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2-07-12【[文脈を繋げる者]vs[本質を混ぜる者]は世界の観え方が違う】

『客体空間:短期記憶⇄《意識現象》⇄主体空間:長期記憶』
意識は『客体⇄主体』を一致させたがるだけだ・・・というお話の続き。
「短期記憶が長期記憶にイメージを描く」つまり『理解』にも、
「点を摂取するだけ」と「点を位置づけ線を繋ぐ」
との特徴差があり、人はその理解力を表に出す・・・というお話の続き。

2-07-11のつづき
本著の概要と目次

■内面化のレトリック■

「愛が大事だ」
が『主体律:道徳・本質主義』。
「愛が大事だから、愛する為に、どう具体的にしていけばいいか?」
が『客体律:倫理・行為主義』。

理解の後「では○○せしめる為に、我々はどう具体的にしていけばいいか?」と考えるのが『抽象化』である。
意識現象にとって『具体化=抽象化』である。
「記憶する(客体→主体)Input」と「思い出す(客体←主体)Output」
は同じである。すべての学習は、主体キャンパスにイメージを描くクリエイティブな作業だ。この作業を繰り返し『客観の解像度』が高まる。

それは『外向←客観→内向』の解像度も同じになることを意味する。なので、市場を客観し、自己の主体を体系化させたものを市場に位置づけ、その表現したものを客観する眼が『自己承認』とも同じになる。「矛盾も美意識で包み、手前の客体で手前の主体を承認する」である。『課題抽出力』も「体系化した全体像を客観する」である・・・

その逆が「本質のみを摂取して理解し、そのまま外に投げ続ける」になる。それは「お前ら上手く編集しろ」と本質を投げ散らかしてるのと同じなので、社会では共有し難く、同時に客体の解像度が無い状態なので「己の美意識や才能を殺す」とも同じになる。
『PDCサイクル』で『A:体系化』もせず、ひたすら主体を出し続け、自分の客体で自己の主体を『自己承認』せず、市場に承認してもらおうって姿勢も同様である・・・

誤解されることがあるが、抽象化とは、具体的な思考作業が出来ないと不可能である。『漠然=抽象』と混同する者は、その時点で本質を摂取するだけの者へ偏っているとも言える。
『内面化のレトリック』と名づけようか?行為的な文脈を本質論に変換して、線を点にして、本質に意識を奪われる。「意識は勝手に膨大な文脈を捨て、勝手に長期記憶による情報補完をする」という原則から、主体空間で内面的に閉じだす現象である。
視点を置くだけで線が刻めない。「愛が大事だ」しか言わない。考えているようで、考えていない。行為を模索してない。本質を肯定して評価を集め、「お前ら上手く愛を大切にしろ」と投げるだけ。頭がいい者ほど本質や道徳を"投げる技術"の側を磨き始める皮肉もある。こうして本質主義が行為主義を支配する。無能な人間が有能な人間を支配する。

■行為主義と本質主義■

人間社会は、理解したことをどう応用展開するか?『客体』で意志を共有する。だから型が大事なのだ。線が繋がる刹那を共有し、主体はバラバラである状態を尊重するのが社会性だ。人の『主体⇄主体』同士は刹那で繋がるものであり、それが『共感』で、恒常化さすと依存や同調や洗脳の類になる。理解した点をそのまま出し続けられると共有し難い。創造もし難い。だから本質を投げ合う空間と化したネットは創造的な作業をし難い。線を結ばぬ創造は点を混ぜるだけになる。

例えば日本料理を学んで中華料理を解体したら、守破離で両者を縁起させ、ラーメンが再構築される。具体的に理解した概念を文脈へ脱構築し、異なる概念の文脈を繋いで、構造主義的に抽象化し続ければ、やがて型を宿してあらゆる創造的破壊が具体的に成せてくる。この作業を身につけた者は和風炒飯も作れる。
その文脈は社会へ奉納されて共有される。『プラグマティズム(行為・道具主義)』になって、次々と創造した型を共有しだす。線を繋ぐと解像度が高まる。そして『外向←客観→内向』「外を客観する解像度と、内を客観する解像度は、同じになる」という原則から、創造者は己の主体空間を鮮明に客観して『自己承認』も成し始める。
もし解像度が鈍いと「不幸の渦中の幸せ」や「幸せの渦中の不幸」とかが観えなくなるが、自己承認する者はその空間に位置づいた幸せや不幸を見出し、自分で視点を編集することで自己を安定させるわけである。人は見たいものを見るので、この解像度は見たくない事実の渦中でも希望を拾わす。型が本質を引き出すのだ。

