1:最後の作品は「主イエス・キリスト」のこと
2:芥川の低音部
芥川は、夏目漱石の弟子としてその才能を絶賛され、すぐに文壇での成功を収めた。彼の作品は漱石の推薦もあり次々とヒットし、特に『鼻』や『芋粥』は大きな評価を受けた。当時24歳の彼はその才能と運命に恵まれたように思えた。彼の家庭環境も良く、経済的にも恵まれていた。しかし、彼の内面には「生きる喜び」が欠けており、彼の作品には彼の懐疑的な視点や冷たい眼差しがしばしば表れていた。
3:『鼻』『芋粥』そして『蜜柑』のこと
「鼻」に登場する禅智内供は、巨大な長い鼻が普通になったとき、周りの人々の反応が冷たかった。人々は他人の不幸には同情するが、その人が不幸から逃れると、どこかでその人を再び不幸にしたいと思う感情が生まれると指摘されている。禅智内供の鼻が再び長く醜くなると、彼は安堵する。これは人々が本音で他人の幸せを喜ばない、世間の矛盾を示している。
次の「芋粥」は、主人公五位が世間の無情さに晒される物語で、彼の哀れさが強調されている。五位は常に苛められ、生き抜くために我慢している。この作品では「世間」の本質がより明瞭に示され、世界の本来的な「下等さ」が明示されている。芥川の作品の中で、世界が「本来的に下等」であるという考えが常に強調されており、彼の厭世哲学や虚無思想が作品全体を通じて表れている。
「蜜柑」は芥川龍之介の自らの体験を基にした小作品で、彼の人生観が表れている。作品の中で芥川は疲労や倦怠を感じる人生の感覚を描写している。この時期は芥川が文壇で成功を収めている時であったが、彼は根本的に人生に飽き飽きしていた。彼の人生観は友人の恒藤恭(つねとうきょう)宛の手紙にも顕著に表れており、彼は人と人との関係、人生の苦しさ、神の仕業などについての考えを率直に綴っている。
佐古純一郎氏の『文学をどう読むか』にもその手紙の引用があるが、多くの芥川研究者は彼の作品を研究の対象とするが、この手紙のように彼の人生観が明確に述べられているものは他にないと思われる。芥川は人生に絶望しており、その思想は彼の生涯を通じて変わることはなく、最終的に彼の命を絶つ大きな要因となった。
4:必然的自殺
芥川龍之介の人生や作品には深い厭世観が根付いており、それが彼の行動や作品に影響を与えていた。
芥川龍之介は大正四年、作家としてのキャリアの初期に、「人生の絶望」についての手紙を友人に書いている。彼が後に多くの作品を書く前の時期のことで、その手紙は芥川が人生に対して深い懐疑を持っていたことを示している。
人々は芥川の自殺に関して様々な意見や推測を持っており、芥川の弟子の小島政二郎は、彼が物語作家のままでいればよかったと述べている。しかし、これは芥川の真の苦悩を理解していないとの批判もある。
芥川は「なぜ生きる必要があるのか」という問題に直面していた。彼は神に対しての復讐として自殺を考え、その行動を必然と感じていた。
芥川の人生には様々な契機があったが、彼の自殺はそれらの契機だけの結果ではなく、深い厭世観が背景にあった。
芥川の作品や行動には矛盾が多く見られるが、その背景には彼の深い厭世観や自殺への論理が存在していた。そして、彼の作品や行動の背後には変わらないメロディー、つまり彼の根本的な思考があった。
芥川の作品には悲しむ要素が含まれているとの意見もあり、その原因として彼の内面の悲しみが指摘されている。
5:初恋
芥川龍之介は深い厭世的な人生観を持つ理由として、初恋の失恋が大きな要因とされる。彼の初恋の相手は吉田弥生で、彼女との関係が深まる中で家の反対を受けた。特に芥川の養育していた「伯母フキ」は結婚に強く反対し、その理由は芥川家が持つ「中流意識」から来るもので、吉田家が士族の家系でないことが大きな理由だった。士族は、明治時代からの身分制度で、平民よりも上の身分を持つ家庭のプライドを示すものだった。
芥川家は、代々徳川幕府の要職に就いており、養父の芥川道章は文化人としての一面を持ち、養母ともは、文学者・森鷗外が書いたキャラクターの親戚に当たる。そのため、芥川家には文人的な雰囲気と、伝統的な江戸の風情が色濃く残っていた。
芥川の文章や彼の作品「老年」の背景には、このような家庭環境が影響していると言われる。芥川が養子として芥川家に入ったことで、彼の人生や恋愛における選択は大きく影響を受けた。家の反対によって初恋を諦めざるを得なかった芥川は、その運命や、理解を得られない大人たちに苦しみ、その立場の弱さを深く感じていたと推測される。
6:恋に破れて
