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映画を数字で評論するほど無意味なことはない

『ノクターナル・アニマルズ』論考

『ノクターナル・アニマルズ』という映画は、非常に多層的なテーマと物語構造を備えた話であり、その解釈や評価が単純な「点数」では到底語り尽くせないことを痛感する。

美と醜、愛と裏切り、復讐と救済の狭間に立つこの話は、観る者を深い考察へと誘うが、同時に強い不快感や混乱がガーンと来る点で議論を呼ぶ。

ぼくがこの映画を観て感じたことを、以下に多面的に掘り下げていく。



映画の全体像と初見の衝撃

映画の構造や冒頭におけるインパクトについて詳述する。
特に、ぼく自身が抱いた第一印象と、それに続く各要素がどのように全体のテーマを提示しているのかを分析する。

冒頭の異様な身体の表現と観客への挑発

映画の冒頭で登場するのは、肥満体の女たちが全裸で踊るシーン。

この異様な映像は観客に嫌悪感(もしくは大興奮)を抱かせる一方で、スーザンの内面的な空虚さや社会が求める「美」の虚構性を象徴していると考えられる。

このシーンが単なる挑発ではなく、物語全体の基調を成す哲学的命題を含んでいることを確認するために、以下3つの視点から検討する。

1. 美と醜の境界線にある表現

肥満体の女たちの踊りは、一般的に美とされるものの対極にあるが、それが芸術的なコンテクストに置かれることで、「美とは何か?」という問いを突き付ける。
ぼく自身、このシーンを観て直感的にはわけわかめだったが、そのわけわかめ感自体が映画のメッセージを考察する契機となった。
いや、やっぱなってないな。

2. スーザンの視点との関連性

スーザンは映画を通じて美術ギャラリーのオーナーとして描かれ、彼女の価値観が芸術と消費社会の狭間で揺れている。

この冒頭の映像は、スーザンが抱える「美」に対する矛盾や偽善を視覚化したものとも受け取れる。彼女が自分自身をどのように見ているのか、そして世界に対してどのように立ち向かっているのかを反映しているように思える。

単に苛立ってるだけにも見える。

3. 観客との対話と感情の揺さぶり

この映画は、観る者の感情を心地よいものに留めることを目的としていない。

むしろ、冒頭から観客を突き放し、不安や戸惑いを抱かせることで、いいから話を見てちょんまげ~~~~~~~~という姿勢を発している。この手法からは、映画が単なる娯楽ではなく、思索を喚起する芸術として機能させたいんだな、と作者が思ってるとを示している。

物語は3つの方向性で理解できる可能性があるらしい

そこら辺の感想を読んでたら、劇中劇をエドワードが送った意図やその意味について、3つの別々の意味に取れるらしい。
それぞれの解釈が物語全体に与える影響と、観客に残る「曖昧さ」について考察する。

1. スーザンの罪を突きつける復讐話だった0

エドワードがスーザンに物語を送った理由は、純粋に「復讐」のためであるとされる。
劇中劇の主人公トニーが家族を失い復讐の末に自滅する物語は、エドワード自身のスーザンへの怒りと失望を寓話的に描いたものであり、スーザンに「お前が僕にしたことの結果だ」と示すものだ。

スーザンの罪と母親との同一化

スーザンがエドワードを捨て、より現実的で安定した人生を選んだことは、彼女自身が若い頃に軽蔑していた母親の価値観と一致する。
スーザンは母親を嫌いながらも、その生き方を無意識に模倣してしまった。
この物語は、そのことを彼女自身に思い知らせるような役割を果たしている。

トニーの喪失とエドワードの復讐

劇中劇の中でトニーが家族を失うシーンは、スーザンがエドワードから「可能性」を奪ったことを象徴している。
エドワードはスーザンを愛していたが、彼女の裏切りにより自分の人生が破壊されたと感じている。
この点でトニーの家族が暴力によって奪われるという設定は、エドワード自身の感情的な体験を象徴していると解釈できる。
もうマジで……先月も何の罪もない女がレイプされる話を意図せず読んでしまってぼくは自分がそう言う話を引き当てる能力を持っているのかもしれないと思うと心底嫌になる。綺麗事を言うわけではなく、おもろないでと伝えたい。ただ、そういう文化を残しとかないとガチ目のレイプ魔が鬱憤を晴らす場がなくなっちまうからあっていいよと思う。