だが「和と中を混ぜてラーメンがある」と本質を理解しただけの者は、和風炒飯は作れない。既に抽象化された概念を摂取しただけの者は、文脈を繋げられない。「多様なレシピを並べる」とは違い「多様な本質を混ぜる」になる。妙に主体的になる。
レシピを知らない。型が無い。型が無いから型を破る行為はただの破壊になる。本質を混ぜるだけ。記憶が散らかる。大雑把になる。それは自己にも向く。解像度が低いので己の才能も殺しだす。本質を道具に使う者がレシピの創造者になり、理解した本質を目的化して現実を変える者が破壊者に化ける。犯罪者の共通点は「整理整頓する習慣が無い」だそうだ。

■文脈を繋げる者vs本質を混ぜる者■

アートを理解し「表現力が大事だ」と主張する者は、誰よりも表現をしていない。しかし「理解した」という意識は、強烈にその者を自己肯定する。主観から抜け出れない。型が無いから殻を破れない。自我を拡張できない。あとは主体空間内をぐるぐる。そりゃ苦しい。
「カラスは白くない!」と主張する者は、誰よりも白いと思っている。「これが私の必殺技だ」と固定観念を抱く者は、技を見抜かれ誰よりも対策を打たれる。人は見たいものしか見ないので、思考範囲が狭いと苦しみを自ら構築しているのと同じになる。

『線』を観るか?『点』を見るか?実在する自分の外で共有される実存は、それ自体には価値は無い。人がどう評価するか?が価値を決める。人は『存在』に意味や文脈を与える。実存に意味を与えて格付けする。それを肯定したり否定する。そして最後に共有する。そういう順番。
だから逆順に、結論(本質という点)だけを先ず摂取するのは、存在に囚われる意識を増幅しているのと同じになる。だから意味論的な順序を守り、自分はそれらを読解する姿勢を先ずつくり、それをどう捉えるか?に意識を向けた方が自然になる。

そもそも「意識が囚われる」とは何か?それは摂取した視点に注目することである。「和食といえば鰹出汁だろ」「中華といえば豆板醤だろ」・・・視点に囚われると、『意識現象=1/100万bit』しか情報処理できないので、主体空間内で『視点移動』ができない。意識が膨大な文脈情報を勝手に捨て、それが思考停止の元凶となるなのだ。
これで本質を主体的に混ぜだすと「散らかすだけ」になる。破壊を成す天才は「理解した多様な本質を次々と混ぜる」のだ。外国の優れた本質を自国にそのまま導入して「これから色々引っ掻きまわすから、お前ら上手くやれ!」とやらかすアレである。

仮に自ら抽象化した概念でも、時たまコレは起こる。「意識の囚われを逸らす」に終わりは無い。自ら抽象化した概念も、例えば「これが私の技だ」とデフォルメしても、そいつは時間的な慣れでやがて点に化けるのだ。肯定されて点に化ける。故に何度も申すように、優れた型を欲し求め、破壊的創造する姿勢の側を持続化することが、線を刻み続ける行為が、すべての軸になる。点の摂取より線の刻み。これが思考範囲の拡張である。
社会で共有され続けるのも、自己承認するのも、圧倒的に型の側である。背景の文脈を抽象化する技術が事を成す。既に抽象化された知識を摂取する、理解する、同意する時、本人は抽象化という作業を、編集を、模索をしていない。「この本質が大事だ」としか言わない者は、その本質を使っていない。仮にアプリオリな純粋理性で脳内の本質を合理化しても、そいつはそのまま現実に展開し難いのである。『行為主義vs合理主義』でも同様になる。

