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f植物園の巣穴

先日、梨木香歩さんの『椿宿の辺りに』を読んだ。
そうして「これはしまったぞ」と思った。

梨木香歩さんは、私の大好きな作家さんだ。
好きなあまり、作品のすべてを読み切ってしまうのが惜しい。だからいつも図書館で背表紙を眺めるに止め手には取らず、そろそろ梨木香歩的な成分が足りなくなってきたな、もしくはこちらに十分受け入れる態勢が整っているな、というタイミングで満を持して借りてくる。そうやって1冊ずつ長く楽しもうと思っている作家さんなのだ。

先日もようやくその時がきて久しぶりに借りてきた『椿宿の辺りに』の作中で、私は「f植物園の巣穴」という単語を見つけた。すぐにピンときた。これはあの本だ、と。

だてに背表紙を眺め続けているわけではない。梨木香歩さんの本は読んだもの読んでないものにかかわらずだいたいのタイトルを把握している。『f植物園の巣穴』というのは梨木香歩さんの別の著書のタイトルだ。

それが『椿宿の辺りに』で出てきた。ということはこの2冊はシリーズものだということだ。しかもなんだか『f植物園の巣穴』のネタバレ的なかんじがしないでもない…。うぅ、なんでこちらを先に読んでしまったのか。

『f植物園の巣穴』という本はかねてより気になっていた。本棚のなかでは「f」という文字は目立って見えるし、はたしてどういう内容なのかまったく予想がつかないからだ。

こうなったらと『椿宿の辺りに』を図書館に返却するとすぐに『f植物園の巣穴』を借りてきた。普段なら梨木香歩的成分の枯渇まで待つものの、いたしかたない。乗り掛かった舟だ。

ということで、前置きが長くなってしまったけれど『f植物園の巣穴』について書きたいと思います。
(前置きも長かったですがここから先はなお長いです。あしからず…)

入れ子式の物語

まずは作品の構造的な話をしたいと思う。

他の本の話ばかりして申し訳ないのだが、梨木さんの別の本で『ピスタチオ』という作品がある。

『ピスタチオ』は『物語性』が一つのテーマになっている話だ(と思っている)。そのテーマを象徴するように、物語のなかに別の物語を挿入する形が取られている。物語のなかにまた物語が入っているのだから、入れ子式の物語構造だと思う。
『椿宿の辺りに』と『f植物園の巣穴』の関係はそれに近い。

『椿宿の辺りに』の作中の物語として『f植物園の巣穴』が出てくるのだ。『f植物園の巣穴』は『椿宿の辺りに』の登場人物のうちの1人が書いた物語ということになっている。このことは『f植物園の巣穴』だけを読んだのでは分からない。私はたまたま『椿宿の辺りに』を読んだからそうだと分かるのだが、別々の作品をこういう形で関連付けるのは面白いなぁと思う。

また作中の人物が作中の出来事をどのように物語として昇華していくか、というのも見せてくれるので、作家志望の私としてはかなり楽しいものだ。

格式とユーモラス

さて梨木香歩さんの好きなところといえば文体も欠かせない。

たとえば、高校時代の歴史やなんかの年配の教師を思い浮かべよう。
教師の話ぶりは抑揚がなく格式張って小難しい。しかしそんな真面目で面白みのなさそうな教師がふいにジョークらしきものを呟くことがある。私はそういう真面目さのなかにふいに差し込まれるユーモアが好きだった。誰かこれに気づいただろうか、皆も面白いと思っているのだろうか、と気だるさが充満した教室でひっそりと笑みを隠すことが、楽しかった。

梨木さんの本は、そんな面白みがある。

この本も、文章は読みやすいかそうでないかと言えば、読みやすくはないと思う。ストーリーがテンポよく進むというよりは、風景描写や心理描写が多く、現在やら過去やら記憶やら幻やらなにがどうだと説明もなく行ったり来たりする展開だ。よく理解できない。そういうものをつらつら読むのは、なかなか忍耐を必要とする。

ちなみに私は、この手の延々と続く描写や小難しいかんじのある小説を読むのが大好物である。これでこそ読書という気がするのだ。そのなかに面白さがチラリと見える瞬間があれば待てをくらい続けた犬みたいに喜んで飛びついてしまう。

『f植物園の巣穴』も文体は古いかんじに書かれているが、やっぱりクスリと笑える場面がいたるところにある。
たとえば謎の歯医者で妙な詰め物をされる場面。

―そうですねぇ……。やっぱり在庫は切らさないようにしないといけませんわねぇ。いつ患者さんが見えるか分かりませんものねぇ。
―まったくだよ。
―今度から気をつけます。
今、今だ、今、気をつけてくれたまえ!