芥川龍之介は深い恋情を抱き、その恋が失恋へと砕けたとき、彼は大きな心理的な打撃を受けた。彼の初恋の相手である吉田弥生は、芥川との関係の終焉を迎えた後、ある陸軍士官との結婚を選んだのである。しかし芥川は、その彼女のことを忘れることはできず、日常の中での感慨を日記に綴っていた。
この失恋の影響から逃れようとする中で、彼は『羅生門』や『鼻』といった作品を執筆したのである。これらの作品は彼の心境を如実に反映しており、特に『羅生門』は彼が吉田弥生へと手紙を送った後の約半年後に完成している。
多くの友人たちは、芥川がこの失恋を契機に小説執筆を本格的に始めたと見ている。実際、彼の作品『鼻』は夏目漱石からの絶賛を受け、彼の作家としての道を開いたのである。
芥川はその失恋の影響を生涯にわたって感じ続けたとされている。その失恋が彼の持つ厭世感の大きな原因であるとも言われている。しかし、その厭世感には他の要因も関与しているかもしれない。
7:気まぐれな愛
芥川が吉田弥生を失ってからの日々、彼は繰り返し彼女の思い出を引き寄せては、独り涙を流していた。その感情は日記の中に記されていった。
実際には、芥川が純粋に吉田弥生を愛していたのだろうか。実のところ、彼自身も「純粋な愛など存在しない」と述べている。彼は吉田弥生に寄せる感情の中に、新たな恋の芽生えとして塚本文に心惹かれていくのだ。彼が塚本文に向けて書いた手紙は、結婚前の繊細な期間に書かれたもので、その内容は非常に甘いものだった。
しかしながら、芥川の初恋である吉田弥生との関係を考えると、彼の塚本文への手紙を純粋な愛情と評価するのは難しい。もちろん、芥川の塚本文への手紙には、彼の優しさや愛情が溢れている。だが、彼が初恋の女性と精神的に繋がり続けていることを考慮すると、感情は複雑である。
結婚後、芥川は急変し、塚本文に厳しい態度を取るようになった。塚本文はその新婚の日々に多大な苦労を経験することとなった。現代の視点からすると、彼女が耐え忍んでいる理由は何だったのかと疑問に感じるかもしれない。しかしその背景には、当時の女性の強さや社会的な背景が影響している。
芥川の愛情とは、結局のところ一貫性がなく、移り気であった。彼は新しい恋の対象が現れると、容易に心を移してしまう性格であった。彼自身が「純粋な愛は存在しない」と語っているように、彼の愛情は自己中心的なものであった。彼は自らの欠点や欲望を認識していたのだ。
そこで、芥川の深い厭世観を単に初恋の失恋だけのせいにすることはできない。彼の心の中には、もっと深い原因があったのではないだろうか。
8:愛の無常について
芥川の「気まぐれな愛」についての評価を議論した中で、真の純愛を持っている人は存在するのか、という疑問が浮かび上がる。
芥川を非難する前に、自分たちの愛がどれほど純粋であるのかを自問自答するべきである。
亀井勝一郎は「ヨハネの福音書」の中の主イエス・キリストの行動に深く感動しており、これを理解するためにはその背景を知る必要がある。ユダヤの律法では姦淫の女は石打ちの刑にされるべきだが、主イエスは彼女を救った。この行動は、罪の意識と神の慈悲に関する教訓を含んでいる。しかし、この教訓は、罪の意識が乏しい日本人には理解しにくいかもしれない。
神観と罪意識の深さは関連しており、高い神観を持つ者や倫理性の高い者は罪意識が強い。逆に、倫理性が低い者や、多くの政治家のように罪意識が薄い者もいる。遠藤周作とある政治家のエピソードは、政治家の約束が信じられないことを示すもので、文士と政治家の価値観の違いを示している。
一方、芥川龍之介の話を引用して、現代の愛の考え方がエゴイズムに基づいていること、そしてその愛の理解の乏しさを強調。現代人は、愛や結婚についての真実の理解が不足している。
愛は相手の幸福を求め、自分を犠牲にすることだという。現代の愛はエゴイズムであり、人々は真の愛の意味を理解していない。流行作家と偉大な作家の違いは、人生の根本的な意味を問うかどうかにあり、漱石や芥川、太宰らの作品は人生の意味に触れているため、多くの読者に支持されている。
9:『玄鶴山房』のこと
芥川晩年の作品「玄鶴山房」は、彼の不眠症や幻覚症状を背景に完成されたものであり、友人の宇野浩二はこれを高く評価していた。
物語は、外見上の風流さとは裏腹に、家庭内での疑念や嫉妬、愛憎を中心に繰り広げられる。主人公玄鶴は病床で自らの浅ましい一生を回顧し、自分だけでなく周りの人々も同様に浅ましい生活を送っていたことを悟る。そして玄鶴は死を迎えるが、その葬儀は参列者たちにとって表面的なものに過ぎなかった。
筆者は「玄鶴山房」を読むことで、人の一生の意味について深く考えさせられた。芥川の文学の卓越性は、そのような人生の根本的な問いを読者に投げかける点にあると感じる。