■視点は空間に位置づけてナンボ■

ただし注釈するが、これらは「本質を摂取するな」という意味ではない。賢い者は、本質を摂取するにしても必ず相対的に理解する。二元論的なスケール(ものさし)に変換してからバランス感覚を身につけようと試みる。『常識』の摂取でも同様だ。「この空間とあの空間は常識が違う」と並べて常識を覚える。
もし「本質を混ぜる」で視点の投げ合いを経た次に登場するのは『理想主義』『合理主義』になる。視点に注目していると、脳内でアプリオリに本質を合理化して現実の側を否定するわけで、それは行為的な合理化ではない。一方その逆、現実空間で「本質を位置づける」という行為を模索するのが『プラグマティズム(行為・道具主義)』となる。

客体で「本質のお手玉」をして、そいつを『客観』しながら「どの本質出して文脈に位置づけようか?」を行為する。混ぜるにしても「刹那に混ぜる」のだ。上手い型を選び、美意識で『現実⇄理想』を寄り添わせ、整合せしめる。理想は美意識に宿るわけ。あくまでも『客体律:行為>主体律:本質』。思想としては『プロテスタンティズム』だの『陽明学』だの『禅』だのだ。どちらが上手いか?は言わずもがなだ。
行為メインにすれば、例えば「失敗したら上手い方法の仮説とセットに記憶する」とか「成功したら失敗の記憶を繋げて救い出す」とか、上手い方法が次々と出るわけ。すべての経験を位置づけ繋ぐ。これで自己をコントロールする。
世阿弥の『初心』と通ずる姿勢。テストの点数を過去の自分と相対的に捉えるか?ただの一元的な評価と捉えるか?は、成長段階の有無をその先に規定する。『成功⇄失敗』のスケール化と、『成功vs失敗』の本質二元論は、似て非なる認識である。

何が違うか?高速視点移動!『過去→現在←未来』の未来や過去のイメージが今を否定しだすと、意識は優れた視点も型も含めて現在の側を純粋否定しだす。だから頭をカラッポにして『現在』をあるがままに受け容れる姿勢から、視点移動の柔軟性を確保する方が軸となる。だって過去も未来も自明として『今の記憶』だからだ。これがつまり「本質を現実空間に位置づける」という姿勢の有無になる。
禅問答もラップバトルも現実と寄り添う姿勢が軸。そもそも本著の文体もそうだが、例えば私は単に「行為主義が大事だ」と視点を提示せず、必ず『行為主義⇄本質主義』と並べて表現する姿勢を徹底している。本質は相対的に捉えてインプットすれば、やがて線を刻め得るのである。散々ぱら申してきた『寄り添う』もこの姿勢の有無だ。

■本質を混ぜる=美意識の相殺■

ちなみにこのスケールを提示せずに失敗したのが20世紀後半のサルトル『実存主義』である。「実存は本質に先立つ!実践する哲学が大事だ!」と鋭い考え方を提示したはいいが、大衆は「それカッコイイ!」と実存主義を本質として捉え、本質を肯定し合い、内面化のレトリックと共に社会で共有された。
要するに一部の集団のただの流行りと化した。これで実存主義は本来の役割を果たせず失敗した。哲学史の渦中で「本質主義の哲学は敗北した」と言わせしめた実存主義もまた、本質主義に敗北したのである。大衆は、偉人が「あっちへ行こう!」と指差したその指を見て、「あの指の本質は?」と探り「私もあの指やりたい!」となるわけである。こうして思想が本来の意味と真逆へ走る
『美意識の相殺』である。本著後半でも色々と例を挙げるが、人間社会はこの内面化を歴史的に何度も何度も、ウンザリするほどやらかしている。点を投げるだけで線を刻まない者が状況を支配する。それで悲劇を繰り返している。第二次大戦で体制に本質を摂取させられた現象にうんざりした大衆は、大戦後に不条理という本質を摂取しだす皮肉を演じた。
いじめの現場で「世の中は不条理なのよ!矛盾していていいのよ!理解しなさい!強く生きなさい!」といじめられっ子に主張する教師は、似非実存主義の本質主義者である。「自然を大切にしましょう」と啓蒙せしめる筈の映画が「お前ら自然を大切にしろ!」と主張する人間を増やすだけになる転回もコレだ。人間は理解を介してバカになるのだ。意識は勝手に情報を捨てるからである。

