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新聞は監視機関として機能すべきか
これは物心つくあたりか直後に得た学びな気がするんだけど、新聞というメディアは公的機関の監視機関であるという教えが心に残っています。ヘッダ画像をお借りしています。
この考えに基づけば、ぼくらが目にする活字メディアとは監視機関たらねばならないようにも思える。つまりジャーナリズムはすべからく監視機関でなければならない。
でも、ネット辞書によればジャーナリズムの語源とはそうでもなかった。
語源的にもジャーナリズムはラテン語で「日々の」を意味するdiurnusに発しており、ジャーナリズムということばが日常的に使われるようになったのも、日刊紙が新聞のパターンとして一般化した19世紀初頭以降の欧米である。
本来は単なる報道機関、つまり活字が乗っかるプラットフォームでしかないわけです。実際そう思っている人は多いんじゃないだろうか。ぼくも書いてて別にそれでもええんちゃうかな気がしてくる。
活字とは起こった出来事を記録できるわけだけど、記録とは同時に裏付けとか来歴みたいな効力も持ち始めてしまう。つまり監視ですね。行動記録のメモとは監視だ。当該ジャーナリズムがそれを望むと望まざるに関わらずです。
ペンが剣より強いみたいないいかたを福沢諭吉がしていた気がするんですが、ぼくはこれまでその物言いについてよくわかってなかったけど大体このようなことが言いたいんじゃないでしょうか。
ペンつまり字を書くメディア(物体の先から字を書くための薬液を射出できるメディアだ)があれば、剣であたりを傷つけまくっている頭のおかしいバカの行動記録を永久に残せる。もちろん記録媒体が永続的に残るものであればではありますが……
だから全体主義、専制君主みたいないかれた思想のもとでは活字を恐れる。ジャーナリズムを恐れる。なまじ何を恐れるべきかというような猿知恵を持っていながら、つまり剣はジャーナリズムに勝てるわけないのだという常識ぐらい理解できていようはずなのに、全体主義だの独裁国家だのに流れる生き物は脳のどこかが欠損してでもいるんだろうか?
そのような連中はなぜか全体主義、独裁国家をやめないで、活字が印刷されないように頑張り始める。戦時下の日本もそうだったし、わかりやすいところで言えばプーチンがそうです。アウン・サン・スー・チーを監禁して所属政党を不当に解散させて国家が公的に人権を迫害している(そんなものもともと国家でもなんでもないのだが)真っ最中のミャンマーもそうですね。
野郎はノーベル平和賞という至高の評価を得た国内メディアを弾圧したどころか、国の外においやった。最大級に誇るべき国民を追い出せる愚行を思いつく脳を持っている生き物が人の上に立てる国ってなんだろうか。
日本で言えば戦時下の中央公論社が同じ目にあった。中央公論だけじゃなかった気もする。特別高等警察は彼らにひどいことをした。まるで漫画か物語のようなものでした。ぼくは同情していたんだけど、戦後の中央公論は金のために現代の特別高等警察のような思想を持った人非人の自伝を出版してなんだかなあという気持ちになる。
監視機関として最初に監視すべき相手は何だろう?つまり最大の権力である政府なんですね。また気持ちが乗れば明日以降続きを書きたい。
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