No Sorry, ONE TEAM
レイクビューテラスを見終わった。パルプ・フィクションやその他いろんな映画で鬼かっこよかったサミュエルエルジャクソンがどんどんオワっていくぶっ壊れていく話だった。
パルプ・フィクションでのジュールズは何度も言ってるが相対評価にすぎないとぼくは思っている。偉そうなものいいで悪いとは思っている。
だが、ほかがアホすぎる。雑魚すぎる。ただボスとブルース・ウィリスはもらい事故と言わないといくらなんでも可哀想かも知れないが……ビンセントはださよわ過ぎる。トイレに行くたんびに望まない事件が起こって解決に関わってるかどうかわからん。しかもその中の1個で絶命する。
ジュールズはそのような中で少なからず自分の方針を貫き通した男だ。だがあくまで結果的には。ジュールズ程度ぐらいの自己実現が最高ランクに来てしまうような情けない連中の風体を集めた映画だから二束三文物語という題名なんだよ、と監督がいいたいのであればそうなるだろう。
ジュールズは自分の信念からマフィアの殺し屋という世間から後ろ指刺されまくりのクソ職業にも自信を持ってやるしかないとは思っているが、そりゃ人殺しなんていうクソ情けないことを業の務にするなんて許されるわけがない。だから聖書という誰もがひれ伏す卑怯な後ろ盾を持ち出して自分のぶっ殺し行為を正当化し始めた。
そのように罪悪感をあけっぴろげにしながら人を殺し続けてたら、まさに神に許されたかのような一瞬を得てしまったので人殺しなんてやめようと思う。自分と同じように人殺しをして生きていこうとしたバカとアホに人の道を説く。その後ジュールズがどうなったかは割とマジでわからん。ビンセントがしっかりと正装に着替え、1人で星を張り、1人で死んでいったということはこの時点でマフィアを抜けてしまったのか。つまりこの時点でチームではなくなってしまった。ジュールズは1人で生きていった。あの牙が取れていないボスをどう説得したのだろうか?
このようにジュールズはまともな人の道に向かったはずなのだが、同じ演技者がレイクビューテラスでどこまでも正しい人の道から足を踏み外し、破滅していく情けなさ過ぎる男を演じているあたりに恐ろしい皮肉が感じられる。
レイクビューテラスは日本でのオンエアがなかったからか、さっぱり感想が書かれていないというのがぼくの所感である。
こと2009年あたりというのはまさにSNS以降前夜と言えるだろうか?それはつまり携帯電話がスマートフォンに切り替わる寸前であったことも示している。スマートフォンやSNS以外の最新家電はなんでも揃ってる。だがそれを狙った映画じゃなく、当時としてはそのような最新事情がことごとく書き込まれた話だった。最新の防犯システム、通報機、ある一定のラインは越えた富裕層の話でもある。
最新型の携帯やSNSがなくて隣人がサイコパスだったらどうなっちまうのか?をウィル・スミスは書きたかったのだろうか。いや、いま言ったように結果的にそうなっただけで、当時の価値観で単にそれを純粋に書こうとしただけだ。
日本の視聴者たちの意見は真っ二つといいますか、それぞれ温度差が違いまくると思った。残された子供を思う人、とにかくサミュエルの異常性が怖すぎる人、人種差別がしたいのか方向性がいろいろでわけわからん人、山火事がどんどん近づいていることが話しの進みとリンクしてると思った人、全体的にそこまでどうかしてる意見は多分……見当たらなかった気がする。
トレーニングデイでも思った(デンゼルじゃなくイーサンホークが主役だろと)が悪役が著名人だと主人公扱いがそっちになってしまうアメリカの凡例をなんとかしてほしいのだが、話の内容ばれに関わるからだめなのか。今回はあのアフロ崩れの胡散臭いと思われた白人が実は主人公だったが、サミュエルが主人公扱いだった。アフロ崩れの白人についてそこまで心情が掘り下げられない。ピルを飲まない妻は割と罵倒される対象だとは思うが、まだガキを作りたくない理由は現地でUWAKIとかをしているからなんだろうか、と、妻への愛がよくわからんかった。
サミュエルに思い入れするように作りながら、だんだんそんなことできるわけねえだろになっていき、じゃあ誰に感情移入する?となってアフロ彼しかいないはずなんだが、そのへんがどうしましょ的な感じだった……乱交DVDを奥に送りつけるシーンのあたりがそれの最たるものか?すでに何がしたいねんぐらいの勢いだった。