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コンプライアンス殺傷体操第一

書きたいことがあるのに、それを形にするために必要な構成や展開を考える気力がどうしても湧かない――この感覚に陥ることは、現代に生きる多くの人が共感するテーマなのではないでしょうか。あいにくぼくは人間ではないのだが。ヘッダ画像をお借りしています。

ぼくもまたその状態に陥ることがある。頭の中には書きたいアイディアや伝えたい思いが渦巻いているのに、それを整然と文章としてまとめるためのエネルギーが底を尽きてしまう。

まるで何か大切なものを見失ってしまったかのような虚しさがぼくを支配している。

ある日たまたまつけっぱなしにしていたゲーム配信で、女の子たちが集まって遊んでいるのを目にした。

そのうちの一人は戦いの役割を他の友達に押し付けて、自分は安全な場所からそれを見ているだけだった。

彼女なりにサポートのつもりで遠隔攻撃をしたりはしていたのだろうが、その姿勢にぼくはどうしても違和感を覚えざるを得なかった。自分がリスクを背負って囮になることを頑なに避けるその態度は、彼女の在り方そのものを象徴しているかのようだ。

タレントとしての彼女を見てぼくはある種の哀れさを感じた。

それは彼女がどれほど自分自身を守ろうとするか、その姿勢に対する哀れさだった。

現代社会では、リスクを避け安全な場所から物事を観察することが奨励されることがある。

しかし、ぼくはそのような態度が本当に彼女自身の成長や幸福につながるのか、疑問を抱かずにはいられなかった。リスクを避け続けることで得られるものは、ただの虚無感ではないだろうか。

このエピソードを思い出しながら、ぼくはふと自分自身の状況と重ね合わせた。

書きたいことがあるのに、そのために必要な構成や展開を考えることを避けようとする自分の態度が彼女の姿勢とどこか似ているように感じた。

ぼくもまたリスクを背負うことを恐れ、無意識のうちに安全な場所から物事を見ているだけなのではないかと。

考えてみれば、文を書くという行為自体がある種のリスクを伴うものだった。

自分の思考や感情を言葉にすることは、裸の自分をさらけ出すようなものだし、それを他者に読まれることで自分が評価されるリスクもある。だからこそ、ぼくらは文を書く際に構成や展開にこだわり、その中で自分を守ろうとするのだろう。

しかし本当にそれでいいのだろうか。自分を守ることばかりに気を取られて書きたいことがぼんやりとしたままになってしまうことは、表現者としての本質を見失っているのではないか?

もしかしたら、ぼくらはもっと自由に、もっと大胆に自分の思考や感情を形にしていくべきなのかもしれない。

展開があることで読者は文を理解しやすくなり、ぼくらの思考が伝わりやすくなる。しかし、時にはその枠組みにとらわれすぎることが、逆にぼくらの表現を制限してしまうこともあるのだ。

だからこそぼくは書くにあたり、構成や展開にこだわらないことを試みている。

思いついたままに書き連ね、自由な発想のままに言葉を紡いでいる。それがどれほど読者に伝わるかはわからないが、それでも自分の思考をそのまま表現することの方が今のぼくにとっては重要だと感じた。

書き進めるうちに、ぼくはあることに気づいた。ぼくらは常に何かしらの囲みの壁の中で生きているのだということだ。構成や展開、リスクを避ける姿勢、他者からの評価――これらはすべて、ぼくらが自分を守るための手段であり、同時にぼくらの自由を制限するものでもある。

しかしその壁を完全に放棄することはできない。ぼくらは常に何かしらの制約の中で生きている。だからこそぼくらはその制約を理解し、時にはそれに挑戦しながら、自分自身の表現を追求していく必要がある。

現代において、情報の発信や表現活動は、以前に比べて大きく変容している。その一つの要因として挙げられるのが、厳格化されたコンプライアンスである。

テレビ局や活字メディアなど、従来のマスメディアは、かつてはより自由な表現が許されていた時代があった。

しかし今ではその自由は著しく制限され、過激な内容や突飛なアイディアを公にすることが難しくなっている。その背景にはスポンサーの影響力や視聴者からのクレームを恐れる風潮があり、結果として安全策が優先されるようになった。

この変化は、特に日本のメディア業界において顕著である。例えば、かつてのテレビ番組は、今では考えられないほど過激な内容を放送していた。バラエティ番組での過剰な演出や、ドラマでのリアルな暴力描写、または社会問題に大胆に切り込むドキュメンタリーなど、視聴者に強いインパクトを与えるコンテンツが数多く存在していた。

しかし近年ではコンプライアンスの強化により、これらの内容は大幅に抑制されるようになった。

逆にウケることに無難な内容といいますか、自分でコンプラのライン判断をするのが面倒になったからって他メディアから話をパクってきてテレビで放送する。で何だか知らんがどんな思い違いをしているのかガチでわからんが、テレビ様のほうが他メディアより偉いなどと勘違い、つまり他メディアからテレビに「転載」されることを光栄にでも思え、と言わんばかりにパクった物語なり何なりは尊厳破壊レベルの改造をされ、作者が自死しても知らん顔だ。