神田の古本屋で見つけた駒尺喜美の「芥川龍之介の世界」という論文は、芥川に対する深い理解と愛情を持つ筆者の視点から彼を分析しており、その中で駒尺は自らの人生の混乱と芥川との出会いが論文を書く動機となったことを語っている。芥川の作品は、人生の真実を探求する人々にとって共鳴し、また読者を人生について考えさせるものとなっている。
10:では、生きるとは
人間は誰しも「生きること」や「人生」の意味についての問いを持っているが、日常の忙しさに紛れて忘れがちである。テレビタレントの逸見氏が癌で亡くなるまでの間に残した手記には、生きる意味についての考えが綴られていた。一方、作家の芥川龍之介は、人生の醜さに悩みながら、高い理想と現実とのギャップに苦しんでいた。彼の心の中には「人間はもともと美しく、愛は純粋であるべき」という強い信念があり、現実の醜さや堕落を目の当たりにすることが苦痛であった。芥川のそのような感じ方は、彼自身の内なる声や高い理想に根ざしており、そのギャップによって彼は絶えず苦闘していた。
11:本来の自己と現実の自己
芥川龍之介は本来の高潔な自己と現実の醜い自己の二重性を持ち、これは多くの人が持つ自己認識の形である。私たちは、本来の自己と現実の自己との間のギャップを日常的に体感している。大阪外国語大学の学生が「人間の疎外」について論じたとき、彼は最も疎外感を感じるのは自分自身の中だと述べた。これは実存主義が提唱する考え方と合致し、人間は自己の真実を追い求める存在であり、それは非常に難しい挑戦である。
さらに、芥川や実存主義者は、聖書の教えている人間観を、無意識のうちに証明している。聖書は、人間が最初に神によって完璧に創造されたが、堕落してしまったと教えている。これは物理のエントロピーの法則、つまり系全体のエネルギーが最大となるように進行するという法則と一致する。
要するに、人間は元々完璧な存在であったが、堕落してしまい、その原点に戻ろうとする闘いを日常的に経験しているというのが、芥川の描写や実存主義、そして聖書の教えである。
人間の堕落により、人間自体だけでなくその環境も腐敗し、真の愛がエゴイズムへと変質した。人間はもともと高い水準で創造されたが、その水準から「落ちた」存在であり、その高い水準を持つときの美しさや完全さに対する憧れが絶えない。これはミルトンの「失楽園」や聖書の「創造と堕落」の教理と同じ考え方である。人間は神とともに生きるように創造されたが、その道を逸脱し、その結果苦しんでいる。真の人間の姿や存在目的は、神のもとでの生活を通してのみ理解できる。
芥川龍之介は、この高いスタンダードや理想に強く憧れたが、その理想と現実との間のギャップに絶望した。彼の厭世観は突発的な出来事や一時的な感情からではなく、彼自身の人生観や哲学から生まれたものである。そして、神を認めない者の悲劇は、絶対者である神以外のものに絶対を求める矛盾にある。
要するに、人間は高いスタンダードや理想を持つが、その理想と現実とのギャップから多くの苦悩や絶望を感じる。芥川もその例外ではなく、彼の厭世哲学は彼自身の理想と現実とのギャップから生まれた。
12:芥川の理想主義
芥川龍之介は、表面的にペシミストやニヒリストと見受けられることが多いが、その根底には高度な理想主義が潜んでいた。その理想主義の極みからの落ち込みこそが、彼を絶望的ペシミストやニヒリストへと変えた原動力である。これは、ある意味、第二次世界大戦中の日本の多くの青年たちと同じで、彼らは高い理想を持って戦場へ駆り出されたが、結果的に失望し、後にその絶望から犯罪に走る者もいた。
この絶望感は、理想が高いほど深刻になる。芥川がボードレールの「悪の賛美」ではなく、その背後の善への憧れを理解していたように、真の天才はその深層を感じ取れるのである。
一方で、白樺派の文学者たちは自然主義文学の一線を越えて、新しい道を開拓しようとした。特に武者小路実篤は、トルストイの教えを基にしてキリスト教の人道主義を追求したが、その追求には問題が多く含まれていた。トルストイの教えがキリスト教の根本的な部分、すなわち「悔い改め」や「主イエスへの信仰」を欠いていたこと、そして人間の本質的なエゴイズムや罪についての認識が不十分だったことは、武者小路の理想と現実とのギャップを生む要因となった。
このエゴイズムや罪に関する議論は、マルクス経済学や共産主義にも通じるものがある。マルクスは人間の本質を理解しておらず、彼の理論には現実の人間性を考慮した部分が欠けていた。このことから共産主義国での悲劇が生まれ、武者小路のような考えを持つ者たちも同じ罠に陥った。しかし、キリスト教の教えを深く理解していた白樺派の有島武郎は、そうした理想主義の落とし穴を早い段階で見抜いていた。
