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『アリスとテレスのまぼろし工場』感想その1 「結界の中の幻影」

この映画の醍醐味は、圧倒的な映像美(特に背景美術、工場や廃墟の風景)、場面に寄り添い時に情感豊かに盛り上げる劇伴音楽、そして登場人物の細やかな表情や台詞で構成された物語全体の雰囲気にあります。
それはさておき…


・恋物語と親子物語の群像劇

今作の主題をひとことで言えば「恋物語の群像劇」に尽きるかと思います。そしてその「恋」は、恋愛成就もあれば失恋もある。そこでまず感じたことから、つらつらと。

まだ、ひらがなカタカナが無かった時代の『万葉集』では“文字(漢字)遊び”が随所に見られるのですが「恋(こひ)」に「孤悲(こひ)」と宛て字した歌人にならえば、今作にはまさに孤悲としか言いようのない悲恋もありました。
※新海誠の映画『言の葉の庭』で使われていた“『愛』よりも『孤悲』のものがたり”といったキャッチコピーで知る人も多いでしょう。
※ちなみに「こふ」という言葉は「対象に想いを寄せる、
強く求める、願う、祈る」という意味があって「請ふ」「乞ふ」「恋ふ」は語源が同じ言葉です。

さらには恋物語のみならず親子物語でもありました。
それも擬似的な親子。実際には生みの子・産みの子ではない(これについては別に書きます)。

岡田麿里さんの手掛けた作品は『さよ朝』と『空青』と今作しか知らない状態で鑑賞したのですが、この人って群像劇がとても上手いんじゃないだろうかな。
親子としては破綻している者もいる。
そして今作の誰もが、この物語の中で確かに生きていると感じられてなりません。

ただし「生きている」とは言っても…それがこの物語のもうひとつの主題で。
生きている人とは言えない、不老不死の幻だから。
生きているとは言えない人は、死ぬこともない。
しかし幻だから消えはする。
そこから逆説的に問うことになります。

「では、“生きている”とは何か」
「人が人であるとは何か」
「人はなぜ“その人”と伴に居たいと願うのか」
「永遠不変の不老不死とは、人にとって何なのか」

・『竹取物語』

「伴に居たい最愛の存在を失い、そこに不死の何の意味があるのか」と物語の最後に嘆き悲しみ、病に倒れ床に伏したまま不死を拒絶したのは、竹取の翁でした。
かぐや姫は人ではなく(現代風に言うなら地球人ではなく)、大きくなった後は永遠不変の不老不死の存在。
もともと人の姿はしていても人の心は持っていなかった。物語の中では“変化(へんげ)のもの”と表現されている。“妖怪変化”と言うとときの変化(へんげ)。

ところが、ある人物の死をきっかけに人の心が少しづつわかるようになっていく物語でもあります。
そんな彼女に人の心というものを、文通で和歌を使い教え続けたのは帝でしたが、人の心を再び消される直前に姫が残した手紙を読み、深く悲嘆に暮れて哀切に感じつつも、最後は帝王として命じた。
「この手紙ごと、不死の薬は天に最も近い山の頂で焼け」
その煙が絶えることなく天に登って行く…として物語は終わる。

定本『竹取物語』は不朽の名作ですが、この物語が千年を超える時の風雪に耐えて読み継がれ続けたのは、この主題が時代の風雪に耐える普遍性を持っているからでしょう。
人の姿をした人ではない人外が人の心を獲得していく。
しかし獲得した人の心は強制消去される。
その、人の心とは何だろうか?
永遠不変の不老不死とは、何なのだろうか?
そこに、人が生き死にする心はあるのだろうか?