スーザンの内面的な破壊

この考えが支持される背景には、スーザンが劇中劇を読み進める中で見せる感情の揺れがある。
物語を通じて彼女が感じるのは単なる興味や驚きではなく、自分がかつてした選択に対する後悔や罪悪感だ。
この感情が物語の復讐のメッセージを補強している。


2. スーザン自身がエドワードで主役だった

劇中劇がスーザン自身を主人公とした寓話であり、エドワードが彼女に対して「許し」を与えるために物語を送ったというもの。
この考え方では、劇中劇の凄惨な内容はスーザン自身の内面の葛藤や罰への渇望を反映している。

トニー=スーザンの構図

主人公トニーは、一見エドワードを象徴しているように見えるが、実はスーザン自身を表していると。
トニーが家族を失い復讐の末に自滅する流れは、スーザンが自らの選択によって失ったものを再確認し乗り越えようとする姿とも重なる。

物語が示す贖罪

エドワードがスーザンに物語を送った理由は、「復讐」ではなく、「贖罪の機会」を与えるためだと。
スーザンが劇中劇を通じて自分の罪を認識し、そこから何らかの救済を見出すことを期待しているのではないかという考えだ。

ラストシーンの解釈の変容

スーザンが最後に一人で座るラストシーンも異なる意味を持つ。
エドワードが現れなかったのは、彼が復讐を果たしたからではなく、スーザンに「これから自分で人生を再構築せよ」というメッセージを送ったからだと考えられる。
物語はより肯定的な余韻を残すことになる。


3. 物語を創り上げたのはスーザン自身で欺瞞だった

そもそも劇中劇がエドワードによって書かれたものではなく、スーザン自身が創作したものだと。
スーザンが自分の罪悪感や未練を形にするために、エドワードという架空の存在を利用して物語を作り上げた可能性があるらしい。びびった

物語がスーザン自身の内面を反映している理由

スーザンが物語に対して強く感情移入する姿は、単なる読者の反応を越えている。
むしろ、物語全体が彼女自身の過去の選択や苦しみを具現化したものと考える方が自然だ。
この場合、エドワードの不在は、スーザンが自分の中でエドワードを理想化し、現実を拒絶していることを象徴している。

ラストシーンの意味とスーザンの孤独

スーザンがエドワードとの再会を期待しながら待つラストシーンも、彼女自身の空虚さを象徴している。
彼女はエドワードという架空の存在にすがりつくことで、自分の過去の選択を正当化しようとしているが、現実には彼女が創り上げた物語には誰も現れない。

自己欺瞞の果てにあるもの

スーザンの孤独と絶望が彼女自身の手によって作られたものだという点が怖い。
スーザンは物語を通じて自分を赦そうとするが、最後にはその試みが失敗に終わる。
この結末は、彼女の内面的な自己欺瞞を鋭く浮き彫りにする。


現実と劇中劇の交錯する構造

『ノクターナル・アニマルズ』の中心には、エドワードがスーザンに送った小説という形で語られる劇中劇が存在する。
この物語が、単なる創作ではなく、スーザンとエドワードの過去や感情を象徴的に表現している点について考察する。
以下からは、劇中劇の内容とその意図を多面的に掘り下げる。

劇中劇の概要と象徴的な役割

劇中劇は、一見するとトニーという男が家族を失い、復讐を遂げる単純な物語だ。
いや、単純じゃなくて劇的に不快ですよね。こんなん見せられたらなくわ
しかしその背後には、エドワードの内面的な苦悩やスーザンに対するメッセージが織り込まれていると考えられる。
この構造がどのようにして映画全体のテーマを深化させているのかを説明する。

1. トニーの旅路は無力感と正義への希求だった

トニーが家族を失った後に選ぶ道は復讐だ。
しかし、この復讐は決して成功と呼べるものではない。ルーやレイを殺害することで一応の決着がつくものの、最終的に彼自身も命を落とす。
復讐が持つ虚しさを描き出し、観客にその無意味さを痛感させる。
同時に、トニーの無力感は、エドワードがスーザンに感じた喪失感のメタファーとしても機能している。