結論として、理想主義は美しいが、その背後に潜む真実や人間の本質を見極めることなく追求すると、絶望や失望につながる。芥川の理想主義や白樺派の文学者たちの挫折は、この事実を如実に示している。
白樺派の理想主義は、時に狂気を伴い、その一方で無批判に人間を「あるがまま」に受け入れる哲学としての弱さを持っていた。このヒューマニズムが提供する「自然な心」は、罪の問題を一旦放置し、人間の欲望をそのままの姿で追求することを奨励した。それは志賀直哉や里見惇のような人々に、自分の欲望を疑問視することなく追求する自由を与えた。そして、彼らがその哲学を実践する中での出来事は、社会全体に大きな影響を及ぼす可能性があった。
しかしその危険性は、多くの人々が真にその哲学を実践することはなかったため、表面上では目立たなかった。しかし、その哲学が掲げる「為たいことを為」のスローガンは、極端な場面での行動を引き起こす可能性を秘めていた。例えば、一般的な常識を無視して、物を盗んだり、他者を攻撃したりするような行動は、この哲学の極端な解釈として存在する可能性があった。
武者小路のような白樺派の代表的な人物も、その哲学の影響下で時に矛盾する行動を取ることがあった。一方で、淡谷のり子のような歌手は、彼女自身の信念を持ち続け、社会的な圧力に屈することなく自分の道を歩んだ。
芥川龍之介は、白樺派とは異なる理想主義を持っていた。彼の求める理想は、「本もの」、つまり絶対的な価値を持つものであった。この「絶対への希求」は、白樺派とは対照的なものであった。
そして、絶対的な価値を求める人々、特に太宰治や三島由紀夫のような人々は、その求めるものがこの世に存在しないことを痛感し、絶対的な美や愛を求める中で破滅していった。彼らが追求した「絶対」は、この世界の相対的な価値とは異なるもので、それを求め続けることは彼らにとって重大な結果をもたらした。
結局、人間が追求する理想や価値は、その人それぞれ異なるものである。しかし、その追求の中での行動や選択は、社会全体に影響を及ぼすことがある。そして、それは時に美しいものとして、また時には破滅的なものとして現れることがある。
絶対の美は、真の存在の中にこそ見いだせる。この美を求める者は、神にのみその答えを見出す。そして、その人の人生や芸術は輝きに満ちる。我々は、そのように造られた存在なのだ。フルトベングラーの言葉にもあるように、バッハの音楽が非凡な輝きを持つのは、彼が絶対の美を神に求めていたからだ。
バッハが絶対の美を求める行動は、他の音楽家とは一線を画している。フルトベングラーが言った通り、彼のようなレベルに達する者は現代にもいない。この真実は、我々が心の奥底で真に満足するのは、絶対者、つまり神の元に戻ることだけであると教えてくれる。人は神とともに生きることが運命であり、その中で初めて真の人間としての役割を果たすのだ。
芥川龍之介も、この絶対を求める者のひとりだった。彼がその道を選ばなければ、彼の終焉は避けられないものとして予見されていた。芥川にとって「絶対」や「真実」を求めない人生は、考えられないものであった。そのため、彼は全てにおいて「真実」を求め続けた。それは、イカロスのように、彼の飛翔であり、同時に彼の転落でもあった。
真の人生、本当の美、真実の愛を求める気持ちは、我々全ての人々の心の中に共鳴するものだ。そして、その真実を追い求める中で、多くの人々はこの荒れ狂う世界の渦中に巻き込まれ、混沌とした日常の中で迷いながら生きていく。
しかし芥川は、飽くなき探求心で「真実」を追い続けた。彼の愛の探求も、彼の人生観そのものを反映している。彼の作品『好色』に見られる平中の女性に対する姿勢は、芥川自身の愛に対する姿勢と重なる。彼は理想の女性、真の美を追い求めていたのだ。
彼らの心の中には、究極の美を追い求める欲望があった。芥川龍之介だけでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチもまた「モナ・リザ」を通じて、真実の女性の美を描きたかったのかもしれない。そして、ダンテがベアトリーチェに対して持っていた永遠の愛と尊敬の気持ちも同じだ。このように、真の美に心から惹かれた人々は、永遠の女性の美を求めていたのだ。
だが芥川の欲望は、真の美を超えていた。彼は真実の愛、美、そして思考を求めていた。しかし、彼が本当に欲しかった「本物」はこの世に存在しないと、彼自身が理解していた。それはただの幻であり、現実には存在しないものだった。だから彼は、この世に存在しない絶対的な美を求めて破滅していった。彼が真実の美を求める中で感じた、失う瞬間の深い悲しみと孤独を、彼の作品『玄鶴山房』からも感じ取ることができる。