人は本質を摂取して投げ合いたがる。本著が『思想史』と『世界史』を比較しながらお話を展開する根拠も、こういう転回をわんさと炙り出す為でもあり、本著が「人間は望まぬ未来を願って突っ走るバカである」とテーゼを掲げる根拠も、この内面化が上手くないと啓蒙したいからである。世の中には正しいことを間違ったやり方で展開する天才、薬を毒にする天才がわんさといる。私はそれが哀しくてたまらない。

■本質は位置づけ作業をして本質になる■

この『理解=肯定』は人間の本能ではなく文明パラダイムや教育の影響だろう。『産業文明』は「理解は良いこと」を『社会律:ルール』にも『主体律:道徳』にもした。『農耕文明』では「危ないこと」だった。だから密教だのフリーメイソンだの秘伝のタレだの『秘密主義』があるわけだ。「簡単に理解されちゃ困る」だ。それが『情報革命』で揺り戻されるのが現代だろう。だから『サブスクリプション』が時代の平仄に乗るわけだ。

考え方をひとつの視点と理解し、そのまま表に出し、点の側を肯定し合う現象が下手なのである。だから視点を投げたら即座に「線で繋いで位置づける」をやらせればいいのである。だから本質をスケール(ものさし)とすることに意義があるのだ。
互いに異なる二元的な点と点、両者の間に認識の位置づけを自在に出来るようにしておけば、「この本質が大事だ」と意識に囚われる可能性も逸れる具合となる。ココが「理解のスタート地点」となる。「Aが大事」と申して理解を終えるのではなく、「AとZの間」に点を位置づけ理解が始まる。

一元的な点を摂取したら必ず線で結ぶ。更にスケールを多様に重ね、点を空間的に位置づける。二元論をクロスさせて四元論へレイヤー化し、フレーム思考化し、他のレイヤーも重ねて立体化し、レイヤーを重ねて重ねて・・・3次元空間へ。時間を加味して円環の流れを見出し4次元へ。デザイン思考へ。現実空間と理想空間を並列化し、無限ループの回転を螺旋を描く上昇気流にして、その先に個人や組織の目的や理念、美意識を位置づける。アート思考へ。この構造を時間的に動的平衡させ、縁起させ、異質なレイヤーの重なりを串刺しに貫く線を見出してシステム思考へ・・・
すべて『具体化=抽象化』で為される。あとは「位置づける」を模索し続ける。入力した新たな視点を文脈へ解体し、全体像空間へ位置づける。「ココに花を飾れば空間がシュッとする」的な美意識で、様々なエラーをごっそりまとめて一発でビシッと整合させ、最後にロジカル思考で体系化していく具合となる・・・これは先に論じた『守破離』の成長段階とも通ずる。
逆にすると狂うのだ。人間は空間に認識を適切に位置づける能力があるから、本質を適切に扱えるのである。順番のお話。
ていうか「システムとしてものを観る」ってのを21世紀に入るまで人類はやってこなかった。
そういう姿勢の哲学なら東洋にはあるが、哲学もまだまだ伸びしろがある具合である。特に西洋文明は逆から始めてるわけ。『ロジカル思考』も『デザイン思考』も『アート思考』も、みな『システム思考』に内包される。本著の構成もコレで編集している。だからぐわんぐわんと視点移動しちゃうの。

■量が質に化けて本質となる■

『実存』という『客体』に『線』を刻む『量』が、やがて『質』に化けて、最後にその質量に『本質』が宿るのである。その次に本質を全体像に位置づけし直し、線で再構築してようやく『理解』になる。故に本質の摂取だけで「理解したつもりになる」という『ダニング・クルーガー効果』は「理解の半ば」ということになる。
実空間は高次元である。少なくとも5次元はある。「人間は4次元的な認識の位置づけができる」ということは「それを内包するもひとつ上の次元がある」ということだ。そしてすべてのリアルは非言語的な文脈と縁で繋がっているのだ。人間が認識し得るロジックで世界は動いていない。宇宙を構成する普遍的法則はほんの数個。圧倒的にシステムで動いている。AIの思考回路もそうだが、『システム思考』の内に『ロジカル思考』が位置づくのである。