今作『アリスとテレスのまぼろし工場』もまた、その系譜に連なる作品だという一面があると思いました。その面から言えば、『竹取物語』が取り組んだテーマへの変奏曲のひとつだとも言えるのかな。
このテーマは、AIモノとかにもありますね。

・神が張った結界に閉ざされた幻影世界

今作の舞台は、「神社の御祭神が、現実世界を転写した幻影世界」。この点を強調してひとことで言えば、この映画は「神話」でもあるのかな。それが言い過ぎだとすれば「神話的ファンタジー」ですね。

© 新見伏製鐵保存会

例えば「自伝である」のと「自伝的要素がある」のとは全く異なる。自伝であるとすれば伝記物語ということですが、自伝的ファンタジーだというなら自伝的要素を含んだ幻想物語だというということですね。
(宮﨑駿『君たちはどう生きるか』を念頭に置いています)

同様に「神話である」のと「神話的要素がある」のとも全く異なる。私が今作を“神話的ファンタジー”と呼んだのも、一応はその意味。
ただし「この物語は神話的要素を組み込んでいるのか?」と問われたら「逆だ」と答えたい。組み込んでいるのではなく、組み込まれている。あるいは、包み込まれている。

今作は物語の主題の中に神話的要素があるのではなく、神話的舞台の中に物語の主題がある。
見伏の神が創った永遠不変の幻影世界の中に、幻影の正宗・睦実と、現実世界から来た“五実”こと沙希を中心とした物語があるのだから当然そうなる。そして見伏の神が自らその幻影世界に登場する。

こう言うと“創造神”のイメージからキリスト教などの「全ての真理を担い給う、万能にして唯一絶対の創造神」を連想する人もいるかもしれません。
しかし例えば仙人は自分自身の仙界を創れるし、天狗や河童も自分達の異界を持ってたり、龍なら龍宮が有名だと思います。

もちろんこの物語そのものが神話だと言いたいわけではなくて。あくまで主役や脇役が演じる群像劇こそがお話の肝であり、神話はその舞台。しかもその舞台を創ったとされる神が、舞台に登場して大きな役目も果たすという、二重構造にもなってて。

私がこれから別稿で主に述べていきたいのは、物語の主題ではなく世界観です。そして物語内部の世界観に始まり、次には物語の内部世界を外側から包み込み支えている神話伝説等に視野を拡げてもみたいかな。
※神話要素の考察については以下の記事に続きます。

世界観の神話要素の考察に興味や関心がなく、主軸の群像劇でなら飛ばして、以下の感想を。

・SFとしての視点についての私見

ところで、『アリスとテレスのまぼろし工場』をSFとして観て納得できなかったり低評価を下す人たちが意外と多いんですよね。
どうもSFの「平行世界(パラレルワールド)」の線で観ているように感じられました。なので、物資の補給はどうなってるのかとか、食料はどうしてるんだとか、時間のループの仕組みがわからないとか...
でも平行世界ってのは、平行して交わらない別世界もまた現実世界ですよね?
だけどこの映画の世界は現実世界ではないんですよ。

今作の幻の世界は神が設けた結界が大きく割れると、同じところに現実世界があって、それを目の当たりに出来る。現実世界とは重なり合って地続きなのです。
そこへ、現実世界の生身の人間である幼女が迷子になって入って来てしまった。

もちろん今作をSFとして楽しんだ人もいます。
しかし「SFとしておかしい」と、そう感じたのであればSFとして観なければいいのに…とは思いましたよ。
※なお「SFと神」というテーマについては別稿として私見の記事を書きました。たいしたことは書けませんが、興味のある方はどうぞ。

なお余談になりますが、自分がのっけから今作をSFとして観れなかった理由は別にあります。と言うのも、時間が静止すれば素粒子レベルで一切が静止しますので。
そこに“永遠”は無く、有るのは“瞬間”だけのはず。
今作のパンフレットにも謳う「時が止まった」とは詩的表現であって、「時間が静止した」という科学的表現ではない、そう受け止めました。
自分がSFとしては観れなかった最大の理由がそれで、「時間の停止」については以下に紹介する動画が楽しいですよ。

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