時は流れ、かつての美しさを持った女性も、老いて力を失っていく。彼女たちが持っていた美しさや魅力も、時が経つにつれて失われていく。だが、芥川はそれでもなお、真実の美を求め続けた。
彼の心の中には、現実の醜さと絶対的な美への追求が交錯していた。これが彼の心の深い部分に根付いている厭世主義の原因となったのだ。彼のこの哲学は、深くて癒されることのないものだった。
しかし、芥川はただの厭世家ではなかった。彼の中には、もう一つの顔、もう一つの性格が隠されていた。
13:芥川のもう一つの顔
芥川龍之介は一般には厭世哲学の体現者とみなされがちだが、その背後には高尚な理想主義が見え隠れする。これは隠された理想主義などではなく、まさに彼が声高に叫び、行動に移そうとした理想である。多くの人がその矛盾に気づかないのは驚くべきことで、それはわれわれが芥川に対して持つ偏見のせいかもしれない。
筆者は気まぐれで若者たちに芥川に対する印象を尋ねてみた。回答は「鬼才」や「青白い」など多岐にわたったが、「理想主義者」というラベルを貼る者は一人もいなかった。この一点が、芥川を理解する上での難題となっている。
人々は、芥川の思想を「高い理想は実現しない→厭世哲学→絶望」と一元的に捉えがちだ。しかし彼はその高い理想に対して真剣に挑戦していた。この矛盾、この二面性は量子力学における「相補性原理」に似ている。つまり、一つの素粒子が波と粒の二つの性質を持つように、芥川もまた矛盾する二つの側面を併せ持っていたのだ。
彼が語った「恋愛及結婚に就いて若き人々へ」というメッセージは、その高い理想主義が如実に表れている。そしてその一方で、彼自身はその理想を常に体現できていたわけではない。しかし、それだけで彼を一方的に評価することはできない。なぜなら彼はその高い理想を持ち続け、それを求めたからだ。
この点が非常に重要で、それが理解できない限り、芥川の全体像を把握することは不可能である。彼がロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」などの文学作品に熱中し、高い理想を持ち続けたことが、その証左とも言える。
この理想主義が芥川の本質であるとすれば、私たちはその事実に目を向けるべきだ。教育者や社会人として、私たち自身が「本音」と「建前」の使い分けに翻弄されることが多いこの時代、芥川のように高い理想に対して真摯に取り組むことの価値は計り知れない。それが厭世哲学や絶望といった外見に隠されているかもしれない、それでもその内面の価値は矮小化されるべきではないのだ。
矛盾した存在かもしれない、理想と現実のギャップに悩むかもしれない。しかし、それこそが芥川龍之介の人間像を形作る鍵であり、その矛盾する多面性を理解することで、初めて彼の本質に近づけるのではないだろうか。
芥川龍之介は一生懸命に広く知られた、表面的な道徳とは違う本当の「道徳」を説いた。彼がそのような人生を送る価値がないと判断したのは、多くの「先生」たちが体制に迎合して行う表面的な道徳教育だった。芥川の考える道徳は、真の純愛と実質的な「本もの」を追求するものだった。それが芥川の真剣な警告と批判の対象となったのは、資本主義に汚染された封建的な道徳や、それに従う体制だった。
彼は「ここは道徳にあらず、単に事実なり」と公言していたが、これは芥川の「本もの」を求めるほどに高い理想主義と、その理想と現実のギャップによるものである。事実として、芥川が注意していたように、全ての共産主義国で「ノーメンクラトゥーラ」と呼ばれる特権階級が出現していた。彼らは、一般人が貧困に耐えながら生活する中で、贅沢な生活を楽しんでいた。
芥川は社会改革にも一度は目を向けた。彼は特に「玄鶴山房」に出てくるリープクネヒトのような人々に関心を持っていた。しかし、最終的には、何度革命を起こしても、人間の本質は変わらず、特権を持つ少数は「阿呆と悪党」であり続けるだろうと悟った。
それでも芥川が真剣に「本もの」を求めたその姿勢は、偽善的な道徳教育を施す「先生」たちとは一線を画していた。世間の表面的な善悪に囚われず、真実を追求しようとした彼の高尚な理想主義は、現代においても多くを教えてくれる。
この理想主義は彼が痛切に感じていたもので、その矛盾と綻びは、社会全体、特に共産主義が崩壊し、特権階級がその犠牲者を踏みつける北朝鮮や中国で見て取れる。特に、天安門事件での学生たちの血に染まった青春は、芥川が言っていたように、体制に服従するだけの「道徳」がもたらす悲劇であり、その全貌を照らし出している。
