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デストラーデ高校山口のぼるの魅力について考えよう

なぜぼくはあんなにすでに連載が終わってた魁クロマティを必死になって中古屋で集めてたんだろう。なぜあそこまで笑えたのだろうと思ったのだが……それは山口がいたからだということに気がついた。

どう考えても野中英次の漫画とは劇画調で劇画ぽくないことばかりするというギャップで受けようとしているもので、いっちゃ悪いが現代のなんでもカテゴライズする風潮からすればワンパターンにカウントされてしまうのだろう。ぼくもそう思う。偏差値の低い学校に神山が来る。いかれた見た目の林田がただの猿すぎる。鳴り物入りの北斗がなめられすぎる。クソ強そうな竹野内が乗り物に酔う。学校なのにフレディ・マーキュリーがいる。学校なのにメカ沢がいる。声が若本規夫である。学校なのにゴリラがいる。枚挙に暇がない。

そのギャップ狙いで最初の弾頭となった神山だったが狂言回しの役回りを背負い、次第に狂言回しだけの役割になり、全く真面目じゃなくなっていく。1番のどうかしてる男に成り下がっていく。林田とか前田はあまり変わらない気がする。林田はいわゆるサザヱのように場に応じて作者の都合のいいように思想を書き換えられるキャラクタであるように思う。

ぼくは全くこういうキャラクタを好きにはなれないが、哀れだとは思っている。この前もなんかで言ったかもしれないがサザヱのように脚本が無数にいるような話だと、上位脚本様の都合に振り回され、その尊厳を破壊されて都合のいい性格に都度書き換えられてしまうのだろう。この女が何度鰹に勝手な自己都合の勘違いでクソみてえな言いがかりをつけたか世の中の連中は記憶しているのか?それに気づいた時にもうぼくはこの国民的アヌメを見る価値がないことにも気づいてしまった。

ぼくはこういうキャラクタを尊厳破壊キャラクタと呼んでい、別に同情はせん。このようにキャラクタが視聴者側でなく作者都合で「消費」される物語になんて価値がないわけだ。よくキャラクタが勝手に動いてしまい、こういう話にする予定がならなかったという話をきくが、それとまさに対極にある事象だろう。

勝手に動くキャラクタに作者は愛着を持っていると言いますか、その尊厳を非常に尊重していると捉えられる。「勝手に動くこと」を最大限尊重するから勝手に動き、作者都合の展開になどさせない。そのキャラクタが別に作者都合の話の進みとコンセンサスがとれたのであれば、ようやくそのような話になるわけだ。だったらキラがもう少しワイミーズハウスの連中をぶっ殺し、ジョバンニだかジェバンニだかが異様な不可解な都合のいいコピー能力を使うこともなかった。まさしくこのジョジェバンニにこそ、作者の自己都合もしくは集英社のジャンプという媒体でいつまでも悪が栄えるのはまずいという忖度が顕現しているといえるのではあるまいか。尊厳破壊キャラクタなわけだ。ジョジェバンニは。

そう考えると結局山口もそのばその場に的確な突っ突きを加えるためだけにいるキャラクタだと理解されようものだが、ぼくはなぜかそこに一筋の光を感じたわけだ。それについて話そうと思ったがすでにこの文のカロリーが既定値に達してしまったがために明日以降に話すしかない。

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中村風景
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