2. スーザンへのメッセージは一見復讐っぽく見える

劇中劇の内容は、スーザンに対するエドワードの復讐とも受け取れる。
トニーが家族を失うという描写は、スーザンがエドワードを裏切り、彼を孤独に追いやった過去と重ね合わせることができる。
この物語を通じて、エドワードはスーザンに対し、「君が奪ったもの」を思い知らせようとしている、と多くの人は思うのではないだろうか。

3. 視覚的および心理的な象徴性

劇中劇の登場人物や場面設定には、現実のスーザンやエドワードの過去を連想させる要素が散りばめられている。
例えば、トニーが放置される荒野は、エドワードが感じた孤独や絶望を象徴している。
また、レイというキャラクターは、スーザンの夫ハットンの冷淡さや計算高さを暗示しているようにも見える。


スーザンの人物像は空虚な成功者だった

この章では、映画の現在の時間軸で描かれるスーザンの人物像について詳しく分析する。
彼女がどのようにして現在の生活に辿り着き、その中で何を失ったのかを探ることで、映画全体のテーマに迫る。

スーザンの現在の状況は成功なのかその代償なのかわけわからん

スーザンは高級アートギャラリーを運営し、裕福な暮らしをしている。
しかしその裏側には、深い孤独感や自己嫌悪が隠されている。
この状況がどのようにして彼女の選択によって形成されたのかを分析する。

1. 経済的な成功と精神的な空虚

スーザンが現在の生活を手に入れたのは、エドワードとの結婚生活を捨て、より現実的な道を選んだからだ。
しかし、この選択は彼女に精神的な充足感をもたらすどころか、逆に深い空虚感を残す結果となった。物質的な成功が必ずしも幸せを保証しないことを、スーザンの姿は鮮明に示している。

2. 母親との関係:遺伝する価値観

スーザンの母ちゃんはエドワードとの結婚に反対し、「現実的な選択」を求めた。
スーザンは母親を嫌悪しながらも、結果的に彼女の価値観を受け継いでしまった。
この要素は、親子間で引き継がれる社会的価値観や個人の選択の難しさを浮き彫りにしている。

3. エドワードに対する罪悪感と期待

スーザンは劇中劇を読みながら、エドワードに対する罪悪感や未練を募らせる。募らせてんのか?眠れない原因は本当にそれか?
しかし、同時に彼女はエドワードとの再会を現実逃避の手段として期待している。
この自己中心的な感情の絡まりが、彼女の精神的な未熟さを物語っている。

スーザンの過去と代償と自己喪失

スーザンの過去としてエドワードとの結婚生活が描かれるが、これが現在の彼女の孤独や後悔につながっている。
以下からは、彼女の過去の選択とそれが現在に与えた影響について詳しく考察する。

1. エドワードとの結婚と破綻の経緯

スーザンは学生時代からの知り合いだったエドワードと結婚するが、彼が「現実的な将来性」を欠いていると感じるようになる。
スーザンがエドワードの才能に失望し始めたこと、そして彼女が新たな人生を求めたことが、この結婚の破綻を決定づけた。
ここで浮かび上がるのは、彼女が追い求めた理想と現実の狭間での苦悩だ。

2. 「安定」を選んだスーザンの動機

スーザンがエドワードを捨てて現在の夫ハットンを選んだ背景には、経済的な安定や社会的な地位への渇望があった。
この選択は、短期的には合理的に見えるが、彼女自身が失ったものの大きさを考えると、それが最良の選択だったかどうか疑問が残る。と読者には思わせたいだろうな~~~~~と。
彼女は安定を手に入れた一方で、自分の感情や信念を裏切った結果、内面的な空虚さを抱えることになった。

3. カーチャンと同じ道を歩む皮肉

スーザンは母親を嫌い、彼女の「現実主義的な価値観」に反発していた。
しかし、自分自身が結局同じような道を選んでしまったという点に深い皮肉が込められている。
この対比はスーザンのキャラクターをさらに多層的にし、彼女の苦悩をより鮮明にしている。


劇中劇のラストとスーザンの未来と映画を見終わったあとの意義の幅広さ

劇中劇「ノクターナル・アニマルズ」の結末は、トニーの死という形で終わる。
これがスーザンにどのような影響を与えたのか、また物語全体を通して彼女が何を学び、何を失ったのかを探る。
この章では、劇中劇のラストが現在のスーザンにどう結びつくのかを分析する。