芥川の言葉と行動には矛盾もあったが、その背後には高尚な理想主義があった。そして、その理想主義が時に彼自身や他の人々を矛盾と混乱に陥れたことを理解することで、初めて真の芥川龍之介を理解することができるのだろう。
芥川龍之介はまるで時空を超越した先見の明を持っていた。彼は共産主義の理論が実際には特権階級を作り出し、大多数は貧困に沈むだろうと痛烈に指摘していた。この特権階級に彼は「阿呆と悪党」という言葉で容赦なく刃を振るった。
では、どうして彼はこれほどまでに鋭い洞察力を持っていたのか?それは「全体主義」に対する彼の理解に起因している。芥川にとって、全体主義は政治家にとっての麻薬であり、一度その道を歩み始めると引き返すことはできない。このように、彼はナチスや日本の軍国主義を例に全体主義の破滅的な本質を詳細に探っていた。
対照的に、民主主義は政治家にとっては「厄介なもの」である。なぜなら、民主主義では人々が自由に意見を表現し、その声に耳を傾ける必要があるからだ。全体主義とは違い、権力は分散していて、一元的な支配は困難なのだ。
芥川の考えでは、右翼も左翼も、極端な形では全体主義になり得る。だからこそ、中庸の道ともいえる「民主主義」が何よりも大切なのだ。
彼のこの洞察は何に基づいているのか。それは単に理論や学説に留まらず、「人間性」に対する彼自身の深い洞察から来ている。それゆえに、左翼の理論家が口にする美辞麗句に騙されることはなかった。彼は、人間の根底にあるエゴイズムが、理想的なユートピアを作り出すことはないと知っていた。
「ユートピアは実現不可能、だが、実現したい」—この矛盾した願望が芥川の心の中で渦巻いていた。彼は、人間性そのものが矛盾している以上、完璧なユートピアは存在しないと断言した。だが、その非論理性、その矛盾こそが彼を特別な存在にしていた。
駒尺喜美はこの芥川の「英雄的」な側面を見事に捉えていた。芥川は生涯を通じて人生の矛盾に失望しながらも、それに対する答えとしてニヒリズムを選ばなかった。人生がどれだけ虚無的であろうと、その中に美を見出し続ける。それが真の「英雄」であり、それが芥川龍之介であった。
駒尺女史は、「英雄論」を理解する鍵として、特に『英雄の器』という作品を推奨していた。この作品は一般にはほとんど無視されているものの、芥川龍之介の「もう一つの顔」を把握するには不可欠な一冊だと彼女は力説する。作品の主題は、理性や現実を超え、自らの信念に従って戦い続ける者こそが真の英雄である、というもの。
しかし、駒尺女史自身が知らなかったのは、「英雄」とは虚無の世界で絶対を求め、その結果、破滅(自殺)する存在であるという「公式」だった。その不備は、芥川が「健康に敗北した」という、実際には的外れな解釈に繋がっていた。この誤解は、芥川の外面の堅実さ、その人生の秩序に騙されていたからかもしれない。
この『英雄の器』は、項羽が真の英雄かどうかを問う作品であり、項羽自身が敵軍に立ち向かいながらも悲劇的な最期を迎える。呂馬通は項羽のその行動を「卑怯」とまで評する。しかし、劉邦はその逆に、「英雄の器だったのさ」と項羽を称賛する。
この議論は芥川自身にも当てはまる。芥川は理想を求めながらもその不可能性を認識していた、その矛盾した存在が「英雄論」の中心なのだ。
さらに興味深いのは、この作品には芥川自身の自殺の予兆を読み取ることができる。彼が項羽のように命を絶つ運命にあるのだと、この作品を通して暗示されている。
結局のところ、芥川は理想が実現しないと知りながらも、それを目指すことによって一定の期間生き延びた。しかし、いつしかその矛盾が彼を追い詰め、最後にはその命を断つ選択をした。
芥川はこの矛盾を「信仰」と捉えていたようだ。それ自体が悲劇である。何れにせよ、我々はついに、芥川の思想の土台、その矛盾する論理体系を捉えることができた。それが「信仰」についての新たな議論の出発点となるだろう。
14:芥川の「信仰」
芥川龍之介の人生と思想は多くの人々にとって一種の迷宮である。学者たちはその奥深い心の輪郭を描こうとし、ある者は仮説を設け、その真実に近づこうと試みる。しかし私は確信している、芥川の存在の核心に迫るためには、その思想の土台を穿つ必要があると。
芥川は一人の哲学的探求者であり、矛盾と均衡の中に本物の「道」を探し求めた。彼が見せる芸術至上主義、英雄主義、そして最後には中庸主義、これらはすべて一瞬の煌めきとして存在する。
