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ローゼンNIRVANA

この前真紅の生きることって戦うってことでしょを引用して、生きることってゲームすることでしょ=勝ち負け=戦うみたいに表現したことがあった。ヘッダ画像をお借りしています。


生きることは戦うこと

「ローゼンメイデン」という漫画の中で、「生きることって戦うことでしょ」と人形が人間を驚かせるシーンがある。印象に残っているのはその言葉が真実の一端を突いているからかもしれない。

生きることは確かに戦いか。毎日の生活、職的な業、人間関係、自己実現─────これらは全て自分との戦いであり、他者との戦いである。

ただぼくが好きだったのは戦いのシーンではなく、日常の中での一コマである。これは作者の意図なのか、それともぼく自身の感受性の問題なのか。ここで「NIRVANA」というグループの話に移りたい。NIRVANAは、ボーカルのカート・コバーンの自死によって終焉を迎えた。

彼らの歌は今でも多くの人に愛されカート・コバーンは(たぶん)崇拝されている。その理由の一つは自死という形で生を終えたことにあるのだろう。死とは、「そこに留められてしまう」ことであり、固定されるものである。生と死は明確に分断されており、死は永遠に同じメッセージを発し続ける装置となる。生者がその死をどう受け取るか、美化するかは、生者の勝手である。

戦いの科学的根拠

生物学的観点から見ると生きることは自然選択という形での戦いである。

チャールズ・ダーウィンの進化論によれば生物は生存競争の中で最も適応した者が生き残る。適者生存とも呼ばれ、生命の根底にある生存戦略らしい。Wonder Ladder

例えば動物は食物を得るために戦い、繁殖の機会を得るために戦う。人間もまた社会的な成功や幸福を追求するために、無意識のうちに戦いを続けている。

チャールズ・ダーウィンが提唱した自然選択説において、生物は環境に適応するために常に戦っている。生存するために必要な資源は限られており、それを巡って競争が繰り広げられる。人間もまた生き残るために日々戦っているのである。

戦いのゲーム理論

ゲーム理論でも同様の考え方が存在する。ジョン・ナッシュが提唱した「ナッシュ均衡」は、競争状態において全てのプレイヤーが最適な戦略を選択した時に生じる均衡状態を示している。

ここでの「戦い」は、経済的な取引や政治的な駆け引きなど広範な分野で適用される。つまり日常生活のあらゆる場面で、人は戦略を駆使して「戦い」を繰り広げていると言える。

よく起きてから無数に選択してるって偉そうに(?)いうけど、選択っていうより生きるための手段をその都度とってるだけじゃね?と

ミルクティと融合の象徴

「ローゼンメイデン」の中には、真紅が紅茶と牛乳を混ぜてミルクティを作るシーンもある。

このシーンでは紅茶の赤と牛乳の白が混ざり合う様子が描かれている。この融合は、対立する二つのものが一つになることを象徴している。

紅茶と牛乳が混ざり合う様子は、美しさと調和を象徴しているように見える。白と赤が混ざり合うことで、新しい色、新しい味が生まれる。

このシーンは、異なるものが共存し、新しいものを生み出すというテーマを象徴しているのかもしれない。異なる文化や価値観が交じり合い、新しいアイデアや価値を生み出す様子を連想させる。

グローバル化が進む現代社会においても重要なテーマである。異なるバックグラウンドを持つ人々が協力し、新しい価値を創造することが求められている。

科学的な融合の例

化学反応における融合は、異なる物質が結合して新しい物質を形成する過程だ。

例えば、水素と酸素が結びついて水を作る。このような場合あらたな特性を持つ物質を生み出し、それぞれの成分の特徴を一部残しながらも、新しい全体として機能する。

社会的融合の意義

社会においても異なる文化や価値観が融合することで新しい社会システムや文化が生まれる。

多文化共生社会では異なる背景を持つ人々が共に生活し、互いの違いを尊重し合いながら新しいコミュニティを形成する。

このプロセスは、真紅のミルクティのように、異なる要素が調和して一つの新しい価値を生み出すものだ。

NIRVANAと死の固定性

カート・コバーンの死と崇拝

NIRVANAというグループのボーカルであるカート・コバーンが自死したことで、その人気は一種の崇拝の対象となった。

死が「そこに留められてしまう」ことであり、固定された状態だからこそ生じる現象だ。

死の固定性と心理学

心理学的には、死は一つの固定された状態として認識される。

人間は未知や不可逆なものに対して強い興味を持ち、神秘化する傾向がある。

エリザベス・キューブラー=ロスの「死の受容の五段階モデル」では、死は否認、怒り、交渉、抑鬱、受容という過程を経て認識されるが、特に若い年齢での突然の死はその過程を短絡させ、神話化されやすい。

