるので、それが一概に悪いことだとは言いませんし、そういった人は見た目を磨く努力もしていることでしょう。それは素晴らしいことです。
ただ、イケメンとか美人とか言われていた人も、年齢を重ねて見た目が若いときに比べて衰えてくると、自ら「劣」と判断して落ち込んだりすることがありますから、優の評価も簡単に劣に変わってしまう、ということがわかると思います。
結局、どんな人も比較にさらされていて、社会にいる限りそのことから逃げることはできないのです。
そして、世の中の多くの人は、こういった状況をこそ「人生だ」と思っているので、「人生は苦しいもの」だと思い込んでしまいます。
でも、それって本当なんでしょうか?
狭い尺度から解き放たれたときに見えてくるもの
この章の冒頭でもお伝えしたように、この世界はあらゆる対立するものが共存することで成り立っています。
ひとことでいえば「お蔭様」なのです。
ならば、なぜ「優劣」が生まれてしまうのでしょうか?
それは、人間が「尺度」を決めているからです。
例えば、小学校で評価されることといえば、せいぜい「勉強」「スポーツ」そして「見た目」の3種類。そこは極めて狭く偏った尺度の中で優劣をつけられる世界です。
小学校では、顔がよければ多少勉強ができなくても「優」の側になれます。でも、小学校生活で見せる機会がない才能・・・例えば自分でボーカロイドを使って素敵な曲を作曲しているなど・・・を持っていても、顔があんまりよくなくてコミュニケーションがあまり得意でなければその子は「劣」の評価になってしまうのです。
親も評価基準が凝り固まっているので、「この子は勉強もしないでパソコンばっかりやって・・・」と心配します。その心配の波動は子どもに伝わります。
その子が自分の作曲に絶対的な自信を持っていればまだよいですが、そうでなければその子の自信は徐々に奪われてしまいます。
世界を成り立たせている原理から言えば、こんな尺度は意味がありません。幸せになるために、使えない物差しなど捨ててしまっていいんです。
こういう狭い尺度を取っ払うと見えてくるものがあります。
それは、その人の中にある"特質"です。
人には必ず、その人が生まれながらに備えている"特質"があると気づくことができるはずです。
この世界の対立は、むしろそういった自分の中の特質を見つけるためにあります。
だから、自分と何かを比べて劣等感を持たなくてもいいんです。
何にも心配しなくても、あなたにはあなたの素晴らしさがあるんです。
この特質が、あなたの中の「天才」です。
もしあなたが、「自分にはそんなものない」と思い込んでいるのなら、それは視野が狭いと言わざるを得ません。
視野が狭いと言っても、あなたが悪いのではないのですよ。親や先生に言われた言葉とか、学校でのクラスメイトの視線とか、生きてきた環境によって視野が狭くなってしまうということはありますので、そのことであなたが自信を失う必要はありません。
でも、親や先生はあなたの視野を狭めてしまったからと言って特に代わりに何かしてくれるわけではありませんね。だから大人になったら自分の責任で視野を広げていかないといけないのです。
本当は教育がそういうものになっていればよいのですが、現状そうなっていないので仕方ありません。
自分でやるしかないのです。
でも、自分でやるのが楽しいのです。
"比較"の世界にきらめく完璧さ
さて、「自分の中の天才」ってどういうことなんでしょうか?
それは例えば、「彼はあんまり仕事は得意ではないかもしれないけど、なぜか彼がいるとみんなの気分が安らぐ、彼はそういうところがあるよね」といったことです。
もしくは、「彼女は馬肉についてはやたらと豊かな語彙で熱く語るよね」とか。
そういうところに、「天才」は存在します。
だから人間が狭い視野でつくった尺度はいったん置いといていいのです。
それよりも、自分がありのままで発揮しているステキなところを探すことの方が先です。
世間に合わせていくのはそれがわかってからで十分です。
"Made In 人間"の尺度を捨てれば、さらなるオマケもついてきます。
それは、世界の「価値」が見えてくるということです。
冬の間に葉っぱを落とした桜の木は、花を満開に咲かせていないからといって価値がないのでしょうか。
そう思う人は、物事が見えていない人です。
花がない状態でも、花が散った後でも、桜は桜。そのサイクルがあるのが桜の本性なので、桜はそのままで完璧です。
それに、桜は梅の方が早く満開に咲くからといって梅に劣等感を抱いたり、梅に追いつこうとして早く咲こうとしません。
桜には桜の都合があり、梅には梅の都合があるのです。
そして人間は、その両方を楽しむことが出来ます。
満開の梅を見つつ、その向こうにある桜が春に向けて咲き誇る準備をしていることを楽しむ。
人間もまた、能力が花開いた人を楽しみつつ、これから花開くであろう自分をも楽しむことができます。
これが、狭い尺度を捨てた人間の自由な見方です。
他にも、京都みたいな日本の古都の街並みもすばらしいけど、アメリカから入ってきたマクドナルドもすばらしいよね、とか。
でも、経済性を尺度にしたときに、「この小さいお寺よりはマクドナルドの方がいい」となったら日本の文化と伝統はどこに行くの?ということになってしまいますし、逆に全部が京都みたいになってもそれはそれで重苦しいというか、「もうお寺は行き尽くしたけど、どこで遊ぼうか?」ということになってしまうわけです。
マクドナルドのようないかにも現代的なものがあるから、1000年以上昔から続くお寺の庭園など、古いものの良さも一層際立ってくるのです。
人間関係もそれと同じと考えてみてください。
彼はこういうところがすごいけど、私はここがすごい!
これが「多様性を認める」ということです。
むしろ、これは多様性を「楽しむ」といってもいい。
だから、自分がどのような状況にあろうと、今の自分はその状況にあることが完璧なんだと思ってください。
老子の『道徳経』で言うところの「道(タオ)」は、比較の世界を超えた「絶対」の存在であり、相対的なこの世界にあるあらゆるものを創造しています。
この「道(タオ)」が私たちの命の根本であり、宇宙のあらゆる存在の母です。
「道(タオ)」は決して何物も否定しません。
ただあらゆるものの中にいて、静かに見ているだけです。
もちろん、「道(タオ)」はあなたの中にもあります。
だからあなたは完璧なのです。
私たちが自分の「天才」を生きるには、まずこれが前提となります。
わかりましたか?
そのうえで、自分の天才を満開に開花させていくには、どうしたらよいのかを考えていきましょう。
・・・
次章に続く。