『f植物園の巣穴』p32

どうでしょう。主人公のつっこみが必死で、思わずクスリとしてしまいませんか。こういうのがもう、大好物なんです。

大人のファンタジー

この本をざっくりと分類するなら和風ファンタジーになると思う。
しかもなかなかに大人の、ファンタジーだ。

物語の主人公でいたいという夢

自分は自分という物語の主人公である、と思える人はどれくらいいるだろうか。
子供のころはたとえそう思っていても、世の中を知りまわりを知り、自分がいかにさもない存在であるか知ってしまった大人には、難しいことではないか。それを解決する手段の一つが自伝小説ではないかと私は思っている。

子供のころの姿に戻ったり、懐かしい我が家に連れていかれたり、あくまで意識はいまの自分でありながら過去を振り返る様子は、まるで定年後に自分の人生を顧みて書いた自伝的小説のようだ。

実際に、『椿宿の辺りに』でこの話が作中人物の半自伝的物語であると明かされるのだから、そう思わせる文体(中年男性が書いた自伝小説感)に作り上げている梨木さんの筆力の凄さが分かる。

私はこの本を読む間、このように自分の人生を振り返れたらどんなにいいだろう、と何度も思った。こんな風に自分を物語の主人公に出来たらと。
それを形にして見せてくれている時点で、この物語は大人の夢を叶えてくれていると思うのだ。

ファンタジーの先にあるもの

大人のファンタジーたる所以のもう一つは、ファンタジーな世界を冒険した先に何があるか、ということだ。

穴に落ちてその先の異世界を旅するとなると、もしこれが主人公が子供だったら夢とか希望とか勇気とかそんなものを手にするのではないか。
しかし穴に落ちた主人公はもうすでに大人である。

大人は狡猾だ。楽に傷つかずに生きる方法を知っている。嫌なこともやがて忘れると知っているし、だからこそ時間が記憶を押し流してくれるものと甘えている。このファンタジーの主人公は、頭が固くなって忘れることに甘えた大人である。
その大人が冒険の果てにつかむものは、キラキラしたものではなく目を背けてきた過去と自分なのだ。

辛い過去。自分の醜い部分。

目を背けて忘れたものは、消えていない。流れていったのでもない。堆積しているのだ。滞っているのだ。流れないことでそれはずっとそこで、表に出ることを待っているのだ。

目を背けることや逃げることでは解決しない。表に出して見つめて流してやることで、自分のなかの醜い部分に折り合いをつけていける。

そういうことに気づく旅は、大人にとってはこの上ないファンタジーだと思う。

水を治めること

梨木さんは「治水」をテーマにした物語をいくつか出されている。『f植物園の巣穴』もその一つだった。

水を治めるということ。

ここでいう水とはなにか。治めるとはどういうことか。

この点について梨木さんは1つの物語で語り切るということをしていない。
ダム建設と底に沈む村々を書くときもあれば、雨と植物と体内との水をリンクさせるときもある。水を「流れるもの、流すもの、脅威となり命となるもの」として概念としての「治水」を書くこともある。

『f植物園の巣穴』でも主人公は滞留していた「水」を流すことができるが、「治水」についてはそこまではできないと割り切っている。その先を語るのが『椿宿の辺りに』であるし、難しさ虚しさに目を向けたのが(他のシリーズのものになるが)『冬虫夏草』なように思う。

「治水」が重要なテーマだと示唆される一方で語り切られていないことが気になる場合は、それらの著書も読んでみることをおすすめします。

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それにしてもやっぱり面白かった!

主人公が最後とある事実に気づきこれまでの旅を共にした少年と感謝を伝え合う場面は本当に感動的だった。
これは、先に『椿宿の辺りに』を読んでしまったことが失敗だったのではないかという当初の懸念を覆す感動だった。むしろ先に読んでいたからこそ、という気さえする。

梨木さんの物語は淡々とした日常描写に少しのユーモラスを加え、そして思いがけないタイミングで唐突に泣かせられることがある。今回もそうだ。私は本当にいつもやられてしまう。

さぁて立て続けに梨木作品を読み終えてしまったので、また枯渇を待つ日々に入ります。

長い記事でしたがここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございます。


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