2-07-8【姿勢のスイッチングで個性や知性が発揮される】
人には『受動』と『能動』2つの姿勢モードがある。
①受動『→客体律→主体律』
客観的に自分を変える。
②能動『←客体律←主体律』
主観的に世界を変える。
これは一方に偏ると上手くない。スイッチングが高速に切り替えできて上手くなる。
■個性を活かす仕事とは?■
異なる概念を上手く衝突させれば、新たな概念が創造される。人間関係において「私とあなたは違う」と認識するから縁起が可能となるならば、セルフィッシュに「私の主体と客体は違う」でも縁起は発生する。主客不一致には価値が宿る。「私を変える」が出来てくる。それは『個性』を形づくる。
主客は時間的感覚にギャップがある。『客体:短期記憶⇄主体:長期記憶』。分子と分母で差異が生じて、『客体:行為』をすれば『主体:心』が変わり、逆に心が行為に個性を与えることもある。原則として、常に主客両者は一致したがっている。
例えば前章で論じた個性タイプ分類を主客に分けてセットしてみる。『客体:会社員⇄主体:職人タイプ』の者は趣味で日曜大工をやる。この者は短期視野で主体も会社員らしくなる可能性もあれば、長期視野で職人業界と繋がる会社員になる可能性もある。この者は本質的に職人タイプであり、それを仕事で活かせれば主客一致するってわけだ。
普通はココで「じゃぁ本質を活かして職人に転職すればいい」と言いだす。才能だけで選択したがる。しかし自分らしく生きて市場で突出できれば幸せだが、普通は自分の得意だけに集中しても頭打ちになる。職人タイプはゴロゴロいるからだ。むしろ似た者同士で群れることに安心し、行動も思考も停止する者もある。それは「居場所が欲しい」ではなく「活かしたい」が目的なら、自分の得意を活かそうとした結果、得意が活かせない状況に陥るとも言える。故に「あの先輩には勝てねぇ!」と悟って飛び出す者があるが、それに気づける者はある意味幸せとも言える。逆に「競争しなけりゃいいんだ」と自分の才能を絞る者も、ある意味幸せと言える。「才能を活かす」と「幸せ」はほとんどの場合乖離しだし、多くの者は後者を選択する。だがココで才能を捨てるのはまだ早い。
得意はどこで活きるのか?・・・異質な空間に自分の得意を位置づけた時である。例えば『客体:経営者⇄主体:学者タイプ』の大学教授がいる。この者は、短期視野で経営の兼業で許した大学で個性を発揮し得る。又は、長期視野で大学経営する教授になる可能性もあれば、客員教授を兼業する経営者にもなり得る。主客ギャップが個性を出すのである。そして異なる空間、異なる人間関係に触れて、自分の得意を変貌させる技を覚えて、いわゆる『ケイパビリティ』を発揮しだす。一般的に思われる「個性を活かすなら、同じ才能が集まる空間に入ればいい」という発想とは逆と言える。そもそも個性は相対的な概念だ。得意を異なる空間に位置づけて、異質な本質を共有し得るから個性は活きだす。
■王道パターンを異質な常識に嵌めてみる■
広義に申せば「社会に自分の得意を位置づける」「社会に己の才能を奉納する」という刹那の行為の連続性が重要なのだ。この機会を増やせば、「才能を活かすか?幸せを選択するか?」の二者択一は出ない。だから異質な空間で認識共有する為の『客体律:倫理』が重要になる。
「コミュニケーションだ」と言いたいところだが、そいつは増やすどころか認識エラーを回避する為に本来減らすべきものなので、ここは広義に倫理とする。それに何より、異質な者同士が交わるわけだから、主体性を出したら他者との共通認識を持てないわけである。共有し得る認識を『客体→主体』へ落とし込むベクトルを作用させねば、「私の得意を認めろ」の主張一方向に陥って致し方ない。前に論じてきた縁起のお話のことである。
「市場に己の才能を位置づける」とは異質な空間の「空気を読む」や「背景の文脈を読む」と同じであり、その空気読解こそが倫理なのである。市場の変化を読解するのも、その空間が常識とする行為やふるまい、倫理という変わぬものを知るから読解できる。あくまでも主客不一致するから差異を読み解けるし、異なる行為をその常識に落とし込むから、その空間も価値に気づけるのである。この辺も『客体<主体』に走り逆にする者は多い。
