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【短編小説】 白鳥の川

 「また今日も出勤するのか」

 そう男は一人つぶやいて、壁の時計を見た。6時を指している。男の名は沢口という。沢口は洗面所で顔を洗うと、着替え始めた。ワイシャツとスラックスを身に着けて。ネクタイを締める。ジャケットを手にするとすぐに玄関を出る。まだ6時半より前である。自家用の軽自動車に乗ると出発した。

 沢口は車通勤している。片道約30キロだが朝はところどころ渋滞にはまるので50分から一時間はかかると見て通勤しなくてはならない。始業時間は8時30分だから一時間程度前に着くのだが、職場近くのコンビニに入る。いつも缶コーヒーを買って駐車場で時間をつぶしている。いや、暇な時間を過ごすというよりは、職場に入る気分を整えているというところか。

 沢口はタウン情報誌の広告営業の職に就いている。仕事のスタイルは8割がた飛び込み営業である。なれない仕事だったが、上司らに励まされてどうにかやってきた。春に転勤で勤務する営業所が変わった。そこの職場環境にうまくなじめないでいる。丁寧な電話での受け答えを揶揄されるなど、いじめのような目にあっている。

 早い話、以前の営業所と比べると開けない職場なのである。少しでも目につくといいストレスのはけ口にされてしまう。本人としてはたまったものではない。沢口は限界までがまんしてしまうようなタイプである。いつも始業5分前に入るように時間調整している。朝が始まった瞬間から帰る時間が待ち遠しくなっていた。もっともなかなか帰れないのだが・・・

 「おはようございます」

 沢口は営業所のなかに入った。

 「おはよう」

 散発的に声がかかる。沢口は自分の机の前に来た。クスクス笑いが斜め向かいの席からもれてくる。それを無視して椅子に腰かける。所長が始業を告げると各社員三々五々それぞれ営業先に出発する。タウン誌は週刊で、校了日の木曜以外はほぼ外回りになる。一日中顔を合わさないで済むのはわずかな救いである。

 「沢口、まじめにやってこいよ」

 古株の山田が横柄に言ってくる。沢口は内心あわれな男だと思いつつ、苦笑いしてその場をとりつくろった。沢口は30歳だが、入社2年目である。まだベテランとはいえない。この営業所でも下っ端扱いされている。

 他の営業所ではもう2年目でエースクラスの扱いの社員もいる。結果を出しているからだが、その点でも沢口はぱっとしない。加えてやる気をなくしている状況である。

 沢口は営業車に乗ると出発した。大きな農場を過ぎる。やがて物流ターミナルを横切って海に向かう進路をとった。今日は顧客との打ち合わせは入っていない。本来なら飛び込みの新規開拓営業に勤しむ日であるが、今の沢口に飛び込みをやる気力はない。

 飛び込み続ければ契約は取れるという実感があるが、門前払いをたくさん重ねる非効率かつ、精神的負担の大きい営業方法である。

 小一時間車を走らせて海に着いた。テトラポットに波が打ち寄せる。岸はコンクリートで固められている。沢口は車を端に寄せると車外に出て大きく伸びをした。潮風を浴びて海を眺めると幾分か気分が晴れた。しばらくして車に戻り、シートを倒して寝そべった。心地いい海鳴りを聞きながら眠ってしまった。今日の仕事はもう終わりだ。

 帰りは遅い。早く帰ろうとするとやじが飛んでくるような職場である。古株の社員がいなくなってからでないと帰りづらい。やっと夜までたどり着いてもまだ攻防が残っている。

 沢口の帰宅時間はだいたい22時以降である。入浴して夕食を食べるとそうそう夜更かしはしていられない。居眠り運転まがいのことをしてしまって以来、夜はなるべく早めに寝ているが、0時より前に就寝できることは珍しい。

 最近は昼間も営業をろくにしなくなったが、常に疲労感が抜けない。精神的にかなりまいってきていることと無縁ではないだろう。

 翌日も6時台に出勤したが待機ポイントを変えた。川沿い道の駅にしてみた。毎日その前を通っていてトラックが複数台駐車しているのは見てきた。コンビニより広いし、出勤前に川沿いを少し散歩するのも気分転換になるかと考えた。沢口は車を止めると早速川に向かった。

 岸のベンチの近くに老いた男性が座り、パンをちぎって放っている。落っこちたパンのかけらを白い大きな水鳥が食んでいる。コブハクチョウだった。沢口は間近で見るのは初めてなのでその大きさに少々不気味なものを感じた。大きなスイカ二つ分かそれ以上はあるし、首が異様に長い。

 「白鳥は冬になると飛んで来るんですよ。この川でもちらほら見られるようになりました」

 老人が話かけてきた。

 「そうなんですか。とっても大きいですね。イメージだともう少し小さいような気がしていました」

 「間近で見ると案外気味が悪いでしょ。少し離れたところから見るのがちょうどいいのかもしれませんね。まあ、ご覧のように私にはある程度慣れてしまいまして」

 風に乗って異臭がしてきた。沢口の足近くに大きな糞があった。

 「あっ、そろそろ行かないと」

 「これから出勤ですか。行ってらっしゃい」

 「ありがとうございます」

 沢口は車に乗ると会社に向かった。

 それからは出勤前に道の駅に寄って老人と一緒に白鳥にパンをやるようになった。すっかり白鳥との触れ合いが朝の日課になっていた。いつも大きな糞が異臭をただよわせていたので、それだけは正直にいうと嫌だった。

 道の駅に寄るようになって二週間程度が過ぎた日のことである。いつものように沢田はロールパンの袋を持ってベンチに向かった。今日は老人しかいない。

 「やあ、あんたか。白鳥は死んだよ」

 「えっ、どうしてですか?」

 「どうも、パンがいけなかったらしい。一度通りがかりの人に注意されたことがあったんだよ。白鳥は水草しか食べないからパンなんて上げたらおなかを壊すってね」

 「そうなんですか・・・・・」

 「でもね、パンを投げるとおいしそうに食べるからね。ついついやってしまった」

 「おなか壊していたからいつも糞が近くにあったんですね」

 「言われてみれば、そうだね」

 老人はにやっと笑った。

 「あっ、そうそう白鳥はおいしかったよ。」

 「えっ、食べたんですか?」

 「鶏よりもおいしいね」

 老人はさらに笑った。

 絶句した沢口は踵を返すと車に乗り込んだ。車を走らせながら今日会社に辞表を出そうと決めた。白鳥の味がどんなものか気になってもいた。

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