カート・コバーンが戦っていたのかどうかは定かではないが、歌には苦悩や葛藤が表現されていた。彼が生きていた時のメッセージは死後も変わらずに残り続ける。

それは彼のファンにとって一種の美化された象徴となっている。真紅が戦っていた漫画の中の世界もまた、作者によって固定された過去の出来事を読者が現在進行形で体験するものである。漫画も一種の死の表現であり、固定された物語を読者が美化して受け取ることがある。

ここで、漫画と実際の生き物の死を同質化することの危険性について考えたい。漫画はフィクションであり、作者の意図によって物語が展開される。読者はその物語を自分の中で補完し、エンディングの後に続くストーリーを想像する。しかし実際の生き物の死はそれとは異なる。

死は絶対的なものであり、そこに補完や想像の余地はない。生者が死をどう受け取るかは個人の自由であるが、それを美化しすぎることには注意が必要だ。死を美化することで生の価値を軽んじることになりかねない。

文化における死の美化

多くの文化において、死はしばしば美化される。

例えば、日本の「美しい死」の概念や、西洋の「死のロマン化」は、死を一種の理想状態や究極の芸術と捉える傾向がある。

これは生者が死を美化し、自分たちの生きる意味や価値を再確認するための手段と言える。

カート・コバーンのような人物が死後に崇拝される現象は、他の多くの著名人にも見られる。

例えば、エルヴィス・プレスリーやマリリン・モンローなども同様に、彼らの死後にその人気が高まった。これは人間が死を神秘的で特別なものとして捉え、その人物の人生やメッセージを美化する傾向があるためだろう。死後に残された作品やメッセージは、その人物が生きていた時よりも純粋で重要なものとして受け取られることが多い。

科学的な視点からも考えてみよう。人間の脳は、感情や記憶に強く結びついた出来事をより鮮明に記憶する傾向がある。これは進化の過程で危険を回避し、生存するための重要なメカニズムだと考えられている。悲しみや喪失感は強烈な感情であり、それが記憶に深く刻まれるのは自然なことだ。

漫画と死の美化

漫画もまた一種の固定された物語であり、そこに描かれる死は永遠にそのままの形で残る。

真紅の戦いも物語の中で固定された状態であり、読者はそれを通じて死や戦いの意味を再確認する。

といいますか漫画自体が死のメタファーだと最近思い始めてきた。とんでもないみずみずしい物語がそこには書かれてるが、実は紙とインクでしかないですよね。いわば死んだ木と植物が横たわっているだけだ。悲しいな

漫画の固定性と視聴者の解釈

漫画は一度描かれた物語が永遠にその形を保つ媒体だ。

視聴者がその物語を自由に解釈し、再構築する余地を残している。

例えば真紅の戦いやその言葉は、読者によって様々な理解がなされる。

漫画の中の死や戦いは、個々の読者によって異なる意味を持つことになる。

死と漫画の内包関係

さっきも言ったように、漫画と死の関係は固定された物語が死の一面を映し出しているという点で類似している。

物語のキャラクターが経験する死や戦いは、読者にとっては固定された過去の出来事であり、その理解が未来にわたって影響を及ぼす。カートってすげえな、と

美化の危険性とその克服

美化のリスク

一方で死や戦いの美化には危険性がある。実際の生と死の本質を誤解させる可能性があるためだ。

カート・コバーンの死や真紅の戦いを美化することで、若者が自殺や暴力をロマンティックに捉える危険性がある。

自分の死と誰かの死を切り分けるのはクソ難しい。ぼくはカートが死んで悲しいというよりか、過去のMVで一心不乱に叩いてるデイブに感情移入してしまう。この後のデイブを思うと冗談抜きで悲しくなってしまう。別にカートより優先順位高いとかいうわけじゃなくて、フーファイも聴いてるからだと思います。

青少年への影響

人は感受性が高く影響を受けやすい。死や戦いを美化するコンテンツに触れることで現実の困難から逃避し、極端な行動を取るリスクがある。メディアリテラシーの重要性を示している。

実際の生と死の認識

実際の生と死は漫画や音楽で描かれるものとは異なる。

生は動的であり常に変化し続ける過程だ。

一方、死は静的であり変化しない固定された状態だ。

この違いを正しく認識することで、美化のリスクを軽減できる。

美化とリアリズムのバランス

芸術やメディアは現実を美化することで人々に希望や夢を与える一方で、現実の厳しさを伝える役割も持っている。あんま持ってると思わないけど持ってたほうが良いんだろうなと