職人タイプが職人の職場に就職して個性を活かすより、異なる空間で職人的本領を発揮した方が価値が生ずるのである。人は異質な空間に己の才能を位置づけて必要とされるのである。こう考えると兼業には価値がある。
多少理想論をするなら、本分としての仕事はベーシックインカムのように保護されてる方が好ましい。例えば大学なら『客体:学者⇄主体:学者タイプ』の長期視野で地道に研究する。生粋の学者を基準に保護をして(じゃないと稼ぐ為に学者やる奴が大学を乗っ取る)、一方、主客一致しない者の様々な例外を許していった方が本当は良い。組織にも客体と主体があるのだ。
分母はホームで、分子は市場価値。分母は共通認識する知識、分子は異質な知恵である。長期視野と短期視野。才能を育てる空間と才能を発揮する空間は分けて、並べて繋げ、動的平衡させ続ける方が構造的に好ましいというのだ。
俗っぽく申せば『王道』と『邪道』である。倫理を宿せば邪道も王道から逸脱しない。どちらか?ではなく両方宿さないと市場と組織は乖離する。江戸時代の様々な学派は主客一致の王道に偏り、市場と乖離した。それで秘伝の伝承を繋げられたが、しかし競争や創造には適さなかった。組織性も社会に位置づいてナンボである。ちなみに日本型企業は分母で繋がる集合体を先ず形成し、組織的に市場へ個性を位置づける。アメリカ型企業は個々の分子の集合体を先ず集め、競争とマネジメントで市場との整合性を模索すると言える。
主客不一致という心理状態は、一致する者よりも「思考エネルギーを燃焼させる」ということを意味し、それは殻を破ろうとする力でもある。ありきたりのストーリーを磨きに磨いて、異質な空間の常識プロットにそいつを嵌めてみると、急に価値が高まる漫画作品ってある。外国で成功する寿司屋って、現地の食文化を使って創造するのがコツだそうだ。
ちなみに私は『客体:学者⇄主体:芸術家や経営者タイプ』で、デザイナーや経営者視点であらゆる学問を編集してビジョンを構築するのを得意とする。歴史からパターンを引っ張り出して、未来へ繋がる創造の道を導き出す。本著がそもそもコレである。仕事というのは『客体:行為主義』である。コレが基本。だが仕事に染めようとしても染まらないものも抽出される。それが才能というもので、「何の為に?何をしたいか?」というのが「客体と主体」なのだ。この主客一致作業は後々『理念』にも化ける。
■主客バランス■
つまり目的を持ち、行為して、異質な空間で模索して、距離を掴んで、「自分を変える」の円環を客体でまわしていると、「私は何をしたいのか?」が抽出されてくるわけである。『縁』の「えん」は『円環』の「えん」。縁が繋がっていく環境の渦に入ると主体が滲み出る。「私は何をしたいか?」というのは、自己の本質とは少し異なる空間に置いてみて、客体を何かに染めていく過程で抽出されものと言える。『客体律⇄主体律』このバランスが一方の秩序を崩さない程度に、整合性を模索し続けることができて『個性』となる。
そして個性を例外として尊重する組織は、外部と繋がり創造的になる具合になる。中心のコア部分を主体にして、周囲を客体で覆って殻で囲む組織図になる。つまり日本型とアメリカ型のハイブリッド。ちなみにこの最も簡単な構築方法は、企業コミュニティの形成だろう。『市場⇄組織』における『インプット』と『アウトプット』のインタラクティブ性の高速化と持続化である。それは「マーケティング部に任せた」というものではなく、組織の根幹の姿勢の問題である。『ケイパビリティ』を市場に位置づける姿勢である。それが最近流行の『DX』なわけだ。個人においても同様。情報革命はこの「位置づける」が最適化している時代でもある。
