先日ふと思い付いたことを以下に書き連ねてみる。もちろん細かな推敲などしていないので、論旨も支離滅裂の可能性があるので、いわば「うわごと」のようなものである。 人は皆、老いる。誰も老いは避けられない。人は生まれると同時に老いはじめる。生まれたばかりの頃はもちろん、「若い」と言われる頃は自分が老いはじめていることに気づかない。老いとは何かもわからない。けれど老いは確実に近づいてきている。 そしてあるとき、人は老いに気づく。通い慣れたいつもの街角を曲がったとき、その角の後に
春は別れと出会いの季節だという。学校に在学中ならば、学年が上がってクラス替えがあるかもしれない。これまでのクラスメイトと別れ、新たなクラスメイトとの出会いが待っている。卒業ならば、進学や就職で新たな人間関係が築かれ、それこそ自らの環境が大きく変化することも多いだろう。社会人も人事異動や転勤転職などで、同様の経験をする季節である。良かれ悪しかれ、みんなが新たなステージに向けて動き出す。 では、社会の「現役」から引退した高齢者たちはどうだろうか。現役世代の動きとは異なるかもし
つい先日、いつもの大学病院で先天性心疾患(ファロー四徴症)の定期検診を受けてきた。これまでどおり新幹線を使っての日帰り受診である。ところが今回の検診結果はいつもどおりではなかった。これまで長い間、前回の結果と特段の変化なしと告げられる状況が続いてきた。 ファロー四徴症には「四徴症」の名前のとおり4つの特徴的な症状(病態)がある。ごく簡単にいうと、ファロー四徴症の心臓は「心室中隔欠損」「大動脈騎乗」「肺動脈狭窄」「右室肥大」の4つの異常を併せ持っている。検診のメインである心
【2023年10月21日追記: 都合により本記事の続編は断念することといたしました。拙い投稿に対しまして「スキ」をしてくださった方々には御礼を申し上げますとともに、もし続編を期待してくださっていた方がいらっしゃったとしたらお詫び申し上げます。】 九鬼周造(1888 - 1941)は『「いき」の構造』や『偶然性の問題』などの著作で知られている哲学者です。以前からこの二冊については岩波文庫版を購入し読んできましたが、興味深い内容ながら、素人が理解するのはなかなかむずかしいのが実
光があるところに影が生じるという。 なぜか宇宙というものが存在して、そこに自ら光や熱を発生する恒星という天体が生まれた。われわれにとって最も身近な恒星は太陽である。たぶん太陽の光や熱のお陰で地球上に生命が生まれた。われわれが物を見たり周囲の景色を眺めたりできるのも、太陽が発する光のお陰だ。 太古の人類が暮らしていた環境では、太陽が地平線の下に没すると、周囲は闇につつまれる。晴天であれば、星明かりがわずかな光源として役立ったかもしれない。もちろん月が出ていれば、月明かり
知っている人も多いと思うが、天文学で用いられる単位に「光年」というのがある。「年」が付いているけれど「時間」の単位ではなく「距離」の単位である。光の速さで1年かかる距離のことを指していて、それが1光年である。光の速さを秒速30万キロメートルとすると、1光年は約9兆5000億キロメートルになる。 いまの季節、夜の8時9時頃に空を見上げると、晴れていれば天頂のやや南寄りにオリオン座が見える。オリオン座を鼓の形に見立てると、天頂に近い上辺の左側に赤っぽい星が見えると思う。それが
何度も書いているが(しつこい(笑))正規雇用の仕事に就くことなく一生を終わりそうだ。ところで、正規雇用であれ非正規雇用であれ「サラリーマン」という「職業」がある。もっとも、最近はあまり聞かなくなりつつある言葉だ(と思う)。わたしくらいの年代だと、植木等の「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ♪」というフレーズを思い出す。 サラリーマンを「職業」と書いたが、本来給料をもらって働いている(雇用されている)者を指すはずで、簡単にいってしまえば、自営業者以外はみんなサラリーマンに