例えば、『舞踏会』や『毛利先生』はそのような瞬間の美を永遠にする力を持っている。とりわけ『舞踏会』では、明子とフランスの海軍士官ジュリアン・ヴィオの一夜の出会いは、現実の重みによって消えていくかに見えても、永遠の宝として彼女の心に住む。
しかし、芥川の探求心は「刹那の感動」に満足するものではなかった。それがいかに美しく煌めいていても、その輝きは相対的なもので、真に彼を満足させるには至らなかった。ここに芥川の厭世哲学と自殺への道が待ち受けている。だからこそ、彼が真に求める答え、救済は絶対者、すなわち神にしか存在しない。
驚くべきことに、芥川はその「神」に歩みを進めた。主イエス・キリストの教えに触れ、人間を「絶対者」へと引き上げるその力に気付き、救済への道を探り始めた。この道を突き進むならば、芥川は破滅から逃れ、永遠の輝きを得る可能性が開かれるのである。
では、芥川がこの道を進んだならば、どうだろうか。彼は絶対者、神との一体感を味わい、その輝きの中で真の平和を見つけたのかもしれない。彼がたどり着いたその先には、人生の苦悩や矛盾が消え去る究極の解答が待っているのだろう。
そしてここに、芥川の真の救済が存在する。主イエス・キリストが与える救い、それが人類を「絶対者へ」と回復するためのものであるとしたなら、芥川もまた、その救済を求めて歩んでいたのかもしれない。そして、もしそうだとしたら、彼の内面の迷宮は、最後には神の光で照らされたのである。
15:聖書との出会い
大正時代の芥川龍之介が『きりしとほろ上人伝』で描いた十字架上のイエス・キリストは、文学と信仰が交錯する舞台で真に印象的な瞬間を生んだ。
この時代には、社会的キリスト教が盛り上がりを見せていた。東大の教授でありクリスチャンでもある吉野作造は、日本初の労働組合や農民組合の創設に関与し、社会主義的な要素を取り入れて大いに注目を集めた。こうした運動は多くの人々に影響を与え、一見すると社会改良に寄与しているように見えた。しかし、問題はその運動がキリスト教の根本的なメッセージ、すなわち「贖罪」から目を背けていたことだ。
一時的な社会的改革が目の前に広がっていると、人々はつい永遠の救済を見失いがちだ。その結果、キリスト教はその本質から遠ざかり、信仰そのものが形骸化する。プロテスタンティズムは個人主義に囚われすぎていると批判されるが、その反動として社会改革ばかりを追求すると、教会は世俗化してしまい、真の教えが薄れていく。
芥川がこの難解な環境で、イエスの贖罪の意味をしっかりと捉えていたことは驚くべき事実だ。イエス・キリストが十字架で人類の罪を贖ったこと、これがキリスト教の核心であり、聖書の中心メッセージである。そしてこの教えを受け入れた人々は、神の永遠の計画の一部として真の救済を得ることができる。
社会改革やユートピアの追求は時として魅力的に見えるかもしれない。しかし、その先にあるのは、罪と争いが消えることのない退屈な世界だ。真の救済は、イエス・キリストが十字架で成し遂げた贖罪に始まる。それは私たちが神から逸脱した罪が赦され、真の意味での救済につながる第一歩なのだ。
一般に、罪意識が薄いとされる日本人がこの贖罪の意味を理解することは少ない。しかし芥川がこの重要なテーマ性を見逃さなかったことは、人々にとって鋭い洞察として残るだろう。
芥川龍之介は、文字通り霧の中を歩いていた。周囲は社会的キリスト教や欧米文学に影響された神秘的な空気で満ちており、その多くはピカードが言うように「神よりの逃走」を表現していた。この曖昧な雲海で唯一明確な道を示していたのは、室賀の聖書的指針だけだった。
この微妙な状況で、芥川はトルストイが厳しく批判したルナンの『イエス伝』などからも影響を受けていた。彼は、ある種の精神的交差点に立っていた。それは、神の存在に対する信念が永遠の救済か破滅かを左右する一歩手前の場所だった。
芥川は、漱石よりも、より危険な救済の端に立っていた。福音は人々をこのように窮地に追い詰める。哲学はそこまでの力を持っていない。
関口安義氏が指摘するように、イエス・キリストに対する人間の答えは、長い歴史を通じて我々に問いかけられてきた。なぜなら、キリストは十字架で全人類の罪を引き受け、神の刑罰を代わりに受けてくれたからだ。これは、読者よ、あなた自身の罪にも関係する。主イエス・キリストがあなたのために近づいてきたのだから、あなたはこの救い主に対して「イエス」または「ノー」と答えなければならない。
簡単に言えば、「イエス」ならば天国、人としての真の本質に回帰する。しかし「ノー」ならば地獄で、自分自身の罪に対する代償を払わねばならない。これは誰にもできることではない。
福音は「両刃の剣」である。信じれば救われ、信じなければ破滅する。芥川も、この切迫した状況での決断が求められていた。彼が室賀の指導を受け入れるか拒否するかは、全て芥川自身の責任だった。
