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これでもそれでもない

どんでんがあれっつってたことについて以前も言及したけど、その意味とかを研究した人がいたらしく読んだら感化されたので、それをなんとか思い出しながら自分の考えを書こうかと
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とりわけ指示語とは多様にあるにも関わらず、あれを選んだ理由とはなんなのだろうか。それはこれそれどれが適さなかったためである。別にあれじゃなくても良いような気がするが、まともに日本語教育を受けた土壌があるのであれば、常識として必然としてあれを選びうるのだろう。

なぜあれ以外じゃだめなのかケース別に考えよう。

それ:優勝したいんや、という言い方が「それが近い」とかになる。それでも別にええやんか、とはならないのだろうか。不思議だ

これ:優勝をこれと言い換える。「これが近い」。「これ……狙っていきまっか」。これだと範囲が狭すぎていきなり言っても発話相手に気づかれない可能性もあるのかなと

どれ:あれしたいんや、に比べてどれしたいんや、だとそもそも日本語が崩壊してしまうのでどれは消極的に消されてしまう……のか?

こう考えると、あっちの方が近いでっせみたいなことをどんでんは言わなかったのだろうか。あっちというと性風俗の香りがするから自粛したのだろうか。

総合的に見ると、あれという単語がイコール「近くにはないもの」という見方ができようことに気づく。手が届かないものとは他に何があるだろうか?神的存在とか?憧れのタレントとかがそうだろうか?

かつてスピッツも歌っていたが……1995年リリースのはちみつというARUBAMUにグラスホッパーという歌があります。

そのコーラス部分では「明日はきっとあれに届いてる」と言い、あれがなんなのかははっきりしない。自分がグラスホッパーであり、飛んでいればいつか届くだろうと。今は届かないのだろう。努力のようなものが実を結ぶことをグラスホッパーという立場を通して出力しているのだろうか。

憧れの対象はあれと言わなければいけない、というような日本人の美意識を感じる。好きな人をあれ扱いするのを嫌気する人もいそうだが、これというよりはましなような……気がする。好きな人をそれ、というのも何か末恐ろしい物を感じる……ような

そうなると優勝みたいな物証に対しては何だか知らんが尊いとかあこがれの対象として崇高な位置におかねばならないみたいな国民性が自動的に働いている様が感じられるのだがこれは気のせいか。他国の人も、そのような存在について「神格化」みたいな宗教体験の一種みたいに落とし込んでしまったりするのだろうか。

そりゃ優勝とは……簡単にできるものではないが……神格化まで行ってしまうとそれはそれでやりすぎなような気がする。優勝のことをこれと言った場合、優勝が手元にあるなんて生意気だ、とか言ってきそうな層がいる気がする。

だけど今のどんでんには優勝のことをこれという権利があるのだ。


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中村風景
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