例えば気象予報的に申せば、『高高度気圧配置⇄低高度気圧配置』の差異を眺めて、両者を整合せしめんとして気流が生まれる構造から、天気の変化を予測するのがシステム思考なわけ。この基本設計思想に熱力学的な高い低い、地形的高い低いなどレイヤーを重ね、その上で「この地は数時間後に多湿な気流が上昇して高高度で冷えるから雨になる」とかビシッと言える。
この『自然科学』的なシステム思考の視座から『応用科学』が可能となる。例えば「風速で天気を読む」のレイヤーに「風速で体調悪化する」のレイヤーを重ねれば、新たな予報の開発も可能となる具合。ていうか経営、投資、医学、歴史、数学、アート、物理、社会科学、組織論・・・万物の学問はすべて、このようなシステム思考の認識で捉え得てくる。

そして繋がる。ロジカル思考の者から見ればおそらく別世界のパラダイムだろう。異質な秩序がすべて繋がって観えるのだ。ネイティブアメリカン風に申せば「All My Relations すべては繋がっている」である。この美意識から論理が刻まれるのである。
先ずは全体像!本質は空間に位置づけてナンボなわけだ。論理の出番は最後なわけだ。いきなり「雨は低気圧で発生する」とだけ理解して「低気圧だから雨」とか言っちゃうとおかしな話になる。特にマクロ経済学者はコレばかり。その点『三方良し』とシステム思考してた昔の日本人は相当センスが良い。あれも本著の提唱する『四律』と同じく『システム思考』である。

■リアル世界⇄脳内セカイの位置ズレ■

人間の脳内で位置づく本質と、現実空間で実際に位置づく本質とは、ギャップがあるのである。しかも人は本質に注目することで他の本質を捨てる。本質のお手玉1個だけでジャグリングする者もある。世の中には数百個お手玉する者もあるが、世界は分かりやすい方を評価する。
人は時たま「これが良い」と1次元で世界を認識して主体を閉ざす。よくても「良い事?悪い事?」の二元論スケール一本。なぜそこまで単純化できる?意識を意識しすぎて、下手に意識を肯定して、文脈情報を棄てているからである。

賢い者はあらゆるものをアート的に観て、その設計思想を、美意識を、システム思考的な姿勢で読解し学び続けるわけである。「あの商品はどんなスケールを重ねて?どんなバランスで?どの文脈にどう位置づけてるのかな?ふむふむ」って具合。それもこれも『型』を使った認識だ。『主体律⇄客体律』のベクトルをスイッチングし『具体化⇄抽象化』を作業し続け、その認識を実空間と対比して、線の刻み方を覚えるのである。

四律で申せば『因果律:自然科学⇄社会律:応用科学⇄客体律:短期記憶⇄主体律:長期記憶』である。4つの異質な秩序空間各々で、位置づく本質にギャップがある。自然界の普遍的な法則で動く因果律、人為的な秩序で制御される社会律、それらを眺める客体律、アプリオリな主体律、全部違う。
特に正しい答えの数が違う。例えば「富士山はこう観える」の答えの数が違う。しかし4つは乖離せず、実存はこれらをまたいて存在する。整合せしめんとしなきゃどれかが支配的になり、その他の秩序空間が崩れだす。主体が社会を攻撃して、社会が主体へ反撃する。それは苦しみの原因でもある。本著が前後半で世界史の秩序崩壊を分析するのも、この「四律のどれかが支配的になり、その他の秩序が崩れる」という現象である。

何度も申すが、意識は1/100万bitしか情報処理できず、勝手に情報を捨て、勝手に情報補完しやがるので、意識に頼ってる時点で思考力は低下するのだ。『1bit=0か?1か?』たったコレだけの情報量だ。意識した時点で人間は相当な情報量を棄てているのだ。すぐれた型を身体に叩き込み、事前の『具体化⇄抽象化』の作業を習慣化する行為が大事なのである。「意識が勝手に情報を捨てないように、事前に考える」である。

・・・・つづく
次→2-07-13【「選択する」とは何か?】

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