映画 あんのこと 感想
吾郎ちゃんも出てるあんのこと、気になっていて、重い映画の内容でもあり、少し躊躇してましたが、やっぱり見てよかった。
見終わった後、泣いているんだけど、頭はクリアで
納得したラストだった。
見終わった後は、微かな希望が
あるように思えた。爽快感とも違う、もっと静かなじんわりするものを与えてくれた。
なぜかというと
それが、パンフレットを読むと
唯一救いがあったように思えたシーンは、事実ではなく、監督のオリジナルのシーンだという事がわかり、救いようのない映画という感想がありましたが、救いがある世の中になるためにも、敢えて、
事実ではない場面、事実ではないけど、きっとこうあってほしい。だから、事実と事実の間に希望の光でもあり、もしこうだったら?をいれたのかなと。
そう、伝わってきました。
私は、福祉の現場に長年携わっているので
こんな世界があるんだとは思わないし、あんの家庭環境に遠からずな家庭環境を知ってるせいもあり、かなりフラットに見れたような気がします。泣いてるんだけど、頭がクリアで、監督や脚本の意図を最後まで考えながらみてました。
あんが束の間の間、ハヤトといた時間、そしてハヤトの歩く後姿に、あんの命と、そしてこの映画の全てが託されていたような気がします。少し浅はかな母親とハヤトの後ろ姿は、希望でもあり、不安要素でもある。本当にハヤトの母親が、ハヤトを置いていく可能性もあるからです。改心したように見せかけたのも、少し違和感を感じたのも、それを思わせるための演出?なのか、すごく複雑なんだけと、
全てが集約しているような…
そして、吾郎ちゃん演じる桐野の後悔と、佐藤二郎さん演じる多々羅の懺悔
そのシーンが、私達観客に突きつける。
私達には、何ができる?何ができない?
でも、ひとつ言えることは、無知から目をそらさず、知ることの意義。
なぜ、矛盾した世の中なのかを。
なぜ、理不尽なのかを。
そこにある問題は何なのかを。
世の中のごくわずかなのかも、本当はかなりいるかもしれない、あんのような女性の存在
見ぬふりして生きていくことも、
とことん向きあうことも正解ではないのかもしれない
知ることで、関わる事で、桐野のような後悔や多々羅のような懺悔をするかもしれない。
私は、自分が書いた物語を映画や舞台にしていきたい!
その時にいつもテーマというか、書きたいジャンルか定まらない、ファンタジーから、社会派まで、多岐にわたる。
でも、今日あんのことを見て、思った。
事実だろうか、フィクションだろうが
その世界観を知ってもらいたい。
その世界観を感じてもらいたい。
切り口も、表現の仕方も、知ってもらいたい世界観に合わせて。
伝えたい
例えば、私は、福祉の現場、特に障害の現場だと、最後は寛容になる、諦めとも違うし、ただ何度も繰り返しをしながら少しずつ上向きになり、その間に環境を整え、調整して、支援していく。
文章に書くだけでは、わからない
だから、エンタメにして、知ってもらいたい。
障害者の寛容とは何なのかを
そうやって、私の知っている事を表現として
エンタメにして、
伝わりやすくする。
また切り口はちがうが、きっと私が関わりを持った、snsの相談窓口も、開いただけで、
あんよりも、殺伐とした世界の住人がいたりする。
それはまた別のnoteから。