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弥生人は入れ墨をしていたのか?


魏志倭人伝に入れ墨の記述

3世紀に中国の陳寿[ちんじゅ]という人が書いた魏志倭人伝には、倭人の風習も詳しく描かれています。特に倭人が入れ墨をしているという記述が有名です。

男子無大小、皆黥面文身
男子は大小となく、皆、黥面文身す
男子は大人と子供の別なく、みな顔面と身体に入れ墨をしている

魏志倭人伝:読み下し文・現代語訳:『魏志倭人伝の謎を解く』
(渡邉義浩、中公新書、2012年)

僕は弥生人が入れ墨をしていたという、魏志倭人伝の記述は正しいと思います。なぜなら、倭国からは239年に難升米[なんしょうまい]、牛利[ぎゅうり]という名前(※1)の武人が洛陽を訪れ、魏の役人は倭人に会っているからです。

40年ほど前の記憶ならば人々の記憶に残っていたはずです。倭人の外見について、陳寿が想像で間違ったことを書くことはないと思います。

 (※1 人名の読み方は『魏志倭人伝の謎を解く』によりました。それぞれ「なしめ」「ごり」と呼ばれることもあります)

ただ、すべての弥生人が入れ墨をしていたとは思いません。その理由は2つあります。

入れ墨と朱丹は両立しない

1つは魏志倭人伝は入れ墨の記述の後に、次のようにも書いているからです。

以朱丹塗其身體、如中國用紛也
朱丹を以て其の身体に塗るは、中国の粉を用ふるが如きなり
朱や丹をその身体に塗ることは、中国で白粉[おしろい]を用いるようなものである

同上

入れ墨をしていた人たちが、朱丹で体を赤く塗るでしょうか。僕は入れ墨と朱丹は両立しないと思います。男子は入れ墨をして、女子が朱丹を塗っていたというのも考えにくいです。

どうしてこんな矛盾する記述になったのでしょうか? 陳寿自身は倭国を訪れたことはありません。倭国を訪ねた使節団の報告書(見聞)や、洛陽まで案内された倭人からの聞き取り記録、倭国と交易している人々の記録など、複数の資料を集め、単純に魏志倭人伝として合体させてしまったからだと思います。

おそらく、倭国には男子が入れ墨をしている地域もあれば、入れ墨はせず、朱丹を塗っていた地域もあるのではないでしょうか。

近畿では弥生時代に入れ墨の表現が衰退

もう1つの理由は、弥生人が作った造形の表現です。

入れ墨の表現として埴輪が挙げられることがありますが、埴輪は古墳時代の5世紀になってからです。弥生時代には土器や石棺に描かれた人面に入れ墨の表現が見られるのです。

設楽[したら]博己さん(東京大学)はこれらを「黥面[げいめん]絵画」と呼んでいます(『顔の考古学』(設楽博己、吉川弘文館、2020年))。

トップ写真は愛知県安城[あんじょう]市の亀塚遺跡から出土した壺です(国立歴史民俗博物館展示レプリカ)。弥生時代後期、邪馬台国と同じ時代のものとされています。

人の顔が描かれているのがわかります。1977年に出土し、最初は何の文様かわからなかったのですが、破片を組み立てて、人面であることがわかったのだそうです。初めて人面だと確認されたもので、人面文様の研究のきっかけになりました。

この人面文様の目元や頬にはたくさんの線が描かれていて、これらは入れ墨の表現(黥面絵画)だと思われます。弥生時代後期でも東海地方には、入れ墨をした人たちがいたのです。

安城市文化財図録(顔の各部解説あり)

黥面絵画は日本全体で40例ほど出土しています(設楽博己「近畿地方における黥面の消長」(『纒向学の最前線』分割版1 p35-42、2022年)。

不思議なことに黥面絵画は、近畿地方には4例しかありません(※2)。

京都府森本遺跡
京都府水垂[みずたれ]遺跡
大阪府亀井遺跡
大阪府溝咋[みぞくい]遺跡

(※2 線刻が入れ墨の表現かどうかは判断が難しいことがあります) 

大阪府森本遺跡の人面付土器の文様
(『纒向学の最前線』「近畿地方における黥面の消長」より)

近畿の黥面は、目の周り(上下)の単純化した表現です。設楽さんはこれらを「森本型黥面絵画」と呼んでいます。

弥生時代の黥面絵画のほとんどは東海地方(一部は関東地方)と瀬戸内地方に分布しています。東海と瀬戸内に残る複雑な表現を、設楽さんは「備讃濃尾型黥面絵画」と呼んでいます。

複雑な黥面は東海地方と瀬戸内地方に残り、近畿地方では衰退していったのです。設楽さんは以下のように述べます。

○近畿地方で典型的な備讃濃尾型黥面絵画が認められないことは、イレズミに関して吉備地方や濃尾地方と距離を置いていたとみなすべきだろう
○近畿地方では…黥面に積極的ではない。…京都府域に類例はあるものの、大和地域ではまだ検出されていない。…当時の政治的な最有力地である大和盆地でイレズミにネガティブな評価を下している可能性は捨てがたい
○大和盆地で備讃濃尾型黥面絵画資料が出土したときには、持論を再考したい

