できている自分こそ、認められていないかもしれない
noteを書くのはかなりご無沙汰になってしまった。
文章を書いていなかったわけではないし、日々の感情の起こりも記録し続けることで、自分がどんな時にイライラしやすいのか泣きやすいのかも分かってきた。
以前までは感情が起こっても言葉に出来ず、もやもやとして時間が過ぎるのを待っていたが、今でははっきりと何が嫌か、どうしてこんな気持ちになったのか、手に取るように分かる。そしてその思いを、まだ時間は掛かるけれど、人にも伝えられるようになってきた
しかし、言葉に出来るようになってきたけれど、人に向けて読んでもらおうと思うと書く意欲が湧かず、noteを見る機会も減っていった。
そんな私がまたnoteに記事を書こうと思ったのは、久々に感情が爆発したからである。
確かに日々仕事に追われ、忙しかったかもしれない。けれどそれ以上に身体面でも精神面でも気を配るようにしていた。
人に対してエネルギーを使いやすいからこそ、感情がぶれやすいからこそ、キャパ越えをして頑張り過ぎる特性を知っているからこそ、とてもとても自分を労った。
抱え込みやすいからこそ、小出しにして人には伝えて、頼ることも少しずつ出来てきていた。
それなのに、私の感覚として何の予兆もなく、プツンと糸が切れ、感情が剥き出しになっていた。止まらなかった。身体も痛かった。涙も止まらなかった。しんどい、つらいと思った。
どうすればいいのか分からなかった。やっぱり自分には感情コントロールなんて出来ないのだと悔しかった。
家に帰っても涙は止まらなかった。誰かのせいじゃない。自分のキャパがなさ過ぎるせいだと、不甲斐ない自分を責めて落ち込んでいた。
環境が嫌なのか?
自分の不甲斐なさが嫌なのか?
爆発してはいけないという固定観念から辛いのか?
色んな考えが頭を巡ったがどれもしっくりこない
ふと気づいた、いや気付かされた
こんな私でも相当良くなっていることに
爆発したのはいつぶりだろう?と振り返ると記憶が曖昧なくらいには過去なのだ。月1、2で同じようなことで繰り返し爆発していた頃とは違う。
それこそ感情の起こりを記録したり、生活習慣を気をつけるようになったり、色んな努力がちゃんと反映されていた。
そしてもう、この感情の爆発を私はそのままにはしない。もう私の中でこれから何をすべきかは固まっている。あとは行動に移すだけ。
どうしても"できていない自分"ばかりに目がいってしまっていた。落ち込んでいる時は落ち込みだがるといる人間の特性もあるし、自分の中で"できていること"はもう当たり前で無意識なことなので、気付きにくくもなっている。
自分は"できない人間だ"と昔から思い続けていたせいもあるからか、やはり"できていること"を認められなかった。
みんなにとっては当たり前でしょ?
こんなの大したことない
誰でも出来る
と思っていたが、それも違うらしい。私が当たり前に出来ること、無意識でやっていることが誰かは苦手としていたり、出来なかったりする。
私にも"できること"があったんだ
そうやって"できている自分"を認めることからまた変わっていけるんだ。やってきたことは無駄ではなかったと、これからより良くなるためにはどうすれば良いか?を考えることが出来る。
もっと自分の心に寄り添って良い。そしてこれは1人では気付けない、沢山の人と関わって時には頼って、助け助けられて自分を磨いていけば良い。
行動したから変われたんだ。行動しないままだったら今でも何がしたいのか、これからどうしていきたいのか分からないままだっただろう。
これからもっと良くなる。だって私にも"できること"があるから。