そもそも個人の主客不一致が、模索せしめる姿勢を形成する。本著の提唱する四律『因果律⇄社会律⇄客体律⇄主体律』は、異質な秩序空間を並べ、整合性の模索を啓蒙するモデルであり、心理学的な『意識現象』というものも考慮してある。四律から『客体律:短期記憶⇄主体律:長期記憶』の部分を抽出して姿勢のお話をする。本著における「意識が発生する構造」の説明は実に簡単。人には『受動』と『能動』2つの姿勢モードがある。
①受動『→客体律→主体律』
客観的に自分を変える。
②能動『←客体律←主体律』
主観的に世界を変える。
このベクトルの違いだけ。答えを先に言う。これは一方に偏ると上手くない。スイッチングが高速に切り替えできて上手くなる。
主体の長期記憶空間にひろがる記憶、イメージの曼荼羅マトリックスに、客体からの情報を入力することで『意識現象』が発生し、その意識が能動的なベクトルへ向くことで、主体マップを編集する手になるわけである。『客体⇄主体』のベクトルが『意識』だ。常に主客は一致したがっているので無意識でも発生しているが、本著はその辺は特に分けて考えない。意識に引っ張られて無意識の姿勢も決まってしまうものだと捉えている。
「入力された短期記憶が長期記憶を変えるか?」
「長期記憶が短期記憶を否定して出力に出るか?」
「この切り替えが高速で変化するか?」
「一方が勝ち続けるか?」
は、『因果律→社会律→』外の環境に依存する。選択の自由意志もだ。選択肢が多く入力されれば主体マップに多様な視点とリンクが形成され、逆に少なけりゃ固定観念化する。故に選択した時に選択しているのではない。事前にどんな主体のマトリックスを形成しているか?リンクを刻んでいるか?が選択を事前に決定づけている。人は主観的な『選択』ではなく、客観的な『姿勢』を切り替えて自ら動くのである。才能も、郷に入れば郷に従う流れに乗って位置づけができてくる。
顎を3㎝上げて歩くだけで気持ちは切り替われる。姿勢に引っ張られて思考ベクトルが替わる。外の環境に合わせて事前に刻んだ選択を再生する。行為してみる。新たな体験をする。それを主体に刻んで長期記憶を上書きして・・・を繰り返す。
頭を抱えて考えている時、胸で考えるフリをするだけで選択肢自体が変わることがある。カタチから入って思考を切り替えるのである。元気になりたきゃ元気を選択するのではなく、事前に元気になる空間を傍に繋いでおいて、姿勢から入って元気になるだけである。ちなみに現代は「依存する環境を選択する」が増えている時代と言える。
個性のお話に戻せば、外の環境を自らの内に入力しなけりゃ、適切な選択を出せないわけで、下手に個性を出す意思が先走ると、姿勢が恣意的に崩れ、しかも下手なパターンを体験すれば才能とリンクして上書き記憶してしまうわけである。俗に言う「パターン入った」が、己の才能の選択肢に上書きされる。
人間の認識はデタラメだから、下手なパターンが主体に刻まれるとそれにリンクする概念を拒絶しだし、近くに在っただけの無関係な概念も関連づけて拒絶したりもする。我々が出来るのは、その余計なリンクを切り離す為に、上手いパターンを刻んで上書きしたり、無限にリンクを繋いで他の概念と関連づけることだったりする。これが意識が出来る編集であり「変なこだわりを捨てる」でもある。すべて『客体→主体』のベクトルを『客体←主体』に変換する際に上書きされる。
これで『洗脳』の説明もつく。客体の一時記憶に懐疑を与えぬ情報入力を続けりゃいい感じだろう。相手の客体を掌握し、直接主体に情報を入力し続ける。そしてその逆「変化を拒絶する者は何か?」は、主体の視点が多くてリンクしていない状態に、新しい視点が入力されるのを拒絶して頭が固くなる感じだろう。意識が主体内の記憶を整理整頓してなきゃ、人は情報入力自体を拒絶する。特に語彙力が無いと拒絶する。いかに主客のベクトルの切り替えが高速にスイッチングできるか?が重要なのだ。
