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NHKニュースの違和感

正直なところ、あまり政治ネタは書きたくないのだけれど、自分の備忘録の意味も込めて一言書いておこうと思う。言うまでもないことだが、以下はわたし個人の意見であり、わたしが何らかの集団に属していたとしても、その集団とは何の関わりもないことをお断りしておく。
NHKには素晴らしい番組が多いと思う。とくにドキュメンタリーや過去の歴史に迫るノンフィクションなどは民放の追随を許さない作品が少なくない。ドラマも見応えのある作品が多いように思うし、一見民放か思わせるバラエティ番組もあって楽しませてくれる。
わたしが若かった頃はNHKといえばお堅いイメージが先行していて、実際NHKにチャンネルを合わせる(←死語?)ことは少なかった。ところがいまではNHKを一番よく見ている。とくにBSは圧倒的にNHKである。
いまもむかしも変わらないのはニュースの視聴で、ニュースといえばNHKをメインに見ている。とくに気象や地震などの防災情報は、やはりNHKに最も信頼性を感じている。NHKニュースをメインに見てしまうのは、父がNHKのニュースをいつも見ていたことが影響しているように思う。これは推測に過ぎないが、昭和の時代を生き抜いてきた人たちにとっては、ニュースといえばNHKであり、防災情報などに限らずNHKのニュースに信頼性を置いていたのではないだろうか。
政治関連のニュースについても同様な感覚だったのではないかと思う。いまここで具体的に検証することはできないが、当時のNHKニュースは中立性を保っていたように思う。ところが(まもなく終わってしまう)現政権下になってからというもの、NHKの政治関連ニュースに一種の偏りを感じてしまうのである。
政権与党については大きく取り上げ、例えば街の声や政治部記者のコメントなどにも不自然な編集が感じられる。つまり、いわゆる忖度である。NHKの政治関連ニュースにこのような感覚を持つのは、たぶんわたしだけではないと思うのだが、どうだろうか。
毎年のことだが、8月は原爆や終戦(戦争体験)に関する番組が多く放送される。ドラマであれノンフィクションであれ、NHKが制作した番組は素晴らしく、ついつい感動してしまう。しかし、そのすぐ後で不自然な忖度を感じさせるニュースを見せられると、感動したこころが一気に冷めてしまう。NHKとは何なのかという違和感だけが残る。
一度このような違和感や不信感を持ってしまうと、その感覚はさらに深まり、なかなか拭い去ることができなくなる。NHKのニュース、とくに政治関連ニュースの信頼性は、少なくともわたしの中で地に落ちてしまった。
さらに、素朴な疑問とでもいうか、そういったニュースを読んでいるアナウンサーたちは、どのような気持ちで読んでいるのだろうかと思う。少なくともアナウンサーは与えられた原稿を正確に読むことが期待されている仕事なのだから、業務をこなしているに過ぎないのだが、その内心はどうなのだろうか。
アナウンサーとは異なり、キャスターと呼ばれる人たちは、発言などにある程度の自由裁量があったはずである。しかし、政権与党にやや批判的なコメントをしていたキャスターたちもいつの間にかいなくなってしまった。
現政権下で社会やメディアの分断が深まったとする識者も少なくない。もちろん反対意見もあるだろうが、わたしもいろいろな面で分断が深まったと思っている。もともと「右寄り」「左寄り」の差はあったようだが、その差が現政権下で顕著になったように思う。
そのような中にあってNHKは「公共放送」として中立性を保ってきたように思う。「公共放送」云々(NHK自体にいろいろな問題が指摘されていることも含めて)はさておき、「公共放送」すなわち「国営放送」ではないはずである。
そしていまでも、ニュースに関してはNHKを見て、また信頼を感じている国民は多いように思う。だからこそ、NHKの国民に対する影響力は非常に大きいはずである。言うまでもなくメディアは絶大な権力を有している。そのことをNHKの中枢にいる方々はもちろんのこと、多くの社員の方々も真摯に受け止め考えてほしいと、こころから願う。
最後に民放についても一言。民放には各々異なる立場があって良いと思うが、マスコミにとっての最重要課題は権力の監視であることを忘れないようにしてほしい。「ペンは剣より強し」である。テレビ朝日系列の『報道ステーション』の前身にあたる『ニュースステーション』もよく見ていた。いつだったか、そのキャスターを務めていた久米宏さんがこんなこと(正確な言い回しではなく内容的に)を言っていた。いまは政権与党を批判しているが、もし与党が下野し現野党が政権を取ったら、新しい政権与党を批判していく、と。
マスコミが取るべき姿勢を明確に表現していて、まだまだ若かったわたしだが、この言葉に非常に感銘を受けた。だからこそいまでもこの言葉を思い出し、ことある毎に噛み締めている。
われわれは芸術を鑑賞するように政治を鑑賞するだけでは許されない。鑑賞するという行為自体がすでに政治に含まれていることを忘れてはならない。

追記(2020年9月7日21時)
タイトル画像は金沢21世紀美術館にある通称「レアンドロのプール」を下から撮影したものである。この作品は、鑑賞するという行為自体が作品の一部となっている体験型芸術作品である。上に記した政治を鑑賞することの隠喩のつもりである。

https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=7

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