トニーの死と復讐の虚しさ

劇中劇のラストで、トニーは復讐を遂げるが、彼自身も命を落とす。
この結末は、復讐の無意味さを強調すると同時に、スーザンに対するエドワードのメッセージとしても読み取れる。
こっからはこのラストの持つ多面的な意味を考えましょうか。おそらく1番の肝でしょう。

1. 復讐の成功と同時の失敗

トニーは自らの手で家族を奪った男たちに「裁き」を下す。
しかし、彼が得たのは正義ではなく、自らの死という結末だ。
このラストは、復讐が持つ矛盾を鋭く描き出している。
スーザンにとっても、これはエドワードが「君の裏切りは僕を殺した」という暗喩的なメッセージを込めた部分だと解釈できる。

2. スーザンへ自己認識を喚起しろと問いかけてる

このラストはスーザンに対しても重要な意味を持つ。
エドワードは劇中劇を通じて、スーザンが自身の選択や価値観を見直すきっかけとして機能したがってるようにまずは見える。
トニーが家族を失ったように、スーザンもエドワードという「可能性のある未来」を失ったことを、この物語を通じて改めて認識させられる。


エドワードが来ないことはスーザンの絶望の象徴なのか?

現在の時間軸で描かれるラストシーンでは、スーザンがエドワードとの再会を期待して一人待つ。
しかしエドワードは現れない。
この場面は、単なる再会の失敗を超えた深い象徴性を持つ。

1. エドワードが来なかった理由

エドワードが現れなかった理由には多くの理解が可能だ。
単に勇気が出なかったという表面的な理由もあれば、エドワードがスーザンに「復讐の完成形」としてこの結末を用意したという考え方もある。
どちらにせよ、この不在はスーザンにとって、失ったものの大きさを再認識させる決定打となる。……ように観客には見せたいように見える。

2. スーザンの孤独と自己反省

スーザンが一人でテーブルに座り続ける姿は彼女の孤独や後悔を象徴している。
この場面を通じて観客は彼女が現在の自分をどう捉えているのか、そして未来に何を求めているのかを深く考えさせられる。

3. 映画全体を締めくくるテーマ

このラストシーンが示しているのは、「過去は取り返せない」という冷酷な現実だ。
スーザンが劇中劇を読み進める中で期待した再会や赦しは、彼女の願望でしかなく、現実は彼女が選択した道の結果として冷徹に示される。
このシーンは、映画全体を通して描かれるテーマの集大成と言える。


数字で語れない物語の真価

『ノクターナル・アニマルズ』は、単なる映画としてではなく、観る者に問いを投げかける「話」として際立っている。
そのテーマや構造は非常に緻密で、ぼく自身、単純な評価や点数で語ることが無意味であることを痛感した。
この話が持つ真の価値を言葉で完全に伝えることは難しいが、それでも以下に結論をまとめる。

映画としての完成度とテーマの普遍性

この話の視覚的な美しさや構造的な完成度は、間違いなく評価に値する。
しかし、それ以上に重要なのは、物語が描き出す人間の複雑さや、観る者に与える思索のきっかけだ。
スーザンやエドワードの人生の交錯を通じて、この物語は観客に自らの選択や価値観を見つめ直すよう促している。

数字では測れない真の価値

この話を数字で表すことは不可能だ。
それは、ぼく自身がこの話を通じて感じた感情や思索が、単なる「点数」では表せないほど豊かであったからだ。
この話の真の価値は、それを観た人それぞれが何を考え、何を感じたかというところにある。

『ノクターナル・アニマルズ』が特異なのは、このように多様な見方ができるからなんでしょうね。

でもぼく自身が抱いた感想は、これら理解の方向性が提示する可能性が豊かであればあるほど、「だからなんだよ」という気持ちだ。
この物語の終わりは観る側に最終的な答えを与えない。
むしろ、観る者それぞれが自分自身の価値観や感情を照らし合わせて解釈を見出す余地を残す。

この多義性が「物語の魅力」であるとされることに憤る。
人間の苦悩や不条理を描いた物語に対して、「多義的だから良い」というだけで評価サイトみたいなものが異様に良い点を付ける意味がさっぱりわからん。

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中村風景
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