同担拒否からの「同担絶望」とは
ぼくは自分のことを同担拒否というカテゴリに属すんだろうかと思っていたのだが、どうやら違うらしかった。ヘッダ画像をお借りしています。
・「好き」という自己の純粋な発露において他者の意見を確認する意味とはなんだろう?
それはぼくが自分が好きなもの(例えば下記のようによく書いているからという理由で例えばスピッツとかでしょうか?映画について死ぬほど書いてるけど、ジャンルとしてだと意味的には同じなんだけどちょっとでかすぎる)について、他者の意見をまるで求めていないからでした。
ずらっとリンクが並ぶとなんか怖い。ノートに自分の好きなものを書く行為とはかくもストーカーじみた感じに見えてしまうのか……それならばこのように期間を空けまくって書いたほうが心象良い気がする。自分にとってである。他者からどう見られるかを意識した時点でそれは純粋なアウトプットではない気がする。だからぼくはいいね数みたいなものを見えないようにしてある。
ぼくはこんな感じで「すでに対象のことが好き」なんで、それってもう「決定済み」だし変えたいと思ってないし変えようがないから、他者さんの意見を聞くっていうことはその「変えがたいなにか」に何らかの「変え」を取り入れる欲求を持っている行為に思えるから聞こうとはしなかったことがある。実際いまでも変わってないんですけど。
・なんで「好き」って表現だけじゃだめなのか?広報担当みたいに周りに推薦しなきゃいけないのか
だから検索で同担拒否について調べ、一番興味深そうな場所を読み込んでから今これを書いています。しかしながらぼくはどうやら同担拒否ではなかった。そこで読んだ人たちは半ば強引に好きなもの……を探していた。。その、このように言いよどんでしまうほどに必死にである。
というのも、昨今では「好き」と表現することが秘匿されている……のである。
この時は、好きを秘匿する「ことが許されない」と言った(以下から説明するように、秘匿してないでひけらかさないといけないから)んですが、本当は別なことが言いたかった。
今この……「別の言い方」で表現しろしろって空気、同調圧力ですよね。これでもかというほどに、です。
これって周囲に推薦して好きなことを表現すればするほどUGCになるから、IPを、知的財産権を保有している「産業側」にあまりにも都合がいいんです……ほっといてもそのIPを好きなやつが勝手に宣伝してくれる。広報担当者かよ?と。期せずして「担当」という単語が出てきましたね。なぜ「ファン」じゃいけないのだろう?なぜ後方プロデューサみたいな名前でファンを名乗らなければならないのでしょう。
広告費かけないでもSNSでガンガン広めようと=自分がいかに好きかを周囲に押し付けるほど伝えようとするほどに、当該IPの知名度が少なくともその発信者の周辺には広がる。
企業からしたら広告費などという最強の損益計算書上の目の上のたんこぶが丸ごと消せるんだから有利以外の何物でもないんです。「好き」を当該単語でファンに表現させることが。
「当該IPのことが好きである自分」を周りに知らしめたい承認欲求に囚われた化け物が多ければ多いほど、企業は潤ってしまう。だって好きってだけじゃ許されない、推薦行為をしなければならないのだから……
そして化け物(別に化け物、とまでは思ってないですが……)にとっては、企業の代わりに広報活動すらしてやったと「貢献度」といいますかある種の自分の中に生まれたロイヤルティすらポジティブに受け止めてしまう。言うなれば好きの対象のためにしてやった「ただ働き」を誇る。
いくらなんでもそれは搾取され過ぎではないのだろうか、と思う。多分本人がそう思ってはおらず、その環境、自己犠牲感、悲劇のヒーロー・ヒロイン感すら楽しめるんだろうし心理的にもWin-Winなんだろうけど……
・SNSという「エコーチェンバー発生装置」のフィルタを通すと、性愛を持つほど愛着を持つと他者を否定したくなるのか?