あるコミュニティで出会った女性の経営者が、指に龍の指輪をしていた。私は「それ何?時たま向き変えてるけど」と問うた。すると「この龍の頭を外に向ければ"与えるモード"、内向きにすれば"頂くモード"に気持ちが切り替わる」と応えた。このスイッチングは見事で、客体から心のベクトルを制御せしめ、更に上手い生き方でもある。バランスである。
■教うるは学ぶの半ばなり■
教うるは学ぶの半ばなり!頭が良い人は、入力情報を主体にチャンクダウンし、即座にチャンクアップして出力に切り替える。『姿勢』の問題。これは主体マップ内のリンクを自ら繋ぐ作業であり、それなら新たな視点が増えても、線で繋がっているので心は安定する具合になる。ちなみにこれを助けるのが『コーチング』。
逆に受動的に学ぶと視点が増える一方で、そうなると人は「繋がらない」のが苦痛で視点の入力自体を拒絶しだす。この差異は何か?出力する為に学ぶと『抽象化』という作業が加わるということである。
『客体の分子』へ『主体の分母』をチャンクアップする際に、主客一致を模索する姿勢があれば、概念の塊を編集せしめる反作用が機能しだす。具体化と抽象化を高速で切り替え続ける。こいつが主体内のリンクを形成する。複雑な概念を学ぶ際、それを誰かに説明する為に学ぶ者は、単純に主体に視点を落とし込んでいない。アウトプットする為に自分で抽象的な説明へ要約しながら学んでいる。
故に既に要約された説明を受ける者より理解も深くなる。主体内でリンクを結ぶので比喩も上手い。逆に視点が多く入力されて出力しない場合は、主体マップのリンクが繋がらないので混乱に陥る。要約された学びを受けても、他者に要約されちゃっているからこそ、理解が出来ないのである。
その「出力する姿勢で自ら要約しながら読解する」の副産物が環境適応能力である。「市場に己の才能を位置づける」である。主体マップのリンクが多けりゃ環境にも適応しやすい。選択肢が多いから。というかここまでの説明で必要とする本質は環境適応本能のみであり、構造を理解すればその他の本質論は一切必要無い。「○○力が必要だ」とか一切言う必要が無い。まぁ語彙力や基本的な知識の詰め込みは必要だが、『理解力』なんてものは必要無い。主客のベクトルをバランスさせればいいだけだ。
個性のお話で言い換えれば「己の才能を位置づける為に、異質な空間の倫理を学ぼうとする姿勢は、それそのものが環境適応能力である」という意味になる。それが『寄り添う』になり、市場と才能を縁起せしめる。あとはそのコツを刻んで生きればいいというお話になる。
最大の情報を最小にして伝える。何を出し?何を捨てるか?網羅してポイントを絞る。バランスを図って抽象化している時、人はもの凄い考えている。ココが軸なのである。縁起のお話と整合させれば、このバランスは『距離感』のことでもある。だから出力する為に学ぶ姿勢というのが軸であり、それが偏るなら、入力を絞るとか、出力を控えるとかの調整が必要になる。視点が多くて編集が難しければ、一旦その読解から離れるのもアリなのだ。じゃないと主観的に環境の側を否定したがって致し方ない。一旦離れて余計な観念を削ぎ落とし、心を軽くして再度学びに行けばいいのである。固執する必要も無い。視点が多いだけでリンクが無いと内に籠り、逆に視点が少なけりゃバカみたいに自己主張をし続ける具合。点と点を線で繋げて『客体⇄主体』はバランスする。
プレゼンする為に学習するのも意外とアリなのだ。『松下村塾』もコレだ。陽明学的な行為主義「バカになって突っ走れ!」は、常に頭をホワイトキャンパスにして、ゼロから学び、ゼロから教える姿勢の側を持続化させた。故に自己の主体に染み込まぬ学問は「分からない」で保留できた。そして「得意な者に任せる」ができた。こいつが『倫理』を築いた。だから才能を試したがる者が続出した。生徒が教師に教えを説く授業だった。学びは行為そのものだった。行為が心を形成させた。
現代社会にもこういう場は探せばあるものだ。それはとても楽しい。本著は心理学に興味無いのでみなまで言わぬが、この主客整合モデルだけで他にも色々なことが説明つく。
・・・つづく
次→2-07-9【キャラチェンジの美学】