また、スポンサーの目もこの現象に大きく影響している。

スポンサー企業は、自社のブランドイメージを損なう可能性がある内容を避ける傾向にあり、リスクの高いコンテンツには広告を出さない。

メディアは自然とスポンサーの意向に従う形で、刺激的な内容を避けるようになる。過去には、視聴率至上主義が支配していた時代があり、視聴者を引きつけるためには多少のリスクを取ってでも斬新な内容を提供する姿勢が見られたが、今ではそのような姿勢はほとんど見られなくなっている。

さらに視聴者や読者からの反応も、メディアのコンテンツを大きく左右する要因となっている。

SNSの普及により、視聴者や読者が即座に意見を表明できるようになり、その反応が迅速に拡散される時代となった。

メディアは一層クレームや炎上を恐れるようになり、より穏当で安全な内容が求められるようになった。

例えばSNSでの批判やバッシングが過熱すると、それが企業のブランドイメージに直結するため、メディアは自ら進んで表現の自由を制限しているのである。

このような背景の中で、エンターテインメントの分野でも表現の幅が狭まりつつある。

過激な表現が抑えられることで、かつては可能だった大胆な挑戦や実験的なコンテンツの数が減少している。例えば、ゲーム配信やYouTubeでのコンテンツ制作においても、広告収入を主な収入源とするクリエイターたちは、プラットフォームのポリシーやスポンサーの意向に従わざるを得ず、結果として過激な表現を避ける傾向が強まっている。

エンターテインメント全体が無難で均質なものになり、視聴者にとっては刺激の少ないコンテンツが増えているのが現状だ。

その代わりYouTubeCMがクソ頭の悪いアテンションマーケティングを繰り返していて滑稽だ。バカみたいな寄生を上げ視聴者の耳を壊し、無理矢理にでも画面を見させようとするその浅はかさ、もしくはカス以下の話題(性器が肥大化する、上司と女が2人きりになっていまからやり始めますよ、みたいな漫画を流す)で自分の醜さで自分の首を締めていることにこいつら広告社は気づいていない。あるいはYouTubeユーザ、あんたらはこんなゴミに釣られるとこいつらとGoogle社に思われています。

先の自らが前線に立って囮になることを固く拒む行為は、現代のメディアやエンターテインメントに通じるんじゃないのか。いや関係ないか

現代のメディアが抱える問題の一つは、このようにリスクを避ける姿勢が蔓延していることだ。安全な場所から物事を観察し、リスクを他者に任せる。

この姿勢は、多分当人たちからしたら合理的なんだろう。実際には挑戦を避け、成長の機会を失っている。単なる思考停止だ。

コンテンツの制作において、表現の自由を最大限に活用することが視聴者に新しい視点や感動を与えるためには不可欠である。しかし、現在のようにコンプライアンスやスポンサーの意向に縛られた環境ではその自由はますます奪われる。

さらに、リスクを避けることが常態化することで、視聴者や読者に提供される情報やコンテンツが平坦で単調なものになる。かつては多様な視点や意見が飛び交い、社会に対する鋭い批評や大胆な実験がメディアを通じて行われていた。

現在のメディアは、スポンサーの顔色をうかがい、視聴者や読者からの批判を恐れるあまり、無難で中立的な内容を選びがちだ。視聴者や読者にとっては、ますます退屈でありきたりな情報が提供される。

このようなメディア環境の中で、ぼくたちは何を求めるべきなのだろうか?

リスクを避けることで得られる安全性は一時的には安心感をもたらすかもしれないが、長期的には表現の自由や文化の多様性を奪い、社会全体の活力を低下させる恐れがある。

メディアやエンターテインメントが本来持っていた挑戦的な精神や実験性を取り戻すためには、スポンサーや視聴者の意向に流されることなく再び自由な表現を追求する姿勢が求められるのではないだろうか。

メディアやエンターテインメントが本来持つべき挑戦的な精神を取り戻す意味なんてあるか?時代の顔色を伺っているだけだ。

コンプライアンスやスポンサーの影響力が強まる中で、ぼくたちはあえてリスクを取り、未知の領域に踏み込む勇気を持つべきなのか?搾取され続けるだけじゃないのか?安全な場所から物事を眺めるだけでは、新たな発見や感動は生まれないが、安全な場所にいる連中が大胆なリスクをとっている勇者たちを後ろから矢で打ち抜き、遺骸をハイエナになって食い続けてる。

現代のメディア環境において、ぼくたちは再び自由な表現を取り戻し、豊かな文化を育むための挑戦を続ける必要なんてあるのか?

ぼくらはそれでも自分の思考を自由に表現するべきなのだろうか。それがどんなに未熟であろうと、ぼくは自分の言葉に誇りを持つべきなのか。そして、たとえそれが読者にどのように受け取られるかはわからなくても、書き続けなければならんのか。

たとえば、あの配信で見た女の子のように、リスクを避け続けることが本当に自分自身を守る手段なのかどうか。それはもしかしたら、彼女自身がこれから答えを見つけていくべき課題なのかもしれない。ぼくらは皆それぞれの方法で自分自身を守りながら、同時に自分の表現を模索している。その過程で得られるものがぼくらにとっての本当の価値なのだろうか。

何も思い浮かばんと最初に言ったが、結局ぼくにとっての自分の思考を形にすることができたからどうでもよくなった。

書き行為はかつてぼくらにとって冒険、挑戦、成長の場だったらしい。今ではそんなもの盗まれて踏まれて終わりだ。リスクを恐れずに書き続けることに意味はあるのか。

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中村風景
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