山路は登れないので、家に籠もって、夏目漱石が『草枕』の冒頭で書いた有名な一節を読みながら、こう考えた。 まず、漱石曰く、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
今年(2023年)春からはじまる朝ドラ『らんまん』は、「日本の植物学の父」と呼ばれる植物学者・牧野富太郎(1862 - 1957)をモデルにしたドラマである。牧野富太郎は高知県で生まれ、学歴がないにもかかわらず、ほとんど独学で植物分類学を究めた植物学者として知られている。「雑草という名の草はない」の名言でも知られている。何年か前に彼の「自叙伝」を読んだが(「青空文庫」でも読める)それこそ波瀾万丈の生涯を送った人物で、一般的に地味な科学者の人生とは異なり、ドラマのネタとして大い
今年の秋になれば、満年齢で「古希」を迎えることになる。古希は「古来希なり」の意味だそうだから、むかしは70歳まで生きる人は少なかったのだろう。ところがいまは、70歳くらいで亡くなると早死にのように言われ、そう思っている人も少なくないのではないだろうか。それはそうだろう。75歳にならないと「後期高齢者」にならず、医療費が1割負担になる前に死んでしまったら、何だか損をした気分にさえなるというものだ。 しかし、世間の「常識」とは裏腹に、この歳までよく生きてこられたなというのが自
詳しいことは知らないが、日本には干支というものがあって、今年は卯年、ウサギ年ということになっている。日常的にウサギを見ることはないので、本物のウサギがどんな行動をするのか、これまたよく知らないが、ウサギはピョンピョン跳びはねるイメージが広く知れ渡っている。そんなわけで、年明け早々から、ニュースなどを見ていると、お偉い方々や芸能人、街行く人たちまで、まるで示し合わせたかのように「今年は跳躍の年にしたい」と宣っている。イメージとちがうことを口走ると白い目を向けられそうな雰囲気だ。
一匹の虫が花に誘われて花にとまった。そこへもう一匹の虫が来て、やはり花にとまった。最初の虫に注目すると、誘われてとまった花も、もう一匹の虫も「他者」である。そもそも、虫を取り巻く自然そのものも他者である。生命ある花や虫だけが他者ではない。あるいはまた、自然にとっては虫や花も他者である。 虫は、花の香りか何かの刺激を知覚して花にとまった。科学はそう答えるだろう。しかし、同じ種類の花は数多くあるにもかかわらず、なぜ「この」花にとまったのか。科学は答えられるだろうか。虫がとまった
夜半ふと目がさめると雨音が聞こえてきた。庭に落ちる雨音と、すぐそばの窓の外で屋根を打つ雨音の二重奏。ごくたまに車が通り過ぎる以外、静寂な空間にリズミカルな雨音が心地よく響く。少し朦朧とした意識の中、雨のせいなのか歳のせいなのか、たぶん両方で記憶が過去へと巻き戻されていく。 初めての東京での一人暮らし。受験した大学は全滅し池袋の予備校へ通っていた。同じ歳頃の若者が集まっていたとはいえ、人に声をかける勇気など持ち合わせていなかったので、教室ではいつもひとり。理想だけは高かったが
五人の和装の女性が大きな天体望遠鏡を取り囲んでいる。そのうちの一人は熱心に望遠鏡を覗いている。他の女性たちは順番を待っているのだろうか。望遠鏡の向こう側の女性は待ちきれないのか、望遠鏡の先にある宙を見上げている。ちょっと不釣り合いにも見えるが、そこがまた魅力になっている不思議な絵である。 『星をみる女性』と題されたこの絵を描いたのは太田聴雨(おおた ちょうう)という日本画家。つまり、この絵はまぎれもない日本画である。太田聴雨は1896年(明治29年)に仙台で生まれ、1958