このように美化とリアリズムのバランスを取ることが重要だ。

このバランスを取ることで、視聴者が現実と理想の間で健全な理解を持つことができる。

メディアの責任

メディアは視聴者に対して影響力を持っている。

そのため死や戦いを描く際にはその影響を考慮し、バランスの取れた表現を心がける必要がある。社会全体の健全性を保つためにも重要だ。

視聴者のメディアリテラシー

視聴者自身もメディアの表現を批判的に受け止める能力を養うことが必要だ。

メディアリテラシーを高めることで現実と虚構を区別し、正しい判断を下すことができるようになる。

ローゼンメイデンとNIRVANAの共通点

戦いと歌のメッセージ

ローゼンメイデンの戦いやNIRVANAの唄には共通するメッセージがある。

個人の内面の葛藤や社会との対立を描くことで、人々に自分自身を見つめ直すきっかけを与えるということだ。

内面の葛藤と表現

内面の葛藤は多くの人が経験するものであり、これを芸や歌で表現することで共感を呼ぶ。

カート・コバーンの歌詞には、自己嫌悪や社会への反発が込められており、ぼくらの上の世代とされる多くの若者が共感したはず。

一方、真紅の戦いもまた自己の存在意義を求める葛藤を描いている。アニメ版をそこまで考えたことはないが、ローゼンメイデンにバトルオブローズという歌がある。歌といいますかBGMだけど歌のような強さがあるので歌と呼ぶ。コンポーザが戦いを書いている。

社会との対立と和解

社会との対立もまた共通のテーマだ。

NIRVANAの歌は90年代の社会的・文化的な変動を背景に多くの若者の不満や怒りを代弁した。

一方、ローゼンメイデンは、架空の世界を舞台にしながらも現実社会の問題を暗示している。

永遠のメッセージ

ローゼンメイデンとNIRVANAはどちらも一種の永遠のメッセージを持っている。固定された物語や歌は、時を越えて人々に影響を与え続ける。

固定された芸術の力

固定された芸能は、時代を超えて多くの人々に影響を与える力を持っている。これは、その芸能が持つ普遍的なメッセージによるものだ。

例えばNIRVANAの歌は、リリースから何十年も経った今でも新しい世代のファンを引き付けている。

個々の解釈と意味

物品は有形無形に関わらず生まれた瞬間に個々の視聴者によって異なる理解がなされる。

芸能物品が固定されているがゆえに、視聴者が自分の経験や感情を重ね合わせる余地があるからだ。

ローゼンメイデンの真紅やNIRVANAのカート・コバーンは、それぞれの読者やリスナーにとって異なる意味を持つ。といいますかローゼンは当時の引きこもりとかも題材だったんだろうか。

生きることと死の意味

戦い続けることの重要性

生きることは戦うことであり、その戦いは自己実現や社会との関係を通じて続いていく。ローゼンメイデンのキャラクターたちやNIRVANAの歌はその戦いの重要性を示している。

自己実現の戦い

自己実現のための戦いは個々の人生の中で重要な役割を果たす。

目標を達成するための努力や、自己を高めるための挑戦を意味する。

生きることはこの戦いの連続であり、それが人生の意味を形作る。

社会との関係

社会との関係もまた戦いの一部だ。

個人は社会の一員として、他者との関係を築きながら生きていく。

この過程で様々な対立や協力が生じる。ローゼンメイデンのキャラクターたちやNIRVANAの歌は、目を背けた先にある無形の文化でありながらぼくらが目を背けたはずの社会との関係を描いている。

死の固定性とその意味

死は固定された状態であり、その意味は生者によって都合よく理解される。

カート・コバーンの死やローゼンメイデンの物語は固定された死の意味をどのように解釈し受け入れるかを示している。

死の固定性

死は変わらない状態であり、その存在は永遠に固定される。

死が持つ意味を生者がどのように受け止めるかに大きく影響する。

カート・コバーンの死は多くのファンにとって永遠のメッセージとなり、ローゼンメイデンの物語もまた固定された形で読者に影響を与え続ける。

生者の解釈

生者は死を通じて様々なメッセージを受け取る。死が持つ静的な性質と、生が持つ動的な性質との対比によるものだ。

生者は死を美化し、その意味を自分の人生に反映させることで、自己を再確認する。

美化のリスクとメディアの役割

美化にはリスクが伴うが、克服することで現実と理想のバランスを取ることができる。

メディアは、このバランスを保つために重要な役割を果たしている。といいますか責任から永遠に逃れられない。

美化のリスク

死や戦いを美化することは現実の困難を過小評価させるリスクがある。

青少年に対しては特にその影響が大きい。現実の厳しさを理解することが健全な成長にとって重要らしい。

メディアの役割

メディアは現実と理想の間でバランスを取る役割を果たす。

死や戦いを描く際には、その影響を考慮し、視聴者が正しく理解できるように表現することが求められる。

視聴者もまたメディアの表現を批判的に受け止める能力を養う必要がある。

終わりに

生きることは戦うことであり、死はその戦いの終わりを象徴した。

ローゼンメイデンとNIRVANAはこのテーマにより通底した。多くの人々に影響を与えてきた。

美化と現実のバランスを取りながら生と死の意味を探求することが遺されあ者にとって重要な課題である。美化は感情的な影響を強め、文化的なアイコンとしての位置を確立する一方、実際の現実を見えにくくすることがある。

戦いや競争の中で得られる達成感や満足感も意味があるんだろうが、知りたくない。それ以上に日常の中で感じる喜びや安らぎが、人生において大きな意味を持つのではないかと考える。

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