『纒向学の最前線』「近畿地方における黥面の消長」(設楽博己、2022年)

近畿で黥面絵画が衰退していった状況を考えると、人々の入れ墨の風習も衰退していた可能性が高いと思います(実は九州も黥面絵画は少なく、同じことが言えます)。

弥生時代は渡来人によって水田稲作がもたらされましたが、依然として狩猟や漁労が中心だった地域も少なくないことがわかってきています(『コメを食べていなかった?弥生人』(谷畑美帆、同成社、2016年))。土器や墓制も地域差が大きいです。

入れ墨の風習も同じように、地域差が大きかったのではないでしょうか。すべての弥生人が入れ墨をしていたわけではないと考えられます。

古墳時代の黥面埴輪:身分の低い人がモデル

古墳中期(5世紀)になると埴輪が登場します。埴輪にも入れ墨の表現を持つ人物埴輪があります。設楽さんは「黥面埴輪」と呼んでいます。

下の写真の盾持人埴輪は、顎の入れ墨の表現が目立ちます。

盾持人埴輪(奈良県茅原大墓[ちはらおおはか]古墳出土)

弥生時代の黥面絵画は顔だけなので、描かれた人の身分まではわかりません。古墳時代の黥面埴輪は武人(特に盾持人)が多く、馬曳[うまひき]、力士など、動物関係や芸能関係の人たちということがわかります。このような黥面埴輪について、設楽さんは以下のように推定しています。

○黥面は近畿地方で弥生時代後期から古墳時代まで消えずに残り、黥面埴輪成立の母体となった
○5~6世紀の近畿地方の黥面埴輪は、あきらかに身分の低い人々と理解される。したがって、3~5世紀のどこかで近畿地方の上層部では黥面に対する禁忌が生じていたことになる

『纒向学の最前線』「近畿地方における黥面の消長」(設楽博己、2022年)

身分が低いと言ってしまうと少し語弊があるかもしれません。中国に派遣される武人は地位は高かったでしょう。

近畿の勢力は中国から画文帯[がもんたい]神獣鏡を入手するなど、中国と活発に交流していました。入れ墨の風習のなかった中国の影響を受け、近畿では先行して、弥生後期には入れ墨の風習が衰退し、身分の低い人たちだけに残ったのだと思われます。

魏志倭人伝の入れ墨の記述は礼記が典拠

三国志の研究をしている渡邉義浩さん(早稲田大学)によると「倭人伝が、倭人の男子の習俗として描いている「黥面・文身」には、典拠がある」のだそうです。儒教の経典である礼記[らいき]です。

○『礼記』…では、東方の「夷」は、「身に文(身体に入れ墨を)」し、南方の「蛮」は「題[ひたい]に雕[きざ]んで(額に入れ墨をして)」いたとする。倭人の習俗とされる「黥面・文身」が、東方の「夷」と南方の「蛮」の 習俗を兼ね備える記述であることが分かる。それは、倭人が「東南」に居住する異民族だからである。
○もちろん、これにより、倭人が入れ墨をしていた可能性を排除するわけではない。

『魏志倭人伝の謎を解く』(渡邉義浩、中公新書、2012年)

 「倭人が東南に居住する」ことは、魏志倭人伝の冒頭に紹介されます。

倭人在帯方東南大海之中
倭人は帯方の東南たる大海の中に在り
倭人は帯方郡の東南にあたる大海の中におり…

魏志倭人伝:読み下し文・現代語訳:『魏志倭人伝の謎を解く』
(渡邉義浩、中公新書、2012年)

魏志倭人伝には「顔面と身体に入れ墨をしている」と書かれていますが、倭人が洛陽にやってきても、身体の入れ墨まではわかりません。身体の入れ墨は、陳寿が礼記の記述と倭国の方向から、想像して書いた可能性があるということだと思います。

記事まとめ:すべての弥生人が入れ墨をしていたわけではない

  1. 魏志倭人伝には「男子は…みな顔面と身体に入れ墨をしている」と書かれています。

  2. 洛陽を訪れた卑弥呼の使いの武人は顔に入れ墨をしていたのでしょう。

  3. 弥生時代の近畿からは黥面絵画の出土は少ないです。弥生後期には中国との交流により、近畿での入れ墨の風習は衰退していたようです。すべての弥生人が入れ墨をしていたわけではないと思います。

  4. 身体に入れ墨をしていたかどうかもわかりません。陳寿が古典から想像した可能性があります。

  5. 古墳時代になって、近畿では黥面絵画の流れを引き継ぎ、身分の比較的低い人たちをモデルに黥面埴輪が作られました。

魏志倭人伝は倭国を「遠い南の大国」であるかのように脚色しているというのが僕の説です。入れ墨の記述もその一環だと思います。そのことは2024/3/8のnote記事に書きました。

※なお、設楽さんの論文には誤記があると思います。

P37右
×一宮市亀塚遺跡
〇安城市亀塚遺跡→PDF版では修正済
P40左
×一宮市廻間遺跡
〇清須市廻間遺跡→PDF版でも未修正

設楽さんの原稿が間違っていたとは思えません。どうして誤記が生じたのか原因が知りたいです。

(2024/11/25最終更新)

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