ベルベット・バズソー 血塗られたギャラリー のかんそう
どんな映画にも教訓がある。逆に言えば、教訓が得られない映画などないのだ。ヘッダ画像をお借りしています。
例えばろくでもない時間の無駄だったと思える映画を全部見てしまったとしましょう。しかしながら、じゃあ次からはそんな映画見ないようにしようという教えがそこには紛れもなくある。
教訓を得て解決に導くために、問題をあえて矮小化するのであれば、次から当該ジャンルを観なければいい。もちろんそんな簡単なことじゃないとは思いますけど
そんなようなことをベルベット・バズソー 血塗られたギャラリーを見たら思った。斯様なポジティブな理由ではないために、noteのキャンペーンかなにかは知りませんがおすすめ映画的なタグがつけられないのが悔しい限りである。
物事の反証として、つまりぼくと同じような教訓を抱いてくれ、という理由で当該タグをつけられないこともない気がするが、今はそこまでひねくれた気分ではない。もっともベルベット・バズソー 血塗られたギャラリーに対してそこまでネガティブな思いを抱いているわけでもないため、このような形にとどめてはいるがぼくは本来ひねくれの塊であると思うので、そうならない自分に驚いている。この静謐な時間がそうさせるのだろうか。
端的に言ってベルベット・バズソー 血塗られたギャラリーの教訓は、序盤の限りなく異世界のように見える前衛アート売りさばき商人どもの下卑た私生活を知れたことに尽きる。
発表媒体としての映画は造るのが異常に難しいジャンルであるということはある程度生きていれば理解できるはずだ。客に1食以上の金を払わせて納得させるために、説得力が妥協されるなんてことは許されない。だから時代考証だの文化考証だの七面倒くせえことは隅から隅までやらせられることになる。だからこの序盤における商人たちの描写はおそらく限りなく現実に近いのだろう。
主人公もウケる。これは名前がモーフというおもしろがあるためであり、日本語を母語とする者にしか理解できないかもしれず、製作者たちの意図とは全く関係ないところにある。毛布て
そこらへんにいくらでもいるような肉食獣の男のような髪型でなく気取っているのか気にしてないのかわからん眼鏡をかけ(しつこいまでに美に対する執着がある描写が頻繁に起こるため、もちろん圧倒的に美を追求した結果そのような髪型、いでたちを自分で選んでしているのは確定しているが)、柴田英嗣と土屋を混ぜたようなまるでサブカルの覇者みてえな出で立ちをしておきながら筋骨隆々ですらっとしていてたくましく(そりゃそういう演者をあてがおうとしたのだろうからそうもなるだろう)、女をとっかえひっかえしておきながらバイセクシュアルな描写まであるまさに舞台である下卑た商人たちの世界観に適したような主役がモーフだ。
モーフをコケにしていたら規定の時間になってしまったので続きはまた以降です。よい1日を