漱石でさえも、このように窮地まで追い込まれたことはなかった。室賀、ある無学な人物が、天才である芥川を天国か地獄かという極限の状況に導いた。これこそが福音の力だ。
しかし芥川は、その救済の前に日本人らしい抵抗を見せた。この絶対的な救済の前で、彼はどうするのか?それは芥川自身が決めることだった。
16:芥川の求道
おしの、佐佐木家の浪人の妻、はほぼキリスト教の教えに心を開くところまで来ていた。しかし、十字架上でのキリストの最後の叫び「エリ、エリ、ラマサバクタニ(わが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?)」
に心を閉ざし、彼女ははっきりと言った。「私の夫は戦場で一度も後ろを見せたことがありません。それに比べ、あなたがたの神はどうなのですか?」その言葉は、筆者がかつて信仰に疑問を持った瞬間と同じであった。しかし、その後、私は理解した。キリストの叫びは、人類の罪のために、神に審判を受ける決断であったと。
日本においては、神、すなわち絶対者に対する認識が希薄である。それが、芥川龍之介のような優れた知識人でさえも、神を全く理解していない現実を生む。相対的な日本教の観点から絶対を評価し、破滅を招くのは、実に悲しい。それに対し、西洋のマフィアでさえ、命がけで神に許しを乞う。それほど、絶対者、すなわち神に対する畏れと認識が深い。
夏目漱石のような希少な日本人が、絶対について真剣に考え、それを理解しようとしている一方で、日本人の多くは絶対に対する理解が乏しい。これが、芥川が「越えられない溝」に捉えられた原因である。その溝は、実は日本教そのものであり、その核心は「相対化」にある。
もし芥川がこの溝を越え、絶対者、すなわち神に心を開けたなら、彼が求めた「絶対の美」に到達できたであろう。しかしそれは、彼が最後まで越えられなかった。この点において、我々が議論の基点を見出すことができる。そしてそれは、ただひとつの決定的な点である。この「越えるべき溝」こそが、日本教、そしてその「相対化」である。この視点からは、もし絶対を相対化してしまうと、破滅を招くのである。そして、芥川はまさにその道を選び、自ら命を絶ったのである。
17:芥川の最後
部屋の薄暗い光の中で、彼の手はペンを持ちながら震え、口元からさえも涎が滴った。芥川龍之介は永遠の朦朧とした状態で生きており、目を覚ました瞬間さえも、その頭ははっきりとしなかった。この不明確な状態は、せいぜい半時間か一時間しか続かない。生活の杖となるのは、刃が鈍った細い剣であった。
芥川は心身ともに壊れた男だった。絶対の希求者でありながら、救済の瀬戸際でその救済に背を向けた時、敗北と破滅は避けられない結末である。漱石が以前にしたように、芥川も救済に背を向け、破滅の影が彼の戸口まで迫っていた。そして、その絶望のどん底で、彼はもう一度イエス・キリストを見上げた。
最後の力を振り絞り、芥川は救い主イエス・キリスト、つまり絶対者―神―へと近づこうとした。彼はその後、『西方の人』とその続編を書き上げたが、それらの作品は読む者、特に彼に最も近かった室賀を失望させた。芥川は絶対の救済を相対化してしまったのだ。最後まで彼は「日本教の亡霊」に取りつかれていた。
筆者もその失望は痛いほど理解できる。芥川が真実に対して持つべき謙遜と服従を忘れ、聖書を全く主観的に解釈していたからだ。その結果、聖書が伝えようとするメッセージを全く受け取ろうとしなかった。芥川は絶対を相対化し、真のキリスト、真の救済を見い出せないまま、心を永遠に閉ざしてしまった。
我々の心を燃やすキリストを求めるエマオの旅人たちのように、芥川もまた人々を引きつけ続けるキリストの魅力を認めざるを得なかった。「私は失敗したが、人々よ、キリストを求め続けてください」と、彼はそう訴えかけているように思える。
結局、芥川を破滅へと導いたのは日本教であった。これは全てを相対化する邪悪な思想だ。人は神へと回帰しなければ、救われることは絶対にない。その道を阻むのがこの相対的な思想である。芥川は主イエス・キリストの絶対的な福音を相対化し、それが彼を破滅へと導いた。
我々は神を神と認め、絶対を絶対としなければならない。もし読者が日本教に従い、絶対的な救済―主イエス・キリストの十字架の福音―を相対化するなら、芥川と同じ運命をたどるだろう。しかし、その日本教を超え、絶対を絶対と認めれば救われるのだ。
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