自然と笑顔になる映画幸せへのまわり道について
素晴らしい映画を見た時、ぼくはなにかその「こうやってまともな生き物になるのだ」「まともな生き物とはこういうものだ」という教科書を読まされたような気持ちになります。
これが「素晴らしい『とされる』映画」だとそうは行かない。内容のばらしなしで、自分で見つけることに何かしらの意味があるのだ。と普段から登場役者とかハッピーエンドかそうではないか程度でも内容ばれだと判定してやまないぼくは思う。
それどころか、上記のように「世間から一定の評価を受けているか否か」すらも情報としてシャットアウトしたい。なぜならば、主役の進む人生の雲行きが非常に危うくなった場合でも、事前にその映画の評価が異様に高い場合「なーんだこの後……助かるんですのね」と冷めてしまうからです。
とはいえストックホルム症候群のように、その場(つまり映画を見ているという状況に対して)になんとか同調しようという心的作用が働き、「いや、普通の人生だったらそんなことはない、いくら評判が良いからってここからとんでもないラッキーが起こるわけではなく、なにかビターエンドとなるから、世間の大人たちは『こういうの好きだって言っとけばかっこいいから』程度の理由でこの映画に対する評価が爆上がりしているだけだから、ぼくが今思っているようなことなんて起きないだろう」と思い込みながら見る。
ぼくは2つの映画を見て、どちらにもトム・ハンクスが出ていました。順番としては先に幸せへのまわり道(A BEAUTIFUL DAY IN THE NEIGHBORHOOD)を観て、ハドソン川の奇跡を後に見た。ハドソン川の奇跡を撮ったのがクリント・イーストウッドであったとはエンドロールで初めて知った始末である。
ぼくは映画を演技する人で選びたくないという理論も持っている。それはファブルの感想にも書きました。
だからトム・ハンクスを連続で見ることに対しても賭けとしてはでかい張りだった。とはいえ、モーガン・フリーマンのような例外もあったりします。こと黒人で演技する人の映画については制限が緩む傾向がある。ぼくにも理由がさっぱりわからない。
ただウィル・スミスとかエディー・マーフィーみたいな超王道な人々を連続で見たら流石に疲れてしまうように思える。過去にも何度も書いているが、モーガン・フリーマンのちょうど良さがぼくには上手く説明できない。
上記2つの映画を見たぼくは、どちらにも感銘を受けました。結果的に言えば何の期待もしていなかった幸せへのまわり道に、信じられないほどの感動を覚えた。見終わりそうになるにつれて、自分が自然と笑顔になっていることに気がついた(←これレベルの表現もぼくにとってはねたばれです)。
トム・ハンクスの役柄が主役なのかなんなのかはわからないが、他ではみないような性格をしていたことも大きかった。これについてはまた後日にお話したい。
映画が良いものですね、みたいなことを知った口聞けるほど人生歩んでないので言えませんが、そう言っていた淀川長治の気持ちが少しわかった気がした。