非連続を連続にすることの幸福

前回:創造による幸福

3. 仕事

3-5. 非連続を連続にすることの幸福

世の中は分類や区別、ラベリングにあふれてる。モノゴトを分類・区別して、それらに固有の名前をつける。このおかげで人間は高度なコミュニケーションが取れるようになった。けど、この分類とラベリングには罠もある。

人間は色々なことで対立する。ときには命を奪い合う。

白人と黒人

キリスト教とイスラム教

民主主義と社会主義

科学と宗教

健常者と障害者

健康と病気

いろいろな問題の多くが、分類とラベリングによって生まれている。分類とラベリングは便利ではあるけれど、そのせいで争いが生まれては意味がないんじゃないかな。

分類ってのは恣意的だ。つまり、人間を中心とみなして、人間に都合の良いようにモノゴトを分類しているんだ。だから、モノゴトの分類とラベリングには本質的には意味がないとみなすことだってできるだろう。

例えば、白人と黒人。これは君も知っての通り、肌の色の違いによる区別だ。そしてこの区別は、多くの悲しい事件を昔も今も生み続けている。

たしかに、肌の色はわかりやすく違うように思える。だけど、白人の中にだって肌の色が黒よりの人もいれば、黒人の中にだって肌の色が白よりの人もいる。そうして多くの白人と黒人に会っていけば、白人と黒人を区別するのに明確な境界線なんて存在しないことに気づくだろう。

突然だけど、もし君が犬だとしたらどうだろう。きっと犬の君から見れば白人も黒人も、同じ人間として捉えるんじゃないだろうか。もし君がトンボになったとしたら、人間とゴリラ、チンパンジー、サルなんかがみんな同じ類人猿みたいな生き物として捉えるかもしれない。

健常者と障害者という区別はどうだろう。健常者ってのは考えてみるとなんだかよくわからない。普通ってことなんだろうけど普通ってのがわからない。

たぶん、健常者ってのは障害者ではないってことなんだと思う。そして、障害者ってのは、腕や脚がなかったり、視力や聴力を失っていたり、言葉を発することができなかったり、そういう多くの人にとっての普通の機能を失っている人たちのことだと思う(結局、普通を使うはめになった)。

法律によれば障害者は、「身体障害、知的障害、精神障害、その他の心身の機能の障害がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」と定義されている。

じゃあ、生まれつき片足がないように生まれてきたけど、最新の義足によってなんの不便もなく日常生活が送れるどころか、いわゆる健常者よりも速く走ったり、遠くへ跳ぶことができる人は何者なんだろう。

脚がないから障害者?

日常生活に不便がないから健常者?

それとも義足で健常者よりも優れているから新しいラベリングでもつくる?

俺が言いたいのは間違いなく障害によって大変な思いをしている人々はいるけれど、その大変さは相対的なものであるし、健常者と障害者という区別にも明確な境界線は存在しないってことだ。

結局、健康と病気だって同じだ。健康ってのは病気じゃないってことだろうけど、心身にまったくなんの問題もない人なんているだろうか。どっかにちょっとした傷があったり、かゆいとこがあったり、ちょっと身体がだるかったり、心配ごとがあったり。健康ってのもよくわからない。

モノゴトを区別分類してラベリングするのは、本来は区別なんて存在しない連続的なモノゴトを非連続にすることだ。これは所詮、人間にとって便利で楽だから使っているにすぎない。自然はグラデーショナルなものだ。

君にはぜひ、非連続なモノゴトに出会ったら、その境界線は本当にあるのか、その分類に本当に価値があるのか、そんなことを考えてみてほしいんだ。

きっと、非連続を連続にすることで生まれる幸福もあると思う。

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