ぼくが調べた同担拒否の情報元では、もはや当該行為をしなければ自分を保てないほどの夢女子と化した人の例を見た。
あら、やっぱり同調圧力とか帰属意識みたいなネガティブな背景によるものなんじゃないのあーた、とぼくは思ったが別にそのページは参考にするだけで彼/彼女の人生に関わる……といいますかぼくごときが変えるつもりもないし、変えられることは彼女/彼にとっては絶望であるだろうからしない。この文を持ってするつもりもない。まさかとは思うがわざわざ見つけて読まないで欲しい。参考にさせてもらってありがとうございました。
ぼくは上記層と異なり、性愛を抱いてはいなかった。万が一抱いたとしても、思うことは同じでありぼくは広報になりたくて好きになるわけでもなければ、アピらなければ死んでしまうわけでもない。ぼくにもかなり好きなものがあり、今日(こんにち)に至るまで3年かけて1100回ぐらいnoteに文を書いてきたにもかかわらず一切表に出していないものがある。
このように、ぼくは自分が本当に大好きなものを表に出さずに生きていける。もちろん冒頭の自己ページの引用のように好きなものを話すことがある。嫌いなものを書こうとはしないようにしている。本当に公の敵になるものを批判する以外にそういうことは書かないようにしている。
しかしながら、たまに好きなことについて好きに書いたりするとものすごい勢いでその「好きのあり方」を否定してくる人がいることも知った。それはそれでそいつが同担拒否なのでしょうか。その愛し方は違っている、と。マジでその時は驚いた。「あ、別の考えの人を排除しようとする勢力がnote内にはいるんだな」と。
考え方がちょっと違うだけで滅多刺しにしてこようとする。あるいはその人ってもしかしたらぼくよりもここにいる歴が長かったりして、後から来て勝手なことを抜かすな、と「お山の大将」化しているのかも知れない。
周りから持ち上げられたりして、ガキの告げ口みたいに周囲に「違う意見を見つける村人的存在」がいて(インフルエンサーでもなんでもない奴のそれでも囲いとか言ったほうがいいのだろうか?)、そのような敵対的な出力をしたのかも知れませんね。ご覧の通りぼくはひとりであり、孤独だ。戦いすらしていない。
・芸とはそのものに価値があるというよりは、「見た側」の心に何かを生み出せるかどうかに趣があるらしい
そしてまた、この前の芸術番組を見て知ったんだけど「なにかを見てその人の心に何かが発露したのであれば、それこそが目の前の物品よりもその人にとって宝である」という考え方が得られた。
この考え方はマジで強い。そりゃそのなにかを作った側からしてみれば、恐ろしく膨大な時間をかけアイデアを立て、恐ろしく膨大な時間をかけて材料を集めるなり何なりをして、恐ろしく(略)かけて出力したからその絵なり壷なり盆栽なりが造れたわけであり、誇るべきなのだろうが、それを見た側にとっては「その一生懸命造られた物品、出力品、成果物」と出会ったことについては一旦二の次であるという点が、です。
尊敬しなければならない(この言い方もまた情けない同調圧力だ。つまり芸とはこういった同調圧力すらも否定できる力を持っており、芸を見る上で同調圧力とは全く必要のないことなのだ)何かしらの大家が造った何かしらであろうと、別に目の前にある物品のひとつなのである。
つまりどこぞの大先生の壷だろうが、スーパーのフィリピン産100円バナナだろうがガキが花を拭いたティッシュだろうが「リスナーの心にとっての波紋装置となるかどうか」においては同価値である。
殊上記リンクのガラス工芸者は、自分が造った物品がどうかよりも、見た人の心に何かを生んだのならそっちのほうがよっぽど単体を評価されるより嬉しい、的なことを言っていた。
だから、例えるにアイドルの歌ひとつとっても、その受け止め方がどうかだけが大切なのであって、全く別の受け取り方をした相手を否定する意味とは……なにかあったりするのだろうか?ぼくはすでにこの文の結論に至ろうとしているが、やはり見つけられなかった。
したがって、ぼくはこの冒頭で述べた現象を同担絶望と名付けたいのだがどうか。同担虚無のほうがいいですかね。